うで比べ 9
全員が引きつった笑いを浮かべたまま、という、なんとも奇妙な茶会を終えると、御用猫はマルティエへと帰宅していた。帰りしな、最後に別れるまで、肘の負傷については随分とリリィアドーネに心配され、申し訳なさげな顔にて何度も引き止められたのだが、いかにモンテルローザ侯爵家お抱えの治療術師とはいえ、あの卑しいエルフには敵うまい。
笑顔にて別れを告げた御用猫が、鈍く痛む右肘を抱えたのは、彼女の姿が見えなくなってからであった。たとえ卑しい野良猫といえど、多少の見栄と矜持と、男の尊厳というものがあるのだから。
しかし。
「……おのれ、なんと間の悪い、肝心なところで姿を見せぬ奴だ」
珍しくも、マルティエの二階に酒と肴を持ち込み、自室で晩酌する御用猫の額には、相変わらずに玉のような汗が浮かんでいるのだ。目当ての卑しいエルフは、その卑しい姿をくらませており、どうやら今宵の野良猫は、痛みにうなされながら眠ることになりそうである。
「どうすんの? 黒ちゃんも居ないし、私で良ければ、鎮痛の呪い、くらいなら遣ったげるけど……」
「済まないが頼めるか……どうにも、酒の味まで分からなくなってきた……こりゃ、完全に折れてるな」
器用にも左手で箸を扱えるのは、普段からの餌付けによるものであろうか、しかし、苦虫を噛み潰したような顔にてアジの甘酢漬けを頬張る姿は、良食に対する感謝を第一に考える彼にしては、いささか珍しいものであるのだ。
「まったく、顔を見に行くだけとか言ってたのに……どうせまた何か、ちょっかいでもかけたんだろ、アンタが女好きなのは知ってるけどさぁ、手を出す相手は、もう少し選びなよ……たとえばさ、悪さしても、さ、怒られない相手がいるだろ……なにか、拒めない理由があるやつ、とかさ」
溜め息をつきながらも、得意の呪いで彼の治療を行うのは、赤毛の侍女、ドナである。彼女は元々、所属していた姉の傭兵団にて、負傷者の手当てを中心に、呪い師として働いていたのだ。
「そう……たとえば、だよ? たとえばさ……その……あた……」
ふと、手を止めた彼女は、御用猫に視線を合わせる事なく、ぼそぼそと、蚊の鳴くような声で呟き始めたのであったが。
「それは、あり得ません」
「うわっはぁ!? 」
突如として背後に現れた、黒ずくめの女に肩を掴まれ、傭兵あがりゆえなのか、なんとも豪快な悲鳴をあげるのだ。
「いやらしい……新入りの分際で、さっそく飼い主に腹を見せるとは……犬としては合格でしょうが、万年発情していたのでは、仕事に使えそうもないですね……いやらしい、油断も隙もない、あぁ、いやらしい、いやらしい」
「サクラか」
ぺちん、と思わず利き手にて黒髪の女の頭をはたき、御用猫は痛みに眉を顰めるのだ。多少の鎮痛効果はあるようだが、やはりチャムパグンの呪いとは、効果が雲泥の差なのである。
もっとも、呪い師として、ドナの実力は中程度であり、これ以上の効果を望むならば、クロスロードでも有名な治療院か、それこそ貴族のお抱え術師を頼らねばならないだろう。
「あたた……んで、みつばち、どうしたよ、何か報告でもあるのか」
「はい、カンナ様の我慢も限界のご様子、そろそろ顔を出すのが正解かと……近頃は、東町の猟師組合に手を付けておられましたが、どうやら剥製造りの名人を探していたようで」
「そんな報告は、いらな……うわぁ、まじ怖い……怖いなぁ……仕事終わったら必ず行くから、特殊な技能を身につけるのはやめろと言っといて」
なにやら恥ずかしさに身悶えるドナを突き飛ばし、御用猫の前に陣取った黒髪の『くノ一』は、彼に恐るべき危機が迫っていることを告げるのだ。
御用猫は『蜂番衆』と呼ばれる、数人の志能便を抱えている。彼女らは元々クロスロードの御庭番衆を務めていた一族なのであるが、太平の世には不要であるといった理由にて数を減らされ、その座を『酒番衆』に奪われたという。
「ジッタンビットの件については、おおよそ噂どおりでございました、情緒不安定なのは、かなり昔からであり、周囲の人間も、何度か伯爵に意見したそうではありますが」
「まるで信じてはいないと……なるほどね、なにやら妙に発言力の強い貴族様であるようだが……リリィの話でも、娘共々に特別扱いされているようだし、あまり強くも言えないと」
しかし蜂番衆は、御庭番衆への復権を諦めてはいない様子であり、代を重ねてなお、みつばちのような志能便を育成し続けている。
「猫の先生、これ以上の探りは徒労に終わるかと……それよりも、処分するならば『雀蜂』を差し向けましょう、マスカンヴィット伯爵には未だ政敵も多い様子であります、偽装も容易いはず……あいたっ」
美しい外見に反した冷酷な提案に、御用猫は、その艶やかな額を指で撥ねることにて、返答に代えるのだ。
「いい加減に学習しろよ……俺はな、物騒な話は嫌いなんだよ、これでもな」
とはいえ、御用猫は本気で怒っている訳でもない、もしも、みつばちの提案こそが本気であったらならば、彼女の胃の腑まで冷える程の声を響かせていたのであろうが。
感情を隠すため、普段は扁平な喋り方をする、みつばちであったのだが、付き合いも長い御用猫には、その僅かな抑揚、表情の変化から、多少なりとも相手の心を推し量ることが出来るのだ。もっとも、今回に関しては、それがなくとも冗談と判断していただろう、それこそ、長い付き合いになっているのだ、その程度が互いに理解できるほどには、信頼関係というものが構築されているのだから。
「ですが、道場に呼び込むのは下策かと……あの平原の騎士を立会人にしたとても、万一の時には、先生に疑いの目が向けられてしまいます」
「別に、ジッタンビットをどうこうするつもりは無い、言っただろう、少々、説教してやるだけさ……初対面の人の、骨を折ってはいけない、とな」
笑いながらに猪口を持ち上げ、御用猫が再びに顔を顰める。どうにも、中途半端に痛みが消えたせいで、つい動かしてしまうようなのだ。
「……分かりません、ウォルレンや枯れ胸のために、そこまでする義理がありましょうか? ジッタンビットの罪を咎め、内々に処理させれば良いだけの話です、跡継ぎなど、それこそ適当な男をあてがえば済むでしょう、いえ、いっそ別の養子をとるべきかと」
それを見かねたのか、みつばちは御用猫の右側に椅子ごと移動すると、その腕を押さえるように我が身を被せ、密着して酌を始める。
「おっと、悪いな……しかし、まぁなぁ、それも分かりやすい、簡単な方法であろうか……」
「でしょうとも、考える必要もありません……この腕の報復ならば、我らにお任せください、あと、癒しが必要ならばお呼びください、慰めてあげます、今晩にでも、それはもう、ねっぷりと」
空いた手で御用猫の胸を摩りながら、みつばちが顔を寄せてくる。緑の黒髪はつむじの辺りで団子にまとめてあり、彼の好みである滑らかな、白いうなじが露わになっていた。
「……ただなぁ、いつものあれだ、何か気分が悪いのさ……すっきりと、しないのだ」
「聞けよ」
ただ、今の御用猫は視線を彼方に飛ばしており、みつばちの切れ長な、しかし濡れたような瞳にも、酒を飲んでもいないのに、何か甘いような香りの吐息にも、心動かされる事はないのだ。
ついに彼の耳を甘噛みし始めた、みつばちの顔を手の平で押し剥がしながら、肘が痛まぬように注意して、御用猫は顎をさする。
(拾った側と、拾われた側か……うわべだけの親娘、終わりにしていなければ……俺も、そうなっていたであろうか……)
チャムパグンを探すついでに、明日はアルタソマイダスの屋敷に顔を出そうか、などと考えながら、御用猫は再び猪口に手を伸ばす。解放されたみつばちは、僅かに怒りの表情を見せながら、彼の頬に吸い付いていた。
「……なによ、そっちの方が、いやらしいくせに……あぁ、もう! なんか、もやっとする! 」
ベッドの上で頭から布団を被ると、ドナはひとり、じたじた、と暴れ始めるのだ。
おそらく、見る目は無いのであろう。




