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三章 あの夏の日(3)

 なんとか勝てて良かった。

 つぐみの前で良い格好もできた。

 

 今日、女子の100mハードルで一人の子が転倒した。

 去年の自分を見ているようで、俺は思わず医務室へと足を向けていた。

 でも、俺は中に入ることはできなかった。

 

 泣いている女の子がいたからだ。


 彼女は友だちのことを思って泣いていた。

 そこで俺は慣れないことをしてしまった。

 

 自分のタオルを差し出すなんて、くさいことを……。


 なんであんなことをしたのか、帰り道につぐみと手をつないで歩きながら考えた。

 

 多分、あの子がつぐみに似ていたからだと思う。


 どこが、というと答えに窮するけれど、

 多分、雰囲気が似ていたんだと思う。

 つぐみもきっと、葵が怪我をしたら泣くだろう。


 俺には、その顔を決して見せないように隠しながら……。






 あの一件があってから、夏美は陸上をやめた。

「どうして、やめるの?」

 退部届を提出した日、私の問いかけに夏美は首を横に振った。

「もう、無理なの」

 夏美は明らかに私を拒絶していた。しつこく問いただすことは、さらに私たちの関係を悪化させるであろうことは容易に想像がついた。でも、私は衝動を抑え切れなかった。


「陸上が好きなんじゃないの?」

 

 その問いかけがトリガーになった。

「分かったようなこと言わないでよ!」

 突然、ヒステリックに叫んだ夏美は私の胸倉を力いっぱい掴んだ。

「いつも適当に過ごしているあんたに、本気でぶつかってた私の悔しさや惨めさは分からないわ!」

 そう言われて気づいた。

 私は別に彼女が陸上をやめた理由をそこまで知りたいわけではなかったのだ。そういう風に心配している振りをしていたに過ぎなかった。


 私はユキナの「友人」ではなく、ただの「クラスメイト」なのだと痛感したのは、そのときだった。


 

 私には果たして「友人」と呼べる人がいるのだろうか。自分の部屋のベッドに寝転がり、ユキムラ君からもらったタオルを眺めながらたまにそう考えることがあった。

 きっと、誰もがよく分からないまま日々を過ごしているのだと思う。それを考えると、なんだか寂しくなるので、私はすぐに考えるのをやめて目を閉じた。


 あの日の彼の走る姿が思い出される。本気で陸上に打ち込む彼の姿を私は羨望の瞳で見つめていた。


 私にも何か、本気でぶつかれるものが欲しい――。


 運動は苦手だ。絵も歌も得意ではない。芸術的センスは皆無だ。だったら勉強は? 勉強か……。一番やる気の出ない言葉だった。

 

 私には、本気になれる情熱が足りないのだろうか……。


 

 ふと、思い立った私は、ベッドから跳ね起きると部屋を出て1階へと降りていく。うちにはリビングに1つパソコンが置かれている。

 私はそれを起動させインターネットに接続した。検索するのは、あの学校。

 

 私は慣れないキーボードに少しばかり苦戦しながらも「白風中学校」と入力した。




 あの大会の後、私は普段は読まない新聞を広げた。

 県大会のことは小さい記事になっていた。上位入賞者の名前が載っていて、そこに彼の名前があった。


 一位 雪村修一(白風)。


 私はそこで、ユキムラシュウイチという名前はこう書くのだと知った。シラカゼも白い風と書くのだと知った。

 ……ついでに、サクライユウヤは桜井侑哉と書くことも知った(これは本当に偶然だった。新聞には各種目上位3名までの名前が記載されており、100m走で3位に入った彼の名前が目に映ったのだ)。


 彼の名前と学校が分かり、そのときはそれで満足だった。


 でも、今は違う。


 無性に、彼のことがもっと知りたくなった。




 調べてみると、白風中学とうちの通う学校とは地区が違うどころか、県内の両極端に位置することが分かった。

「ダメだ……」

 この距離を行くには、かなり勇気がいる気がした。ちょっとでもいいから彼の顔を見れば、少しは頑張れる気がした。

 けれど中学二年生の私にはまだ、そこまでの度胸も、それからお金もなかった。




 何の目的も定まらないまま中学三年生になり、また夏がやってきた。去年、彼に出会った夏――。

 もしかすると、これが最後のチャンスなのではないか、と思った私は昨年までの怠惰な自分が嘘であったかのように行動力を発揮して、いそいで計画を立てた。彼がどの種目で出場するかは知らない。分からない。だから、2日間かけて行われる県大会の両日行こうと決めて家を出た。


 今回は「友人」の応援ではない。「好きな人」の応援だ。


 その県大会で、驚くべきことに雪村君は100m・110mハードル・4×100mリレーで三冠を達成した。もちろん、あの「彼女」も応援に来ていた。嬉しそうにポニーテールをぴょこぴょこと揺らしながら、彼にお祝いの言葉を投げかける。

 私もちょっとでいいから彼と言葉を交わしたかった。けれど、それは叶わなかった。

 私はここまできたくせに、あと一歩が踏み出せなかったのだ。


 ……けれど、彼の声を聞くチャンスは転がってきた。


 リレー終了後、私も帰ろうと腰を浮かし、スタンドを出たときだった。聞きたくて仕方がなかった声がすぐそばから聞こえたのだ。私は、さっと物陰に隠れて、こっそりと声のするほうをうかがった。

「100mくらいは譲ってくれよ」

「県大会で負けたくらいで、小さいこと言うなよ」

 そこにいたのは、雪村君と桜井君だった。

「あー、そうか。全国で勝てばよいのか。それまでお前を天狗にさせておいて、最後の最後でその鼻をへし折ればよいんだな」

 顔いっぱいを使って笑った桜井君を見て、雪村君は視線を遠くに飛ばした。

「まぁ、中学で終わる気はないけどな」

「高校か……」

「お前、どこ受けるの?」

「俺? 多分、光葉」

「光葉って、光葉学院? お前そんなに頭良いの?」

「学年一位です」

「へぇ……すごいな」

「おうよ。勉強ではさすがに俺の勝ちだろ」

 桜井君は光葉学院を受験するらしい。県下有数の進学校としても有名なそこは、部活動にも力を入れており、文武両道を目指す学生が多く集まる。

「修一は?」

「俺? 俺は、あんまり考えてないけど、近いところが良いかな? あるいは……」

「ああ、××(ここは聞き取れなかった)か。実は俺もそこか光葉かで迷ってる」

「お前はどっちも近いから良いけど、俺は家からだと遠いからな。……遠いのは嫌なんだよなぁ」

「なんでよ」

「だって通うのが面倒くさいだろ」

「ははっ。お前らしいな」

 聞き取れなかった部分もあったけれど、どうやら雪村君は近所の学校を受けるみたいだった。それだと同じ高校に通うのは多分無理だ。私もできれば近いところがいいもの。

「しゅーいっちー!」

 遠くから、雪村君を呼ぶ声が聞こえる。この声は「彼女」の声だ。

「お、彼女だぜ」

「あー」

「そういえばあの長い髪は何なの? お前の好み? めちゃくちゃ綺麗じゃん。レース後にお前に話かけにくるおかげでいっつも目に入るけど、スタンドの風に靡いてる“あれ”は反則的だな」

「一応忠告しておくけど、あいつだけは絶対にそんな目で見るなよ? 冗談抜きでただじゃおかないからな?」

「分かってるって」

「はぁ……とりあえず信用してやるよ。……まぁ、髪についてはそんな感じだな。手入れが大変だってぶつぶつ文句言う割には、いつまで経っても切らないでいてくれてる」

「ラブラブなんだな」

「どうかな?」

「ま、いいや。じゃあ行ってやれよ」

「ああ。またな」

「おお」

 雪村君が彼女の元へ駆けていく。

 彼は髪の長い子が好きらしい。私は肩にも届かない自分の髪に触れ、今日から長く伸ばそうと誓った。

「あ、そうだ」

 途中、雪村君が足を止め、桜井君を振り返った。

「ちなみに俺も学年一位だから」

「あ?」

「俺の方が小さい学校だから、そこまで対抗できてないかもしれないけど、別に勉強はお前の勝ちってわけではない。俺だって光葉に受かる自信はある」

 にやっと笑った雪村君は、とても子どもっぽかった。それを聞いた桜井君がふてくされたように叫ぶ。

「そういうのは黙っておけよ。この大会で完敗した俺に花を持たせてくれても良いだろ?」

「嫌だね。俺は負けず嫌いなんだ」

 大声で笑いながら、雪村君は今度こそ彼女の元に駆けていった。その姿を見ながら桜井君は髪をくしゃっと掴み、微笑を浮かべたまま誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいた。

 

 私の耳には届いたのだけれど……。


「くっそー。部活も勉強も本気出してるはずなんだけどな……。あいつは化け物か」

 部活も勉強も本気出してる。 

 その言葉は私の胸にずしりとした痛みを伴ってぶつかった。部活もやっていないし、勉強も平均点よりちょっと上くらいの私は、彼らから見て、なんてつまらない存在なのだろう。


 私にも何かできるだろうか……。


 どこまでできるのかは分からないけれど、私は近場で最も偏差値が高い高校である「光葉」を目指すことに決めた。今の私のレベルでは到底受かるはずのないそこに受かることで、私は自信をつけたかったのだ。

 自分も本気で何かをやることで、彼に少しでも近づけると思った。


 きっと私は雪村君の背中を追っていきたかったのだと思う。





 

 それから数ヵ月後の、中学3年生の全国大会。

 その結果を私は新聞で知った。二冠の雪村君は満面の笑みで写真に写っていた。

 私はそれを見て自分のことのように嬉しくなって満足し、そのまま新聞を閉じてしまった。

 受験に向けて、これまでにないくらいの集中力で勉強をしていた私は、それ以上、新聞を読むことに時間をかけたくなかったのだ。




 だから、その日の新聞にある程度大きな記事で載っていたにも関わらず、「あんな事件」があったことを私は知らなかった。

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