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三章 あの夏の日(1)

 中学二年生の夏――。


 友だちが県大会に出場するから応援に来てくれ、というので、面倒くさい気持ちをこらえて応援をしに出かけた。もともと陸上競技になんて興味はなかった。ただ走るだけのスポーツのどこに面白さがあるのかがよくわからなかったし、そもそも運動音痴の私は走るのも好きじゃないから、よくやるな、くらいにしか思っていなかった。

「あ、来てくれたんだ」

 私の顔を見て、満面の笑みを浮かべる夏美。他の選手に比べると低いほうだけれど、私に比べると身長は高い。小学校のころからの友だちで、彼女は100mとハードルに出場する。

「まぁ、夏美が県大会に出るなんて、もう二度とないかもしれないしね」

「ひどーい」

 ふてくされながら笑う夏美は本当に無邪気で明るい子だ。私はその表裏のなさそうな明るさに惹かれて彼女と友だちになった。

「とにかく頑張ってね。せっかく来たんだから」

「もちろんだよ」

 アップがある、といって駆けていく彼女を見送ってからスタンドに上る。県大会といっても、私たちの住んでいる県がそれほど大きな県ではないせいか、それとも陸上の人気が低いせいか、スタンドの人影はまばらだった。しかも、そのまばらな観客のほとんどは顧問や陸上部員、あるいはその家族で占められているみたいだった。

 私は適当に空いている席に座ると、はぁ、とため息をついた。


 こんな暑い中、私はいったい何をやっているんだろう……。

 

 そんなことを考えていると、前の席に座った他校の生徒たちが小さく歓声を上げるのが聞こえた。これは、確か近くの中学校の制服だ。

「桜井君の番だね」

「うん。あ、あれ? あの隣の人、去年ハードルで……」

「本当だ。……えっと、今年もちゃんと出てるよ、ハードル」

「へぇ〜。今年は勝てると良いね」

「そうだね。去年はかわいそうだったもんね」

 その会話の意味はよく分からなかったが、私は視線を電光掲示板へと動かした。男子100m予選。3レーンにサクライユウヤと書かれている。前の女子が話しているサクライ君とは彼のことだろう。

 ……では、隣の人とは?

「桜井君! がんばれ!」

「いっけー!」

 彼の隣がいったい誰であるのかを確認する前にレースが始まった。3レーンのサクライ君と“隣の”4レーンの人がほぼ横一線でゴールを駆け抜けていく。

 スタートのピストルの音が鳴ってからゴールまであっという間だった。かなり大げさなたとえだけれど、瞬きをしている間くらいに感じられた。

「……すごい」

 私は思わずそう漏らしていた。

 たった10秒程度のレースだけれど、選手にとってそれはとても長いレースなのかもしれない。これまで積み重ねてきたものを全て、たった100mのために出し切る戦い……。スタートからゴールまで、単純に走るだけのかけっことは違う。

 

 そこにはれっきとした本気の勝負があった。


「あー、やっぱり雪村君も速いね」

「去年は1年生で厳しかったけど、今年は2人とも決勝に残るかもね」

「うんうん」

 電光掲示板に結果が表示される。1位で入ったのはサクライユウヤ。その下に100分の2秒差で2位に入った4レーンの人の名前が表示されている。




 ユキムラシュウイチ――。




 私の頭に、彼の名前が刻み込まれた瞬間だった。






 女子の100m。夏美は見事に予選で負けた。

「本番は明日だから! 私はハードルが本職だからっ!」

 今にも泣きそうな瞳でそう叫んだ夏美は悔しそうに口をゆがめた。確かに彼女の言うとおり、100mはギリギリで県大会の出場権を獲得したらしいが、ハードルは違う。ハードルは地区大会で1位。タイムを見ても上手くいけば県で優勝できるくらいだと言っていた。

「だったら、明日だけ来れば良かったよ」

「ひどーい。いいじゃん、どうせ暇だったんでしょ?」

「まぁ、そうだけど……」

 別に、今日来たことを後悔していたわけではなかった。むしろ、今日来て良かったくらいだった。

「せっかくだし最後まで見ていくつもりだけど、夏美はどうするの?」

「私も先輩たちの応援があるから最後までいるよ。100mの決勝は絶対に見たいしね」

「ふ〜ん」

「なんだかんだ言っても100mはやっぱり盛り上がるしね」

「そだね」

 そんな私を見て、夏美はにやっと笑った。私は背筋がぞくっとして身震いをする。

「どうしたの?」

「ん〜ん。なのかも陸上に興味を持ってくれたのかと思って」

「……別に」

「楽しいよ」

「ん?」

「だって、私、陸上が好きだもん」

「そう」

 そんな笑顔で言われなくても分かってる。夏美は陸上が大好きなのだろう。遅くまで残って誰よりも練習しているし、県大会出場が決まったときの喜びようといったらもう言葉にもできないくらいだった。

「ま、楽しんでいくよ」

「うんうん。それで良いよ」

 そう言って夏美は手を振りながら駆けていった。ただの応援という気楽な私とは違って彼女は陸上部員としてここに来ている。油を売っているわけにはいかないのだ。



 

 いよいよ今日の種目も佳境に入った。 

 

 男子100m決勝が始まる。

 

 決勝を走るのは8人。ほとんどが3年生の中、2年生が2人、そのスタートラインに並ぶことになった。

 2レーンにサクライユウヤ君。7レーンにユキムラシュウイチ君。さっきの2人だ。

「しゅーいちぃ!!」

 ユキムラ君の名前がコールされると、私のすぐそばで耳をつんざかんばかりの声が聞こえた。立ち上がってはしゃぐように歓声を送っているのは、見慣れない制服を着た他校の女子だった。隣にいる大人っぽい人がその様子を見て呆れたようにしている。声を上げるその子は、私と同じくらいの身長しかない女の子で、やや幼い印象を受けた。ポニーテールの髪が背中の真ん中あたりまで伸びていて、彼女が飛びはねるたびにそれが左右に揺れた。

 選手全員のコールが終わり、選手たちがスタートの体勢に入る。会場全体が静まり返りそのときを待つ。私もやけに鼓動が高まるのを感じた。この静けさが、会場の一体感を表しているようで、びっくりするくらい心地よい。

 

 ふと、本当に何気なく、先ほどの彼女をちらりと盗み見た。


 ……前言を撤回しなければいけなくなった。


 幼いなんてとんでもない。先ほどまでとは打って変わって真剣な眼差しでレースを見つめる彼女の顔は、明らかに私よりも年上の女性のそれだった。

 

 そんな余計なことを考えている間に、ピストルの音が鳴り、歓声が響き渡る。私も視線をレースに戻す。目は自然とユキムラシュウイチ君を追っていた。ポニーテールの少女は、喉が枯れるくらい大きな声で彼の名前を呼び、その隣の子も必死に声援を送っている。


「が、がんばれー!」

 

 思わず私は叫んでいた。いったい、なんで彼を応援しているのか。それはよく分からなかった。




 結果は、サクライ君が3位、ユキムラ君が4位だった。レース後に2人が手を取り合っている姿や、あの子がユキムラ君に何か声をかけているのを横目に私はふらっとスタンドを出た。

 初めて見る生の決勝レースは、たとえ中学生のものであったとしても、かなりの衝撃を私に残した。何かに本気で打ち込んだことのない私にとって、彼ら、そして夏美はとても遠くに感じられた。




(あの子は、ユキムラ君の彼女なのだろうか……)




 無意識に全く関係のないことが頭に浮かび、慌てて首を振った。

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