うで比べ 16
田ノ上道場の稽古場にて、御用猫が天井を見つめているのは、決して夏の日差しから逃げている訳ではない。
ジッタンビットとの手合いから数日、足の早い初夏の朝陽と共に現れたのは、陽光と見紛うばかりの赤髪と、陽炎のごとき覇気を纏った巨漢『電光』アドルパス ゼッタライトであったのだ。叩き起こされた途端に悲鳴を上げた哀れな野良猫は、サクラに引き止められて長居してしまった事を、心の芯から後悔したものである。
「うぐぐ……あの熊おやじめ、さては人を使って、鬱憤を晴らしに来たものか……」
「天網恢恢疎にして漏らさず! ええ、これはまさに自業自得なのです、毎日毎日、ゴヨウさんがだらしないから、ばち、が当たったのでしょう、これを機に普段の行いを改める事ですね! まったく、リリィ様もみつばちも、ゴヨウさんに甘すぎるのですから、人を甘やかすばかりでは成長する筈もないのです、まったく、まったくです、ゴヨウさんには私が居ないと、三日で万年床のようにカビだらけになってしまうのですからね、ですからね! 」
ふんこふんこ、と鼻息だけは勇ましく、サクラが近づいてくる。しかし、彼女とて足を引きずり、卑しい薬箱を運搬するにも、ひと苦労といった態であるのだ。
もっとも、彼女の場合は自ら進んで大英雄に挑んだ結果であり、今も気を失ったままのリチャード少年と共に、たった今、チャムパグンの治療を受けたばかりであったのだが。
「まぁ、お小言は後にしてくれよ……流石に、骨が折れすぎた、これは比喩じゃなくな……それに、甘やかしているのは、サクラも一緒であろう? こんなに長逗留してしまったのは、お前の飯が美味かったせいでもあるのだからな……また、随分と腕を上げたなぁ」
普段の軽口にも、どこか勢いの無い野良猫である。内臓に傷は無さそうであったが、肋骨については、無事な本数の方が少ないであろうか。
「そんな甘言で私を騙そうとしても、そうはいきませんからね……でも、ゴヨウさんの怪我が一番酷いのに、自分の治療を後回しにしてくれたのは、分かっています……ありがとうございます」
小鳥のように、つい、と唇を尖らせ、サクラは卑しいエルフを男の隣に座らせる。何事か文句を言い始めたチャムパグンの頭を、御用猫は唯一無事な左手で叩くと、再びに天井を見上げるのだ。
「まぁ、あちらは無事に収まったそうだしな、この骨折り損は、ウォルレンの奴から取り返すとするさ」
「それについては、お父様からも聞きました、ジッタンビットさんの事は、王宮でも少しばかり噂になったそうですね、なんでもマスカンヴィット伯爵は、今まで彼女が迷惑をかけてきた人達に、ひとりひとりお詫びに回っているとか」
伯爵は、アドルパスの所にも現れたそうである。御用猫が叩きのめされる前に聞いたところでは、涙ながらの告白を受けたマスカンヴィット伯爵は、娘の頬を叩いた後に、十年前と同じく娘を抱きしめて、一晩中に謝罪したのだとか。
「人生なんてのは、ままならぬものであるからなぁ、それが二人分となれば、尚更さ……ま、もともと互いの事は大切に思っていたのであろうし、おかしな壁は無くなったのだ、あとは普通の家族になるであろうさ……それで上手くいくかどうかは、また別の話だがな」
「ゴヨウさんではないのですから、大丈夫だと思いますよ」
「なんだよ、いつになく辛辣だな、あまり怒ってばかりだと、可愛い顔が台無しだぞ? 」
「っ! 誰のせいだと」
いつもの勢いにて太腿を叩かれ、御用猫は痛みのあまりに息を漏らす、一応、折れた場所は避けてくれたようではあるのだが、怪我人に対してなんとも遠慮のない一撃ではあるだろう。
「今まで、言い出す機会を逃してしまっていましたが! 誰ですか! 誰なのですか、あの女の人は! はしたない服装で現れてはリチャードに絡んで帰ってゆくのです、練習生達の気も散りますし、皆が皆して鼻の下を伸ばして見送っているのですよ! しまいにはお店の宣伝まで! 田ノ上道場の門下生は、夜街の女性を神聖な稽古場に連れ込んでいると、悪い噂が立ったなら、どうしてくれるのですか! はしたない、ああ、いやらしい、はしたない! 」
自らの言葉に怒りを加速させている様子の少女は、しかし、ふと表情を曇らせると。
「……私は良いのです、どうせまた、ゴヨウさんが悪さをしたのだと分かっていますから、私の事が好きで構って欲しくて、そう、例の、試し行為をしているのでしょう? それは理解しています……ですが、フィオーレは真面目な子なのです、幼稚な冗談を真に受けて、落ち込んでしまうこともあるのです……それは、可愛そうなのです……なので、もう、こういったことは、やめてください」
「なんだろう、前半に対して言いたい事もあるんだけど、後半のせいで非常に言いづらい」
怒りに再点火した少女は、先程にも増して激しい攻撃を始めるのだ。御用猫の治療を行っていた卑しいエルフが、迷惑そうに尻を振っていたのだが、それにもお構い無しであった。
「あたた、叩くな、骨に響く……分かった、分かったから、そうだ、丁度良い、どうせ親父の所に顔を出すつもりであったし、リチャードは、しばらくオランに連れて行くから、季節も良いし、海を眺めて、のんびりとしてくるから、そのうちにアンナちゃんも飽きるであろう」
左手だけで防戦する御用猫は、彼女の気を逸らそうと、おぼろげに立てていた計画を口にするのであったが、これは些か早計であったろう。
確かに、サクラの動きは止まったのであるが。
「……なんですか、それ……なんですかそれ、なんだか楽しそうです! オランの海は初めてなのです、久しぶりに大先生やティーナにも会いたいし、海エルフも見てみたいのです! 私も行きたい! 行きますからね! いーくーのー! 」
きらきら、と瞳を輝かせ始めたサクラの、その想いを止める事は、およそ卑しい野良猫ごときには、とうてい無理な話であったのだ。
「おう、ダイヤモンドよ、調子はどうだ? 」
クロスロードの王城『蒼天号』の廊下にて、金色の仮面を装着した騎士が問いかけるのは。
「うむ、今日も爽快、快調じゃ! なんじゃ、稽古か? 付き合うぞ、わしも最近はの、お父様に言われて色々と習いごとを始めたんじゃが……これがまた性に合わん! 逃げる言い訳が欲しい! 」
金剛石をはめ込んだ豪奢な仮面、白髪の女騎士こと、ジッタンビット マスカンヴィット。なんとも正直なエルフである彼女は、隠す事もなく機嫌の良さを振りまいており、その足取りはまるで、宙に浮いているかの如くであった。
「ワハハ、実はな、俺もそうなのだ、お前では無いが、面倒な結婚話を上手くあやふやにして、すこぶる快調、羽の生えた小鳥もかくや、ってとこよ」
金色の仮面は、青ドラゴン騎士団最強の証ではあるのだが、この男の、なんとも軽薄な態度からは、とても強者の貫禄、などといったものは感じられないだろう。
「ほう、そうか……わしもな、結婚など当分するつもりも無くてのぅ、しばらくはお父様と二人きり、のんびりと過ごしたいのではあるんじゃが……」
「ん? なによ、なんか問題あんの? お兄さんが聞いてやるから、話してごらんよ」
金色の仮面騎士こと『金竜』は、確かに機嫌が良かったのだ、なので、迂闊にも聞いてしまった。目の前の女が、どれほどに面倒であるかを、知っていたにも関わらず。
「それがのう……お父様は、相変わらずに、やれ孫の顔が、だの、お前には良い人は居ないのか、だの、うるさくてのう……いや、まてよ……そうか、その手があったか」
何やら不穏な空気を察知して、金竜は即座に振り向いたのであったが、それは当然に、遅きに失したものであり、その両肩を白エルフに、がっしり、と掴まれてしまうのだ。
「おい金竜、お前も結婚するつもりなど無いのであろう? わしの婚約者になれ、お前ならば、お父様に素顔を紹介せんでも良いし、余計な詮索をされる事もない、仕事の特殊さを理由にすれば、結婚せずとも怪しまれぬしな……うん、これは名案じゃ……ん? そういえば、確か『憤帝』の奴も……まぁええか、しばき倒せば済む話、よし、決まりじゃ、うちに来い」
「い、いやどす! 誰か! だれか助けて! 」
蒼天号の長い廊下に、哀れな男の悲鳴が響き渡る、騒ぎを聞きつけたテンプル騎士が数名現れるのだが、なぜかその若い騎士達は、白髪の女騎士を見ると、距離を置いて見守るばかりであったのだ。
(先生! 御用猫の先生に……あ、駄目じゃん! 言える訳ないじゃん)
ずりずり、と引きずられてゆく男の表情は、あまりにも、哀愁を誘うものであったのだ。
夏の白雪袖にして
捨てた福耳探す旅
幸せ何処ぞと歩いても
背中に負うては気付かれぬ
御用、御用の、御用猫




