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鬼鳴岬 4

 老剣士二人が、その鋭き嗅覚にて辿り着いた先にあったものは、しかし血湧き肉躍るような戦の宴といった訳でもなく、夏のオランでは何も珍しくないであろう、若い酔客達の単なる喧嘩であったのだ。少々滾った心から、何か空気の抜けるような思いにて、田ノ上老は、その足を緩めた。


「はぁ、ふぅ、これは、ただの喧嘩でしたか、少々、人数は多いようですが……どうしますか? ヒョーエ」


「ふむ、そうじゃのう、互いに得物があるわけでもなし、あれ程に酔うておっては、腰も入らぬであろ……つまらんな」


 すっかりと興味を失ってしまった様子の田ノ上老は、浜辺の端で小突きあいを続ける十数人の男女を、腕を組んで眺めるばかりである。双方共に、かなりの飲酒量であるらしく、唾を飛ばして口汚く罵り合い、掴み合い、猫の様な叩き方にて、相手を攻撃しているのだ。


「また、そんな事を言って……リチャードさんの悪い見本にならないでくださいよ? あの子はヒョーエの事も、それはもうね、尊敬している様子なのですからね、ヒョーエは昔から、感情の起伏が激し過ぎるのです、剣士は如何なる時も、戦時においてこそ、波立たぬ湖面の如き……」


「あぁ、やかましいのぅ、悪い見本ならば、うちには猫がおるのだ、あれに心酔しとる内はな、奴の将来は決まっておるのだ……それより、お主こそが、その腹をどうにかせい、だらしのない、ぶよぶよと弛みおってからに、それこそ悪い見本であるだろう」


 小舅の如き口煩さに辟易したものか、田ノ上老は丸狸の腹を乱暴に揺すると、宿で飲み直す為に踵を返したのだが。


「おらおらぁ! なんじゃぁ! うちの若いもんに手ェ出しおって、お前らどこのもんじゃい! 」


 一際大きな怒声を撒き散らし、別の男達が現れた。おそらくは地場のやくざであろうか、年嵩の男が三人ほど、浜の砂を捲き上げながら駆け込んでくる。


「おや、助っ人ですか、しかし、これは良くない、みな刃物を持っている様子……ヒョーエ、止めに入りましょう」


「あぁ、仕方ないのぅ……ナリアキよ、お主はここで待っておれ、丸い旦那さまに怪我でもさせてしまえば、また、アザレに叱られてしまうからのぅ」


 悪戯っぽく笑う田ノ上老であったのだが、これは、まるきりの冗談という訳でもないのだ。嶋村老の恋女房であるアザレという女は、ふた回り以上も年下であるのだが、少しばかり夫に入れ込み過ぎている様子であり、久方ぶりに再開した旧友にさえ、飲みの誘いが多いと文句を言っては、夫の肉を摘み、まるで少女の様に拗ねてみせるのである。


 その、余りに素直で幼稚な甘えぶりに、田ノ上老の妻であるティーナも、何か感銘を受けたのか、ここ最近は夫に張り付き、夜の誘いもしてくるほどであったのだ。


「あのねぇ、ヒョーエ……あっ」


「む、なんじゃ、あれは」


 気楽な調子にて軽口を叩きながらも、二人は喧騒に意識を向けていたのであるが、歴戦の古強者たる彼らが目に留めたのは、ひとりの老人。


「おらぁ! 餓鬼が! 粋がりおって! どっから来たか知らんが、オランで好きに出来ると思うなよ! 」


 一体どのような技であるものか、砂浜を滑るように移動した老人は、手にした長ドスを抜きもせず、鞘のままに叩きつけては、酔客達を転がしてゆく。確かに少々体格の良い男ではあるのだが、歳は田ノ上老たちよりも上であろう、適当に剃りあげたまま放置してある禿頭には、みすぼらしく白髪が色を付け、皺の入った浜染めのシャツに茶色の膝丈ズボン、いかにも浜のやくざ、といった出で立ちであり、例え酔った素人相手とはいえ、このような大立ち回りが出来るとも思えない。


「あれは、行歩法(ぎょうぶほう)? なかなか様になっていますが……やくざの用心棒でしょうか」


「いや……まさかな……しかし……ナリアキよ、ちょいと気配を断て、もう少し近付いてみたい」


 ちょいちょい、と指で合図し、彼らは集団に近付いてゆく。本気の二人が気配を消したならば、余程の達人でもなければ、その存在を察知する事は叶わないのだ。


「おらぁ! おらぁ! みたか、こいつらめ……ふぅ、はぁ……おい、全員連れて行け、頭がはっきりしてから、詫び金の話をつけようや」


「あぁ、キネンさん、ありがとう、うっぷ……こいつら、俺らが先に声かけてたのに、女を横取りしようとしやがって……」


「てめぇらも! 情けねェんだよ! いつまでも餓鬼のままでいるんじゃ無ェ! 」


 ごすっ、と若い男に拳骨を落とし、白髪の老人は、がに股いかり肩にて、どすどす、と浜を踏み鳴らす。どうにも、余程に短気な老人であるようだ。


「おら、さっさとしろ! 人が、せっかくに気分良く飲んでたってのに、台無しにしやがって! 親分さんにも、駄賃は弾めと言っとけよ! 」


 ぶつぶつ、と何事か文句を言いながら、老人は浜の中心、海蛍の方へと戻ってゆくのだ。少ないながらも見物していた野次馬達が、疎らな拍手と感嘆の声を漏らしてはいたのだが、彼は、それにも噛み付きながら、のしのし、と歩き去ってゆくのだ。


「……ヒョーエ、まさかとは思いますが……いや、確かに、キネンと呼ばれてはおりましたが……」


「うむ……そう言われてみれば、どこか面影もあろうかの……いや、しかしのぅ……」


 かじりつきにまで距離を詰めていた老剣士二人は、しかし、先程まで思い出話に登場していた男との奇妙な再会を、喜ぶような様子も無いのである。しかしこれは、かつての師範代が、やくざの用心棒にまで身を落としていたのを目の当たりにしたから、という訳でも無いのだ。


 彼らは、あくまで剣士なのである、二人の師であった『剣聖』クンタラ マヌマスも、身嗜みなどからは遠く距離を置いた人物であり、弟子が手を焼かねば散髪はおろか、風呂にも入らぬような男であったのだ。なので、田ノ上ヒョーエと嶋村ナリアキラ、二人の男が、こうまで消沈してしまっていたのは、他に確かな理由があり。


(なんと……鈍い……あの、キネン グリンゴが……鬼と呼ばれ恐れられた、クンタラ道場の一番槍が……いくら老いたからとて、あのような愚鈍に成り果てるものなのか……)


 それは、かつて恐れた偉大な兄弟子が、まるで道場の雑巾掛け程の、幼稚な剣振りを見せていた事に対する、失望感であったのだ。




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