恩剣 三度笠 12
「ふざっ! ふざけんな! なによそれ、何のつもりよ!!」
洞穴が割れんばかりの絶叫は、三つ編み少女、ノーラの発したものであった。半ば涙目のままに拳を振り上げたのだが、しかし、それを叩きつけるはずの卓袱台は、なんとも頼りないものであり、彼女は、いーっ、と悔しげに歯を剥き出すと、スカートの上から自らの太腿を叩いて、それに替えたのだ。
「まぁ、そう騒ぐなよ、少し落ち着け……こんなのは、今まで何度もしてきた事だろう? 」
「煩い! あんたは味方だと思ってたのに! やっぱり同じだよ、みんな、大人はおんなじだ! 先生の事なんて何とも思ってない! 私にだって、身寄りが無ければ何しても……」
その長い三つ編みを振り回し、怒りと興奮のままに、まくし立てていたノーラであったのだが、何やら突然に言葉を切ると、悔しそうに視線を外すのである。
「ノーラさん、ありがとうござんす……ですが、あっしの事なんて気にするこたぁござんせんよ、猫さんの言うとおりだ、これは今までと同じ……そう、全く同じでござんすから」
四人分の昼食を用意し、最近は賑やかである洞穴に、随分と機嫌を良くしていたノーラであったのだが、御用猫の持ち込んだ村の決裁を耳にすると、途端に火を噴き、割れ声を響かせていたのだ。しかし男衆はふたりとも、それとは対照的な落ち着きようであり、一人は湯呑みで、もう一人は茶碗にて、食後の薄い豆茶を楽しんでいた。
「代用茶も馬鹿にはできんな、意外と美味いじゃないか……まぁ、そこらの雑草が役に立つんだ、便利といえば便利だろうが……手近に本物があるならば、誰にも見向きは、されないだろうさ」
「何それ、どういう意味……まさか先生の事を言ってるの! 」
刀郷の言葉に、一度は腰を下ろしたノーラであったが、卑しい野良猫の不用意な発言は、再びに彼女の怒りを燃焼させてしまったようだ。
「あぁ、まさに、そういうことさ……なにかと便利な傘の先生はな、こちらとしても美味く利用したいのだが……」
湯呑み越しに向けられる野良猫の卑しい視線を浴びて、ノーラの目尻が吊り上がる。だが、彼女が叩きつけようとした罵声は、他ならぬ刀郷の左手にて遮られてしまうのだ。
先を促すような彼の片視線を受け、御用猫は再びに口を開く、もっとも、野良猫の方の目線といえば、湯呑みの中に注がれていたのだが。
「うむ、そうだな、正直なところ、利用したくはあるのだが……まぁ、所詮は代用茶だ、無くなったところで誰も気にはしまい……もちろん、たまに物好きも居るであろうが、そういった奴はな、無くなってもな、自分で勝手に探しに行くだろうさ」
「なんだ、また、そのお話でござんすか、そんな気は無いとか言っておいて、ふふ、猫さんは、よいよの嘘つきでござんすねぇ」
何か腑に落ちたような刀郷の笑みは、実に柔らかなものであった。温和そうな声と優しげな瞳の元渡世人は、いかに旅慣れ、東方で過ごした事もある御用猫だとて、彼が荒くれていた時代、その、やくざな過去について、思い描く事すら叶わないのである。
しかし。
(これは、なんと固い……まるで綿に包まれた岩のような……全くに、生き方を変える気はないのだな)
破れ傘の、彼の考えを変える事は不可能である。もしもこれが、単に、雨が抜ける程に壊れてしまったというだけならば、まだ直す事も可能であろう、だが、刀郷という男の傘には、端から骨が存在しないのだ。
彼の心には、ただ、一本の芯があるだけ。
それは彼の拠り所である。また、それこそが彼の礎であり、矜持であり、男の尊厳であるのだ。
「……ノーラさん、あっしは猫さんとは違う、嘘が嫌いでござんすよ……今まで受けた恩義は、大変なものでござんす、これは必ず返すものでござんす、そして、あっしに張れるものは……この命しかござんせん」
きっぱりと放つ刀郷の言葉に、ノーラの両目からは涙が溢れるのだ。これ以上、彼女にできる事は何もないだろう、所詮、流れ者は流れ行くのみ、途中で岩に掛かったとて、いつかは外れ、流れに戻るだけなのだ。
「けど……けど、先生……そんな身体で……今度こそ、しんじゃぅ……いやだよ、わたしは……刀郷さんのこと……」
消え入りそうなノーラの声も、涙に流され届かない。
「ノーラさん、あっしは、産まれて此の方ひとりでござんした……なんで、ひとりで生きて、ひとりで死ぬんです、ただの生き任侠でござんすよ、そんな男だ、所帯なんぞ考えた事もありやせんが……」
くい、と刀郷は、茶碗に残る最後の豆茶を飲み干し、光の届かぬ部屋の隅に身体を伸ばすと。
「……良い夢を、見させて頂きやした」
手にした三度笠で、その顔を隠したのであった。




