三章 あの夏の日(2)
100mは3位だった。桜井にも負けた。これではまだまだだと思う。そうは言っても、まだ2年生。俺には来年がある。だから、今は悔しいけれど、それをバネにすれば良い。それだけのことだ。
まぁその前に、明日にはハードルもあるのだが……。
ハードルは去年のことがあるから、少し不安だ。怖くないといえば嘘になる。でも、今年はつぐみがいる。
「彼女」がいれば頑張れる気がした。
今日も応援に来てくれた。
明日も応援に来てくれるらしい。
絶対に良いところを見せたい。
頑張ろう。
次の日。
夏美は朝から真剣にハードルの練習をしていた。普段はのんびりしているようなタイプなのに、今は違う。
今の夏美はきっと、私とは違う世界が見えているのだ。
「ちゃんと見ててよ」
予選の前に、私にそう言ってから夏美はレースに向かった。はいはい、と適当に相槌を打ってからスタンドに向かう。
何気なく首を動かすと、ユキムラ君の応援に来ていた昨日の2人組がいた。私は彼女たちに気づかれないように、3つ隣の席に腰掛けた。
男子110mハードルの予選が始まる。
「しゅーいっちー!」
「余裕じゃん」
2人が身を乗り出して叫ぶ。予選を1位で通過したユキムラ君は、笑顔で2人に手を振っていた。凄かった。昨日の100mも凄いと思ったけれど、それとはまた違うものがあった。気迫というか、情熱というか……それとも執着心とでもいうのだろうか。ハードルに賭けるユキムラ君の思いは、100mとは比べ物にならないのではないか、と想像された。
何かに本気でぶつかれるユキムラ君と、そんな彼を見つめる彼女の顔を見て、私は心の底から、羨ましいな、と思った。
夏美も順当に予選を通過し、ブイサインを作って笑顔をこちらに向けてくる。
「おめでと」
私もそう答えて手をたたいてあげる。夏美は照れくさそうに、
「まだ予選だから!」
と叫び返してくれる。予選も決勝もない。私は、一生懸命にやっている夏美が本当に輝いて見えた。
「頑張れ」
だから、そう言った。真剣な思いでそう言った。すると夏美はきょとんとした顔をして、小さく笑った。
「任せて」
結果から言うと、男子のハードルはユキムラ君が制した。隣ではあの女子二人組が大声で騒いでいた。私も無性に喜びたい気持ちを抑えて、電光掲示板に眼をやった。
一番上に、彼の名前があった。
ユキムラシュウイチ シラカゼ
何気なく見ていたけれど、そういえばシラカゼなんて聞いたことがない。これは県大会だから私たちの住む場所と地区が全く違うのだろうか。
シラカゼ中学、シラカゼ中学、私はそれを忘れないように頭の中で連呼し、二人組の制服姿を眼に焼き付けた。
なぜ、こういった行動をとったのかは分からない。もしかすると、もう既にこのときから私は彼に惹かれていたのかもしれない。
「夏美ー!」
つづいて女子のハードル決勝が始まる。夏美は4レーン。彼女曰く、
「この位置をもらえるってことは、凄いことなの!」
らしい。私にはよく分からないから別に良い。とにかく、頑張って欲しい。あの二人組もレースに注目している。このレースにも知り合いが出ているのだろうか。
ピストルの音が鳴る。夏美がスタートした。1台目を越えていく。私はハードルのことはよく分からないから、あれが上手なのかどうかは分からない。2台目。順位は真ん中辺り。大丈夫、ここからだ。3台目――。
「夏美っ!」
私が思わず立ち上がったのは、夏美が転倒したからだった。ハードルに足をひっかけて転んだ。そして、そのまま起きてこない。
「夏美!?」
スタンドの最前列まで駆け寄って、もう一度、彼女の名前を叫んだ。夏美が小さく動くのを見て、意識を失っているわけではないことが分かり少し安心したけれど、右の膝辺りに血がにじんでいるのが見えた。役員らしき人が出てきて、夏美を運んでいく。私も急いでスタンドを下りた。医務室はどこ?
私が医務室に入ったとき、夏美は足に包帯を巻かれているところだった。
「打撲か何かじゃないかな? 大丈夫だから、そんな顔をしないで」
夏美はそう言って、手をひらひらとさせた。膝を打撲し、さらにトラックで擦り傷を作ったのか、うっすらと血もにじんでいる。
「だ、大丈夫なの?」
「だから、大丈夫だって、ね? ……それで、ごめんけど一人にしてくれないかな?」
「……え? う、うん、わかった」
私は夏美の瞳が揺れるのを見て、なんともいえない気持ちになった。夏美は泣きたいほど悔しいのだ。
でも、私が目の前にいるから泣けないのだ。
「じゃ、じゃあ、外で待ってるから、ね」
「うん」
私はそんな夏美を置いて外に出る。扉に背をかけると、中から嗚咽が漏れた。
私は涙を見せられない程度の友人なのだろうか。自分の弱さを見せることができない程度の友人なのだろうか……。
無意識のうちに、そう考えてしまった自分が醜くて、悔しくて、私は涙を流した。
「どうした?」
そんなときだった。彼が声をかけてくれたのは……。
「と、友だちが、怪我をし、しちゃって……」
慌ててそう言ったのは、自分の中の汚れた部分を彼に知られるのが怖かったからだろう。
「あぁ、さっきこけた子のこと?」
「う、うん」
ユキムラ君は首にかけたタオルを私に手渡してくれた。私は涙でぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて、彼から顔を背けた。
「まぁ、とりあえず泣くのやめたら?」
私は受け取ったタオルで顔をごしごしとこすった。汗のにおいがした。
「泣くほど心配するなんて、よっぽど大事な友だちなんだな」
「え……う、うん」
本当にそうなのかは分からなかった。果たして夏美は私の「友だち」といえるのだろうか。
「きっと大丈夫だよ。俺も去年こけたけど、今はこうして走ってるし」
「え?」
昨日、前の席の子達が話していたことを思い出した。
『うん。あ、あれ? あの隣の人、去年ハードルで……』
『本当だ。……えっと、今年もちゃんと出てるよ、ハードル』
『へぇ〜。今年は勝てると良いね』
『そうだね。去年はかわいそうだったもんね』
そういうことだったんだ。ユキムラ君は去年、夏美のようにこけて悔しい思いをしたんだ。
「俺は軽い打撲で、ほら見て。ここスパイクでここに傷がついっちゃったけど、陸上生活に特に支障はなかったし」
ユキムラ君の左足には、確かに引っかき傷のような痕があった。
「ま、俺と全く同じような怪我かどうかはわかんないけど――」
「どうして、そんな怪我をしても、まだ続けたいって思えるの?」
「ん?」
「なんで、そんなに本気で頑張れるの?」
見ず知らずである私のいきなりの問いかけに驚いたのだろうか。彼は小さく、う〜ん、と唸ると、恥ずかしそうに頬をかいた。
「だって、陸上が大好きだから」
「……そっか」
私は彼が渡してくれたタオルをぎゅっと握ったまま、俯き加減に答えた。
「しゅーいち、何やってんの? みんな呼んでるよ!」
遠くからあの子の声が聞こえた。彼がそっちを振り返り、手を上げた。
「あ、ごめん。俺行かなきゃ。そのタオルはあげるから。じゃあね」
「あ、うん。ありがとう」
彼が背中を向けたとき、私はようやく顔を上げることができた。泣き顔を見せまいと俯き続けたせいで、彼は多分、私の顔をきちんと見ることができなかったはずだ。
ユキムラ君の背中の先に、あの子はいた。長い黒髪を揺らす可愛らしい少女。
あの子がユキムラシュウイチの「ヒロイン」だった。




