鬼鳴岬 8
御用猫が眼を覚ましたのは、東の空に朝陽が昇ると同時、まだ離れの建物が照らされる前の事であった。
「先生、起きた、おきる」
ぺしぺし、と肩を叩かれ、寝ぼける彼は、目を擦ろうと手を上げたのであったが、その両手は胸に跨る黒い悪魔の脚により、がっちり、と拘束されている様子なのである。
「む……黒雀……なんだ、まだ暗いじゃないか……先生、もう少しだらけていたいなぁ……」
擦る代わりに顔を背け、卑しい野良猫は再びに惰眠を貪ろうと抵抗するのだ。しかし、半分程に覚醒した頭は、彼の意思に反して周囲の状況を読み取り始め、薄手のシャツ一枚きりの胸の辺りには、黒エルフの少女から、熱と湿気が、じんわり伝わってくるのである。
「先生、あした早い、自分で言った、たのまれた」
「……おのれ、無駄にお利口さんであるな……でも、太陽と勝負する必要は、全く無いからね? 」
こうなれば、もう逆らうのも無駄であろうか、御用猫は抵抗を諦め、肘から先を畳むと、胸の悪魔の尻を叩くのだ。合図に合わせて腰の辺りまでずり下がる黒雀を、半身起しにて抱え込むと、小エルフは早速に首筋に吸い付き、彼の身体から、何がしかを吸い始めるのである。
それについては、もう何も言うことの無い御用猫であった、少しずつ明度を上げてゆく室内に目を凝らせば、大部屋の中に雑魚寝する皆の姿が浮かび上がる。
(ん、違和感の正体は、チャムが居ないからであったか……あやつめ、さんじょうが気に入ったのか? 流石、なかなかに、目が高い)
普段ならば、寝ながらに御用猫のシャツを食む卑しいエルフも、今日は別の枕を使用している様子であった。今も苦悶の表情を浮かべる、さんじょうの寝間着の下に、背後から両手を差し込み、ぴったり、と張り付いている。
さんじょうの胸の辺り、寝間着の布地が蠢いているところをみるに、本人だけは、何か楽しい夢を見ているのだろう。
「なんとも幸せそうではあるが……なんか腹立つな」
「ぐぇー」
黒雀を抱えたまま起き上がった御用猫は、卑しいエルフを踏み付けて移動を始める。安堵の息を漏らすさんじょうに手を振ると、彼は足音を殺して外に出てゆくのだ。
簀巻きにされているみつばちと、黄雀に抱きつかれる半裸のサクラは、見なかった事にした。
「んんっ、やはりオランは違うな、確かに暑いが、クロスロードよりも過ごしやすいか……潮風には、ちょいと慣れぬがな」
「しょっぱい、くせになる」
掛布のいらぬオランの夜であったが、寝ている間に海からの塩分が付着でもするのだろうか、何やら微妙に皮膚がべたつくような気もするのだ。それでも蒸し暑いクロスロードよりは、幾分かましであろうと、御用猫は片手で大きく伸びをした後、いつまでも彼に吸い付いたままの、大きな蝉の頭を撫でる。
ちなみに、昨夜は窓を開けたまま寝ているが、これだけの呪い師が揃っていれば、彼女のほかには、虫の一匹も侵入出来ないのであった。
「若先生、嶋村先生ならば、今しがた浜の方へ……お伴しても? 」
井戸の方から、木剣を二本、胸に抱えたリチャード少年が現れる。既に水浴びをして来たのだろう、相変わらずに、暗がりでは女性と見紛うほどの美形であるのだが、肌着から覗く肩口にも上腕にも、最近では男らしく、筋張った筋肉が張り始めている。
「なんだなんだ、昨日、盗み聞きでもしていたのか? 」
「いえ、きっと若先生ならば、嶋村先生への挨拶を、人目につかぬ内に済ませるかと思いまして」
悪戯っぽく問いかける御用猫に、リチャード少年は、花のような笑顔で返す。相変わらずの気の利きように、御用猫は笑うしか無いのである。
木剣の前に手渡された手拭いを掴み、御用猫は、井戸で水を浴びてから浜辺へ向かう。いつものように黒雀も洗おうとしたのだが、それは。
「若先生、あまり彼女を甘やかすのも感心しません、それでは自主性自立心の芽生えを邪魔してしまいます、呪いに頼らぬ生活を覚えさせるという、若先生の考えは、至極ごもっともですが、それは自力独力にて行うものだと僕は思います、なので、行水くらいは、そろそろ彼女に任せるべきでしょう」
「ふゆかい」
確かに、もっともな意見であるだろう。御用猫は口を尖らせる黒雀を残し、少年と共に浜辺へと歩き出したのだった。
「おはようございます、嶋村さん、挨拶の遅れた無礼、どうかご容赦ください」
「いやはは、そんな、ゴヨウさん、此方こそ、お久しぶりですよ、ですが、このような年寄りにね、かしこまった挨拶などと、どうかお気になさらず……と、言いたいところではありますが」
朝日の射し始めた浜辺にて、一人型稽古に励んでいた嶋村老であったのだが。頭を下げる御用猫に、人好きのする笑顔を返すと、しかし、そこに少しばかり意地悪そうな表情を浮かべてみせるのだ。
「今日は手紙の仇打ち、といきましょうか……うふふ、そういえばゴヨウさんとは、手合わせした事がね、ありませんでしたね」
「……意外と、根に持ちますね」
苦笑を漏らす御用猫に、リチャード少年が木剣を手渡してくる。何やら彼の顔には、期待と興奮のようなものも見て取れるであろうか。
「いざ」
「言っておきますが、寸止めですよ? 分かってますか? 分かってるんですからね? 表は優しげな顔して、あんたも相当に相当だって事くらい」
笑ったままの嶋村老は、しかし、彼に答えを返す事は、無かったのである。
「あたた……畜生、この狸おやじめ……あのな、寸止めってのはな、叩いてから止めるって事じゃ、無いからな? 分かってんのか」
「ふぅ、ふぅ……ふふ、うふふ、ですが、折れてはいないでしょう? なので、寸止めですよ」
機動を殺される筈の砂浜ですら、嶋村老の動きは軽快であった。もちろん御用猫とて、そういった技は心得ていたのであるが、やはり練度の違いというものが、圧倒的なのである。
とはいえ、田ノ上老やアドルパスとは違い、それなりに打ち合う事は出来たのだ。かつては二人と同格であった筈の嶋村老である、その衰えは、やはり、実戦から遠ざかった期間が長かった事に、起因しているのであろう。
「いや、しかしゴヨウさんは、なんともお優しい方だ……リチャードさん、分かりましたか? 彼がその気ならば、私は三回ほど死んでおりました」
「……俺は、十五回ほど殺されてたけどな」
肩をさすりながら、御用猫がぼやく。確かに、嶋村老の言う『寸止め』が無ければ、その通りの結果になっていた事だろうか。
「うふふ、実戦であれば、また話は別ですよ……いや、しかし、アドルパスやヒョーエが気に入るのも、分かりますねぇ……実に見事な剣ですよ……自分の衰えを、痛感する程に」
ふと見せた嶋村老の笑みは、どこか寂しげなものであったろうか。しかしそれは、言葉とは裏腹に、彼自身に向けられたものではないだろう。
嶋村ナリアキラという男は、自らの衰えを受け入れており、また、それが自然であると、充分に納得もしているのだから。
「……親父殿も、そう考えたのでしょうか? 」
「まさかまさか、ヒョーエは私とは違いますよ、うふ、なにしろ、あれが落ち込むのはね、あと十年、いや、二十年は先になりそうなのですからね」
アドルパスもね、と笑いながら、嶋村老は砂浜に腰を下ろし、自らの隣を叩いてみせる。御用猫は素直に従い、リチャード少年も、その横に正座した。
「少しばかり、昔話になりますが……お付き合いくださいますか」
寄せては返すオランの波は、彼の記憶を掘り出すものか、はたまた流しているものか。
その横顔を眺める御用猫は、珍しくも神妙な顔付きにて頷くと、ひとつ息を吐いてから口を開くのだ。
「手短にお願いしますね」
「わ、若先生! 」
笑いながらに、もちろん、と返す嶋村老であったのだが。
結局、その話は、サクラが朝食だと呼びに来るまで、続いたのであった。




