恩剣 三度笠 16
薄く射し込む夕暮れの陽光と、先程までの戦いで流れた血が、世界を上下から赤く染める。ただ二人だけの戦場ではあったのだが、男達の間に流れる空気は殺伐としたものを超え、何やら清涼感すら覚えるだろうか。
太陽に背中を向けるのは、奇剣奇足の元渡世人、刀郷。重心を自らのものである右足に預け、その拠り所であるはずの松葉杖は、普段よりも少しばかり前に突かれていた。
(上段に大きく待ちの構え……なんと、羨ましいでござんすね、堂々として、いらっしゃる)
迎え撃つのは御用猫、黒髪黒目、向こう傷、天下御免の卑しい野良猫である。彼は落ち着いた息遣いにて、ただ、どっしりと構えているのだけなのであったが、対峙する刀郷にしてみれば、それは余裕にすら思えるのであろう、重くのしかかる重圧に、吐き出す息は荒く短くなるばかり、早鐘のごとき心臓の鼓動は、失った筈の手足にまで、血液を送り込むかのような勢いであったのだ。
(なにお、恐る事はござんせん、猫さんには、まだ見せてないのでござんすから)
刀郷には、二つの隠し玉があるのだ。
ひとつは、松葉杖の先に仕込んだ槍の穂先、持ち手をずらして押し込めば、たちどころに飛び出す仕組である。ただ、真正直に打ち込んだところで、目の前の剣士に通じぬであろう事は、彼自身、重々承知しているのだ。所詮はやくざな流れ者、やはり、本物の剣士とは格というものが違うだろう。
なので、刀郷は偽装する。右の腕剣を顎の前に構え、肩を入れ込んで捻りを加える、肘から先の無い彼の腕、身体の捻転を利用しなければ、強い斬撃は放てないであろうと、間合いは短い筈であろうと、相手に思わせる為であった。
(間合い……間合い……それさえ、間違えなければ、恐れなければ……震える足は、もう、一本しかござんせん! )
奥歯を噛み締め、刀郷は前に出た、恐怖を噛み殺し、死地へと飛び込むのだ。今まで、ずっと、彼はこうしてきた、およそ荒事には向かない温和な性格の彼が、やくざな渡世人として生きてきたのは、それしか生き方を知らなかったから。
「御免なすって! 」
松葉杖を地面に突き込み、刀郷は前に出た。そして、御用猫が予想しているであろう攻撃範囲の手前で腕を振るうと、その反動にて、仕込み杖を突き出したのである。
杖と胴体、そして右脚、それらを一直線に結び、まるで、自らを一本の槍と化したかのような突き。地面を踏みしめ、全身の力を穂先に集めるのだ、これは、槍術としても高度な技術である、日々の修練と天性にて、彼が自然に編み出した技であった。
しかし。
(抜ける!?なぜ、届かな……)
ぴん、と伸びた刀郷の槍は、御用猫の戦闘服に触れる寸前、その力を霧散させる。だが、これは決して間合いの読み違いなどでは無く、目の前の男が、微動だにしていなかった筈の黒い剣士が、僅かに後退していたからであったのだ。
上体を揺らさず、足指と足首を捻りながら移動する、この技は、カディバ一刀流『蛇腹』と呼ばれるものである。
「倒ッ!!」
掛け声と共に、御用猫の愛刀、井上真改二が振り下ろされる。些かも手心を加えた様子の無い、これはまさに必殺の剣であった。
だが、刀郷の目に、諦めの光は灯らない。伸び切った膝を腹に寄せ、地面に突いて支えとするのだ。
これが、彼の最後の隠し玉、刀郷の三度笠には内側に鉄鉢と、そこから伸びる鉄筋の骨がある、鉢金で敵の刃を受け、外に流して攻撃をいなす為に、彼が改造したものである。
杖での突きは不可能だが、こうなれば間合いの短い腕剣が本領を発揮するだろう、堪えたのちに膝を伸ばし、身体ごとぶつかるようにして、相手の胸を貫くのだ。
ごっ、と鈍い音が響く。
それは、刀郷の脳天から尻に抜けるような感覚と共に、彼の中心を走り抜け、次の瞬間には、まるで、引いた波が寄せ返すように、喉の奥から、熱を持った液体を遡らせた。
「……ぶふっ」
全身から力の抜けた刀郷は、前のめりに倒れ込む。その腕剣が御用猫の胸に触れたのは、おそらく、唯の偶然にすぎないであろう。
野良猫の刃は、裏返されていた。峰で打たれた一撃は滑る事なく、その衝撃を全て、刀郷の脳天に伝えていたのだ。
「……ぞこ……ぞごまで……わがっで……ござ……」
「……同類だと言ったのは、お前であろう」
野良猫は、無表情であった。
しかし刀郷は、今まさに自分を殺した人間の目に、同情や憐れみの感情が僅かも浮かんでいない事を知ると、むしろ、奇妙な安堵感を覚えていたのだ。
(この方は……あっしと、違う……)
いや、彼が安堵したのは、その、望まぬ人生が、ようやくに終わりを迎えた事を、知ったからであろうか。
「……ねご、ざ……おねが、が……ノーラざん、には、だまっ、て……」
「……知らぬままに、か? それはまた、勝手な話だな……奴に、納得のいかぬまま生きてゆけと、そう言うのか」
「……わがまま、わがまま、で、ござ……きらわれ、だぐ、ござんせん……」
刀郷の亡骸を見詰める御用猫は、しばし無言にて佇んでいたのだが、愛刀を腰に納めると、彼に背を向けた。
墓穴を掘るためには、その手に鍬を持つ必要があるのだから。




