うで比べ 13
「んぉ……あれ……なんじゃったっけ」
ジッタンビット マスカンヴィットが目を覚ましたのは、それから直ぐの事であった。流石はエルフの回復力、という事でもあろうが、今回は単純に、御用猫が手加減していただけであろう。
「おはようジッタン、調子はどうだ? 」
しゃがみ込んで彼女の顔を覗き込む御用猫に、周囲を囲む者たちから、喉を鳴らす音が漏れ聞こえてくる。なんとも考えの読めない娘であるのだ、目覚めた瞬間に飛びかかってきたとしても、なんら不思議では無いだろう。
「あぁ、そうか……調子か……最悪に、決まっておろう……」
しかし、どうやらジッタンビットは、怒りや興奮が全て抜け切ってしまった様子なのである。背中をリリィアドーネに支えられると、俯いて細い息を吐き出すばかりであるのだ。
「……約束は、約束じゃ、もおえぇから好きにしろ……別に、生娘という訳でもなし」
「うわぁ、人聞きの悪い発言だなぁ……ほんと、誰がそんな噂流してんだろなぁ……」
リリィアドーネからの刺すような視線を、無事な左手でいなしながら、御用猫は、こちらも大きく、溜め息を吐き出す。
「別に、お前さんをどうこうしよう、なんて思ってないから安心しろ、ちょいと、会ってもらいたい人が居るだけだ……念の為に言っておくが、相手は女の子だからな? 」
「そうなんか? わしは、てっきり、辛島ジュートは、けだもののような女喰いじゃとばかり……リリィアドーネも、否定しておらんかったしのぅ」
どこか興味なさげに呟くジッタンビットは、御用猫に目を合わせようともしない、どうやら、完全に心が折れてしまったようである、これは自暴自棄にも近い心境であろうか。
御用猫は、さりげなく視線を外しているリリィアドーネをひと睨みすると、腰に手を当てながら立ち上がる。
「よし、なら行くか、善は急げというやつさ……リチャード、表にロシナン子を廻してくれ、思いのほか早く片付いたからな、これなら今日のうちに……」
「ただいま戻りましたァ! ……あ、やっぱりゴヨウさんでしたか! 今日はどうしたのですか? お稽古に参加するなんて珍しい、練習生が居ないから、おかしいとは思っていたのです、ハボックさんまで集まって、何かの会議ですか? それとも秘密の特訓というやつでしょうか、また私に内緒ですか、でも、なんだか楽しそうですね、私も混ぜて……」
不意に道場へ現れたのは、長い黒髪を馬尾に纏めた小柄な少女であった。薄桃色の矢絣に茶色の袴、文化の坩堝とまで言われるクロスロードにおいて、着物姿の女性も珍しく無いのであるが、この少女は、糊の効いた襟元を、きちっと合わせ、初夏であるというのに、僅かも肌を見せていない、これほどに堅い着こなしは、祝事か仕事でしか見られぬであろう。
しかし、入ってきた瞬間こそ、眩しいほどに真っ直ぐな笑顔を見せていた少女であったのだが、そこに見慣れぬ景色があると知ると、途端に、その形良い眉を顰め、しばし考えた後に、ゆっくりと、怨嗟の声にも似た低い音を響かせ始めるのだ。
「……誰ですか、その方は……いえ、知っています、確か、マスカンヴィット伯爵の夜会に……よく見れば、わざわざ皆で制服まで……分かりました、えぇ、よっく理解しましたとも! 突然にフィオーレから買い物の誘いなど、変だなとは思ったのです、ですが嬉しいと思ったのも確かなので、一緒に遊ぶのも久し振りでしたし、楽しくひとときを過ごせたというのに! というのに! どうしてゴヨウさんは、いつもいつも! 私を除け者にして! これでは今日の晩御飯も……」
「みつばち、排除」
ぱちん、と御用猫が指を鳴らすと、噛み付かんばかりに詰め寄り、彼の首を揺らしていた少女は、力なく無言で男の胸に沈んでゆく。しかし、最後の抵抗か、御用猫の襟元だけは、がっちり、と掴んだままであり、この噛み付き少女こと、サクラ マイヨハルトの執念を垣間見ることが出来るであろう。
「やれやれ、これは後が大変だ……リリィ、ジッタンを屋敷まで送ってくれるか? この時間なら、学校も終わってるだろうから」
「うん、それは構わないけど……学校? どういう事だ、マスカンヴィット邸では無いのか? 」
御用猫に抱き付いて眠る少女に、少しばかり唇を尖らせていたリリィアドーネであったのだが、彼の発言を聞くにつれ、次第にその首を傾げてゆくのだ。
「ああ、済まない、言葉が足りなかった……ジッタンビットをな、ゆっこに会わせて欲しいのだ、俺が連れて行くつもりであったのだが……まぁ、よく考えてみれば、居ない方が良いだろう……ふふ、そもそも、これでは動けないのだがな」
サクラにしがみつかれた格好の御用猫は、尻餅をついたまま両手を広げ、笑いながらにおどけてみせる。半分は面倒だから、という理由であったのだが、自分が居ない方が捗るであろうと考えたのも、また事実であったのだ。
「なんじゃ、わしに何をさせるつもりじゃ……いや、負けたのはわしか……殺せというなら、やってもええが、その後は貴様の番じゃぞ」
「馬鹿いえ、というか、ゆっこに手を出したらな、それはもう怖い『おかあさま』と『おじいさま』が出てくるからな、死ぬのはお前の方だぞ? ……まぁ、安心しろよ、単なる人生相談さ……その子に会って、教えてもらえ」
ぐったり、としたサクラの小さな身体を抱え直し、御用猫は立ち上がる、彼の仕事はこれで終わりであるのだ。後はどうなろうとも、彼に関わりの無い事ではあったのだが。
「……人生相談? なんじゃ、そいつに、なにを教えてもらえと……」
御用猫には、確信があるのだ。
「そうだな……義理の家族と、仲良くなる方法、かな? 」
なので、彼は背を向ける。
今宵は皆と酒を飲み、笑って騒いで忘れる事にしたのだ。
自分には縁の無いであろう『やり直し』というものに。
逃げるように、背を向けたのだ。




