うで比べ 1
王都クロスロードの東町に、マスカンヴィット伯爵という貴族がいる。彼は国家としてのクロスロード、その東部を収める地方領主達に対して、軍事的な指導と査察を行う立場であり、王宮でも中々の発言力を有する男であった。
マスカンヴィット伯爵は三十年前の北嶺戦役にて活躍した武将でもあり、還暦を過ぎてなお壮健な肉体と魂は、そこらの惰弱な貴族連中を震え上がらせるのに充分な物理的圧力と、精神的威圧感をも兼ね備えていたものである。
もっとも、彼自身の人生を振り返ってみれば、あまりにも波乱万丈であり、それにとって代わりたいと思う者も少ないであろうか。
「ふぅん、なんか立派そうな人ですね」
「いやセンセ、頼むから話は最後まで聞いておくれよ」
「そーよ、あからさまに興味無いって顔つきじゃんよ、でも面白いのはこっからなんだからさぁ」
東町貴族の半生を語り聞かせる男二人と、それを聞き流す男が一人、テーブルに向かいあい、昼間から酒と料理を楽しんでいた。ここはクロスロード南町の『マルティエの亭』と呼ばれる店である、まだ若い赤毛の女将マルティエが切り盛りする隠れた名店であり、その味の虜になったものは身分年齢問わずに数多い。
「まぁ聞くよ? 聞くのは聞くよ? 俺も暇だし、予定も無いし……だけどな、ごめんだからな? 」
くい、と清酒の猪口を傾け、アジの刺身に舌鼓を打つのは、黒髪黒目、中肉中背、年の頃は二十代半ばといったところか、顔面を斜断する刀傷の他には、取り立てて特徴の無い男、賞金稼ぎの御用猫である。
「うわ、出たよ、猫のセンセの『いやどす』芸」
「いや、今回は良いんじゃね? おいらは支持するよ? だって、その方が楽しいし」
テーブルを挟み、御用猫の前で小突きあいを始めたのは、同年代と思われる若い騎士二人、金髪の美青年ウォルレンと、赤髪の好青年ケインであった。二人共に東町の『青ドラゴン騎士団』に所属する正騎士ではあるのだが、どうにも世間一般の思い描く理想の騎士像からは、遠く距離を置いている存在であろうか。
「はぁ、やはり面倒ごとであったか……まぁ、俺も暇なのは本当か、いいよ、とりあえず話してみろよ」
「さっすが、猫のセンセは話が分かるわー、女にかまけて腑の抜けちまった誰かさんとは大違いやで、ほんま」
「おい、人聞きの悪いことは言うんじゃないよ、俺らが腑抜けなのは元からだろうよ」
わかる、と肩を組んで笑い始めた二人の頭をはたき、御用猫は話の続きを促すのだ。
もちろん、聞かなければ良かったと後悔するのは、いつもの事ではあるのだが。
マスカンヴィット伯爵は、真面目で人情味あふれる好漢であった、家族を愛し、良き友人に囲まれ、幸せな生活を送っていた、仕事にも熱心で、当然に周囲からの評価も高い、まさに手本となるべき貴族の在り方であると言えるだろう、だがしかし、それ故に敵も多かったのか、ある日のこと、帰宅した彼を迎えたのは、愛する家族の無残に変わり果てた姿であったのだ。念入りに拷問されたと思われる死体の上には『天誅』とだけ書かれた羊皮紙が、短剣にて妻子の頭に固定されていたのだ。
そのような悲劇を体験してなお、気丈にも公務を休む事すらなく、普段と変わらぬ日常を過ごしていたマスカンヴィット伯爵であったのだが、やはり、どこか生きる活力とでもいうものが失われていたのであろう、口数は減り、表情も冴えず、肉体的にも精神的にも、みるみると痩せ細っていくようであった。
彼の身を案じた友人達は、再婚などを勧めてみたのだが、愛妻家であった伯爵は、それに応じる事も無く、まるで、そういった話を疎むかのように、休日を外で一人過ごすようになったのだ。
しかし、そんな彼に転機が訪れる。足に任せてふと立ち寄った裏口屋で、一人の奴隷を目に留めたのだ、普段ならば気にかける事もない光景であったのだが、その裏売買されていた森エルフの奴隷少女は、彼の亡くなった末娘と、まさに瓜二つであったのだから。
全財産を投げ打つ勢いで購入したその少女は、名をジッタンビットと短く告げた。その響きからも何か奇妙な縁を感じたマスカンヴィット伯爵は、少女を館に連れ帰り、養子として育て始めたのだ。
最初こそ友人や召使い達から、伯爵は遂に気が触れたのでは、と疑いもされたのだが、彼の森エルフに向ける愛情は、まさしく娘に向けるそれであり、半年も過ぎた頃には、伯爵は娘に似た美しい森エルフを、慰み相手にしているのでは、などと、いやらしく邪推する者すら居なくなっていたのだ。
とはいえ、所詮ジッタンビットは森エルフなのである、クロスロードの中堅貴族が森エルフを正式な養子にする訳にもいかず、このままでは栄誉あるマスカンヴィット家も今代限りかと思われていた。
「あぁ、このような事は考えたくもないのだが、もしも、お前の耳が短ければ、などと思う父を許しておくれ、ジッタンよ」
愛娘の頭を、どこか寂しげな表情にて撫でる伯爵を前に、森エルフの少女ジッタンビットは、黙って笑顔を返すと。
「はい、お父様、これで」
おもむろに自らの耳を両手で握ると、なんたる事か、それを無造作に引きちぎったのである。
マスカンヴィット伯爵は、目と口を裂けるほどに開ききると、きつく娘を抱き締めて、謝罪しながら一晩中に号泣したのだ。
「ほぉん、なに、なんか良い話じゃないの」
「せやろ、涙ちょちょぎれるわ」
「……お前らは、実物を見てないからな」
何か感心したように顎をさする御用猫と、大仰に頷くケインをよそに、ひとりウォルレンの表情はすぐれない。
「というかな、その話にも続きあってね、ジッタンビットは自分でちぎった自分の耳を、勿体ないからとか言って、その場で食べちゃったそうなのよ? 生でよ? こわくね? 怖いよね」
「ある意味、倹約家じゃん? 案外と良い奥さんになるんじゃないの? あと、何となく察してきたわ、ワハハ」
「猫の先生、ウォルレンの奴ね、あんまりにもお見合い断り過ぎて、ついに地雷原に到達したってんだから、うけるよね、ワハハ」
考えてみれば当然であるのだが、どうやらウォルレンには、見合いの話も数多く持ち込まれているそうなのだ。年齢的にも適齢期であるし、何より見た目だけは大層な美形なのである、下級貴族ゆえに夜会に参加する機会こそ少ないのであるが、その評判が広まっていても、何ら不思議ではないだろう。
「だからさー、何とかして欲しい訳なのですわ、センセの力でね、ちょちょいとね」
「やだよ、馬に蹴られたくはないからな」
にやにやと笑いながら、友人の苦境を肴に酒を呷る御用猫であったのだが。
後悔するのは、もう目前、僅か先の事であったのだ。