恩剣 三度笠 2
「あれ? 猫の先生はいねーの? 」
「おはようございます、クラネ、若先生ならば、もう出立されましたよ、僕もサクラ達を待って向かうつもりですが」
ぼちぼちと練習生の集まり始めた田ノ上道場の中庭、屋外稽古場の隅、ひとり棒振りに励むリチャード少年に声を掛けたのは、クラネという、これまた若い男子であった。最近になって道場に通い始めた門下生であり、リチャード少年よりも二つばかり年上だとは言うのだが、灰金髪を短く刈り込み、いかにも生意気そうな目付きと言葉遣いは、下手をすると彼よりも歳下に思われてしまうであろう。
「なんだよ、珍しく長居してるみたいだから、今日は手土産にアジをくすねてきたのに」
「クラネ……まさかトウタの籠から、黙って持ってきたのではないでしょうね? 」
きゅっ、と細められたリチャード少年の眼を確認し、クラネは何か、面倒くさそうに後頭部を掻き毟る。
「ちげーよ、これはトウタがさ、ドナさんにあげる分だったんだけどな……先生とチャムが居ないからって、断られてやんの、笑えるだろ」
どうやら魚売りの贈り物は、味見係の不在によって、宙に浮いてしまったようである。今は互いを相棒に、倉持商会で棒手振りをしている少年二人であるのだが、かつての暮らしよりも、僅かばかり余裕も生まれているのであろう。
「それは……申し訳ありません、僕の勘違いでした」
「あぁ、ああ、いいよ、真面目君に冗談言った俺も悪かったし……ならこれ、サクラに渡しといてくれ……あ、あいつも居ないのか、まぁ良いか、あとで適当に捌いとこう」
藁とシダの葉で包まれた魚を、クラネは無造作に物干しに吊り下げた。朝方とはいえ、そろそろ熱気も上がってきているのだが、彼の呪いによって中身の鮮度は保たれている。
「しっかし、トウタの奴も物好きだよなぁ、ドナさんも、顔は結構、可愛いんだけどな……でも、あれはちょっと、キツ過ぎないか? 」
「それは、人の好みでしょう、ですがドナさんも、素敵な方だと思いますよ」
当たり障りのない返答を返しながら、リチャード少年はクラネに予備の木剣を手渡した、これは素振り用の、通常より太いものであるのだが、握りの部分はすり減って、赤黒く変色している。田ノ上道場には、こうした年季入りの木剣が、いくらでも転がっているのだ。
「相変わらず、つまんねー回答ですね! ちなみに、リチャードの好みってのは、どんなのさ? というか誰なのさ」
少しだけ、クラネの瞳に警戒の色が映し出される。彼が何を思って問うているのかは不明であるが、少なくとも、この、目の前の美少年に選ばれたならば、断る女性が居ようはずもないのだ、リチャード少年の好む女性とは、それ即ち、後の恋人に他ならないであろう。
「いいから、手を動かしましょう、そんな事では、またハルヒコさんに怒られてしまいますよ? ……今のうちに、少しでも心証を良くしておいた方が、良いのではありませんか? 」
「お、おい、それ、どーゆー意味だよ! 俺は別に、クラリッサさんがどうとか、そんなこと言ってないだろ! 」
思わず吹き出す少年の横で、素振りをしながらに途切れる事なく、クラネが言い訳と墓穴を広げてゆく。
常人を遥かに凌ぐ『韋駄天』の呪いを遣う事のできるクラネは、田ノ上道場に通う騎士達さえも翻弄してみせた。当然に、少々増長していた彼であったのだが、その自信は、道場の留守を預かる師範代、鬼のハルヒコと『鉄騎』ハボック ヘェルディナンドの二人によって、粉々に打ち砕かれてしまったのだ。
その際、自信と共に打ち砕かれる筈であった全身の骨を、すんでのところで守ってくれたのが、ハルヒコの娘であるクラリッサだという。以来、たまに訪れる彼女を目当てに、クラネは今日も真面目に稽古を重ねていた。
「ですが、クラネが居てくれるのは本当に助かります、ハルヒコさんも家事は不得手ですし、若先生に付いてサクラがオランに行くと言い出した時には、僕も居残りを覚悟していたのですが」
「……まぁ、それくらいなら……俺は知らないけど、リチャードだって大先生と奥さんにも会いたいだろ、それに、こっちにだって、悪い話じゃないっていうか……」
ふん、と顔を背け、クラネは振りに力を込める。まだまだ短い付き合いではあるのだが、態度と口の悪いところ以外は、至って善良な人間であろうと、リチャード少年は、その察しの良さにて見抜いていたのだ。
「ふふ、将を射んと欲すればまず馬を、娘を欲するならば、まずは父親から、でしょうかね」
「おーまーえー! 」
ついにクラネは、リチャード少年に向けて木剣を振り下ろす。笑いながらにそれを受けた少年は、一足早い地稽古を始めるのだ。
「ほう、朝から熱心であるな……よし、熱い内に叩くとするか! 皆、走り込みと素振りは後だ、剣を取れ! 身体の固い内、心の決まらぬ内に戦う稽古も、これは必要な事である! 手空きの者から私が相手する、即座に、かかれ! 」
練習生からの返事は、勢いも良く、見事に揃ったものであったのだが。
彼らの内心は阿鼻叫喚の地獄絵図であり、おそらく、今日の稽古では、少年二人が狙い打ちにされるであろう事は。
火を見るよりも、明らかであったのだ。




