鬼鳴岬 5
「はぁ……おのれ、なんとも、符の悪い……」
「うんめい」
御用猫が片手で頭を抱えるのは、オランまで残り半日程の距離、石積みの眼鏡橋が有名な宿場町での事であった。もっとも、これは野良猫の健脚あっての事であり、馬を使わぬ旅人ならば、日の出過ぎから歩き始めて、丁度日の入り時分に到着できる道程なのである。
「先生、御用猫の先生ぇー、もう諦めましょうや、そもそも、おっちゃんの講談に聞き入ってた先生が悪いんですからね、わいは早く行こうと言ったはずでごぜーますよ、受け入れろよ、ワハハ」
「ごめんなさい、いつまでも細かい事を省みるのは、塵滓のする事ですよ、あ、先生も塵滓でしたね、興味無いから忘れてました、ごめんなさい、あと、早くお代わり注文してください」
野良猫の星、その巡り合わせの悪さを説明するのには、今日の朝方にまで遡る事になるだろうか。
あれから、コタン村での騒動に後始末を付け、オコセット達と別れの酒宴を開いた後に、御用猫は一路、オランを目指して歩き始めていた。
クロスロードよりも東寄りの位置に居たため、彼は悪路ではあるが距離の近い山道を諦め、観光客の為に整備された河沿いの主街道を南下する。その足取りは、やや、のんびりとしたものであったのだが、そこは旅慣れた御用猫なのである、卑しい荷物を後ろに背負っていたからとて、その足は常人よりも早く進めているだろう。
そしてオランの手前にある宿場町、ここは以前の仕事で素通りした場所であり、御用猫としては今回も、当然にそのつもりであったのであるが、通りの中央で氷菓を片手に客を呼び始めた講談師が『ロクフェイト』の名を出した為、彼は卑しいエルフに棒状の氷菓子を与える羽目になっていたのだ。
六柱の神から、運命と名を与えられたと言われる、伝説の勇者ロクフェイト、およそクロスロードに暮らす者ならば、誰もが耳にするその英雄譚、それは幼い子供に読み聞かせる絵物語ではあるのだが、幼少期に、そういった経験の無い御用猫は、随分と後になってから、その存在を知ることになり、そのせいか彼は人よりも、随分と夢みがちな所もあるだろう。
この宿場町の名所である眼鏡橋も、その伝説に登場する場所の一つであった。かつて魔王との激しい戦いがあり、オランは一度壊滅した事がある、余勢をかって進撃する魔王の軍勢は、海坊主と呼ばれる恐ろしい怪物を先頭に千川を遡り、クロスロードに攻め入ろうとしたのだ。
それを迎え撃ったロクフェイトと仲間達は、怪物に怖じけた騎士団を鼓舞する為、この眼鏡橋に雷鳥の御旗を高く掲げたというのである。『錦旗橋』と呼ばれるこの橋には、今も欄干に小さな英雄の像が据えられていた。
「ほほぉ、そうか、あの像には、そういった由来があったのか、いや、通る度に気にはなっていたのだ、そうかそうか、納得がいった……しかし、海ぼうず、か……ふむ、未だ知らぬ話もあったのだな……今度アルタソに揃えてもらおう」
子供達に混じり最前列の御用猫は、腕を組んでしゃがみ込み、ひとり何度も頷くのであった。興奮気味の彼に賛同するのは、まだ幼い者たちばかりであり、少し年嵩の男の子達は、既に聞き飽きていたのだろう、熱のこもった語りよりも、氷菓の方が目当てである様子なのだ。
「先生ぇ、御用猫の先生ぇー、早く行きやしょう、お腹が空いたでごぜーますよ、晩御飯はオランの海鮮鍋だとゆーたでしょう? 日が暮れますよ、そんなエセ勇者の話はどーでも良いでしょうよ、どうせ勇ましい伝説は嘘八百ですわ、本人はヒィヒィ言いながら転げ回してたにちがいねーでごぜーますよ、きっとドドンカンでドシスコンな変態野郎に決まってますわ」
「なんだと、何を言ってるのかは分からんが、いい加減な事を言うな、作り話がここまで広まるはずも無いだろう、それに、今こうしてな、貴様のように卑しい生き物がのうのうと暮らしてゆけるのもな、彼が怪物を退治して回ったからなのだぞ」
御用猫の反論に、小さな子供たちからも同意の声が上がる。気を良くした彼は子供達に氷菓子を振る舞い始め、そこから更に英雄談義に花が咲く、気が付けば、既に西日は赤く染まり始めていた。
「まぁ、そう腹を立てるなよ、明日は昼飯から豪勢にしてやるから、な、おチャムさんよ、そろそろ機嫌直せよ」
「いんや、許さへんぞ、プンスコでごぜーますわ、ここらの宿は観光客相手のぬるい飯を出すから嫌だって言ったでしょ、貴方はいつもそう! 自分の都合ばっかりで、ケンカになっても、何かプレゼントすれば解決するだろうって、簡単に思ってる! 女の子の気持ちなんて、考えた事も無いんでしょ! もう知らない! 」
「面倒な女かよ」
卑しいエルフの小さな口に、大量の肉をねじ込み、その隙に御用猫は猪口を傾ける、もう随分と手慣れた餌付けであるのだ。今は黒雀が居ないので、彼にも多少の余裕は生まれるだろう。
「……よ、これはな……簡単な……ごと……」
だから、という訳でも無いのであるが、彼の耳は気になる言葉を捉えていた。いや、気になったのは、その者らの風体であろうか。
いかにも柄の悪そうな三人組が、一人の剣士に話しかけている、その距離感をみれば、元々の知り合いという訳でも無いのだろう。こうなれば野良猫の得意技、食事時で混み合う店内ではあるのだが、少しばかり離れた隅の席から、集中して必要な音声だけを拾い上げるのだ。
彼らは確かに、当たり障りのない仕事の話をしているようなのだが、この様子から察するに、決して、まともな『仕事』ではあるまい。しかし、御用猫は記憶の中から賞金首の顔を幾つも思い浮かべ、その面相に心当たりが無いと知ると、急速にその興味を失ってゆくのであった。
(首代が無いのならば、余計な真似はすまい……今は気も乗らぬしな……ま、詰所に報告くらいは、構わんだろうが)
所詮は卑しい野良猫なのである、飯の種にならぬならば、彼は本来こうした男であったのだ。しかし、なかなかに腕の立ちそうな剣士が頷き、三人の荒くれ者と立ち上がった時、最後に漏れ聞こえて来た声が、彼の運命を決める事となる。
「なあに、任せておくれよ、倉持商会は新参だが、潰れかけの西オラン海運を安く買い取ってから、どんどん儲けてるって話さ、なんで、俺らが、ちゃあんと『口利き』してやるから、さ」
やはり端からきけば、ごく普通の会話であろう、しかしながら、この場合の『口利き』というのは、押し込み強盗の使う、古い隠語であったのだ。もちろん、至極真っ当な仕事の斡旋という可能性もあるのだろうが、オランならばともかく、この様な場所で声を潜め、怪しげな男達が用心棒を探すなど、少し考えれば不自然だと気付く筈なのである。
「ぐぅ……おのれ、今は盗賊の類いなど、関わりたくも無いというのに……」
カンナの商会を狙うとなれば、見過ごすわけにも、騎士団に頼る訳にもいかないだろうか。下手に知らせて取り逃がしたとなれば、後々の禍根になるやも知れぬし、何より御用猫は、形の上だけとはいえ、倉持商会の用心棒も兼ねているのだから。
「先生、おそい、きた」
「ごめんなさい、みつばちに言われて迎えに来ました、向こうに居たら食費が嵩むから、だそうです、相変わらずけち臭い女ですね、あ、先生もけちでしたか、興味ないから忘れてました」
頭を抱える御用猫の隣に、いつの間にか二人のエルフが現れる。
「おのれ、なんと……おのれ……」
よちよち、と膝の上に移動してくる黒い悪魔の頭を撫でながら、手が空くのはこれが最後であろうかと、御用猫は片手で額を押さえたのであった。




