急な客人
「ただいまもどりました。」
市場での買い物を終えて、ニノが勝手口から中に入ると、ソフィーはいつものように、古びた木製の丸椅子にどっしりと腰をかけて、じゃがいもの皮をむいていた。節くれた皺だらけの手で、するすると器用にナイフをあやつる。
「おかえり、ニーノ。」
ソフィーにはニノという名前は発音しにくいようで、ニノのことをいつもニーノと呼ぶ。昔からずっと、だ。ソフィーはパグリス氏の奥さまが、この家にやってきた時からずっと、パグリス家に仕えている。奥さまは若くして亡くなられ、ニノがこの家にやってきたときにはすでにいらっしゃらなかった。パグリス氏がニノにとって祖父あるいは父の様な存在であるとすれば、ソフィーは祖母であり母のような存在だ。
「外は暑かったかい、汗だくだね。お茶でも飲んで一息いれなさい。悪いけど、わたしにもいっぱいついでくれるかい。手が泥だらけでね。」
ニノは言われた通りお茶を入れようと戸棚をあけて、マグカップを二つ取る。すると、いつもその上段に鎮座している孔雀色のティー・カップがないことに気づいた。
「お客人ですか。」
「さきほどお見えになったんだ、もう帰られたよ。」
ソフィーは、ふんっと鼻をならした。ご不満の理由は明白だった。今まで気づかずにいたが、テーブルの上には、やはり孔雀色の小皿のうえに、ソフィーご自慢のビスケットが、手つかずのままで置かれていたのだ。
「急な来客だったからね、何もお構いできないけれど、どうぞって、ビスケットにオレンジのジャムをのっけてお出ししたんだ。ジャムはこのあいだ仕込んだばかりで出来立てだ。もちろんクリームだって、たっぷりのせたのにさ。まったく変な人だよ、一口も食べないだなんて!」
ソフィーはすこし頑固なところはあるが、基本的には愛情深く親切で頼りがいがある。ニノはソフィーのこともとても大切に思っていた。ただし、ひとつ困ったところがあるとすれば、たいへん食べさせたがりであるということだ。彼女は長年ひとりでパグラス家の台所をとりしきっていて、自分の料理の味にたいへん自負をもっている。なので厚意へのすげない反応には、せっかく美味しいものを食べさせようと思ったのにと、文句のひとつもふたつもみっつもよっつも言わなければならないような気持ちになってしまうようなのだ。
「一口も食べないだなんて…ほんとに。信じられないよふわふわのおいしい焼きたてのビスケットだったのにさ。ふん、まぁ、いいさ。あちらさんにも何か理由があったんだろう。甘いものはお嫌いだったのかも知らない。ずいぶんきれいな顔をした……たぶん男の人だったけど。サルマンさんと言ったかな。」
「トッキノンの関係のものでしょうか。」
「さぁねえ、昔お世話になったものです、近くによりましたのでって言っていたから、ちがうんじゃないかね。まあ、サルマンさんという方がいらっしゃいましたと旦那さんに言っても、ぴんとこないご様子ではあったがね。ただ、顔を見たらなんだか妙に驚かれたご様子でね。だからお知り合いではあるんだろうが。ただ、なんというか、ちょっと、お客人の面立ちがね……。」
ちょうどすべてのじゃがいもの皮をむきおわったソフィーは、ハンドタオルで手をぬぐいながら、やや首をかしげ、何かを考えるように天井をみつめている。
「ちょっと、どこかね、とてもなつかしい感じもしたんだ。なんでだろうねぇ、瞳の色かしら…とにかくなんだか奥さまをね、思い出してしまったよ。奥さまは甘いものに目がなくて、ソフィーのつくるビスケットがいちばん好きよと言ってくださっていたんだよ。奥さまはオレンジよりもベリーのジャムがお好きだったねぇ」
ニノはマグカップにお茶を注いで、テーブルまで運び、ソフィーの隣に腰掛けた。
「ビスケット、いただいてもいいですか。」
「もちろんさ」
ソフィーはにっこりとほほえんだ。