二章 踏み込めない場所(1)
「……僕はもう陸上はやりません」
「いや、しかしな。勿体無いとは思わんか? 何も部活をやっていないんだろう?」
「バイトをしていますから、放課後は忙しくて」
「でも、うちには桜井もいる。お前たち2人が入れば、互いに切磋琢磨しあってだな」
「興味ないですから」
「……」
「失礼します」
「ま、考えておいてくれよ」
慌てて隠れる私は、端から見るとただの不審者だったに違いない。数学の質問をしに職員室に向かったのはいいけれど、中から聞こえてくる雪村君と林先生の会話に足が地面に張り付いたみたいに動かなくなった。
職員室から出て、私に背を向けて教室に戻る雪村君を見ながら、私はなんだか寂しい気持ちになった。
(もう、陸上はやらないんだ……)
そう思うと、今度は自然に足が地面を蹴った。
「ゆ、雪村君!」
私の声に雪村君が振り返る。柔らかく微笑んだ彼の顔は、いつもの彼だった。
「何?」
「り、り、陸上、やらないの?」
私がそう問いかけた後、彼が浮かべた表情のない顔。それを見て私の心臓は飛び跳ねた。今、目の前に立っているのは本当に、あの雪村君なのだろうか。
「なんで?」
抑揚のない声。それが私の恐怖をさらに加速させる。
「え、えっと、こ、この前の体育の授業で、あ、ああ足が、速かったから……」
それはしてはいけない問いだったのだろうか……。雪村君はすっと顔を上に向けた。どこまでも広がる青い空がそこにあり、彼は眩しそうに目をひそめた。
「陸上は“嫌い”なんだ」
「……え?」
聞き返す私に、雪村君は小さく笑って口を開く。
「バイトが忙しいんだ。だから部活はやらない」
「そ、そっか」
「うん。じゃあ、僕は先に戻るから」
そう言って再び雪村君は私に背を向けた。
私の聞き間違いでなければ、彼は確かに言った。
陸上は嫌い、だと。
私はそれを聞き間違いだと信じたい。私が好きになった雪村君は、陸上が大好きのはずだ。彼は中学3年生のときに、100mと400mリレーの2種目で全国大会を優勝しているほどの選手だ。当時、私は彼の写真が載った新聞記事を見て自分のことのように喜んだのだ。そんな彼が陸上を嫌いなはずがない。
それに、彼は自分の口で言ったのだ。
あの中学2年の県大会――。
彼は私に言った。
「だって、陸上が大好きだから」
と。
数学の質問をする気も失せ、とぼとぼと教室に戻っていると後ろから声をかけられた。
「なのか、何かあったの?」
葵だった。いつもより元気のない私を心配してくれているのか、いつも強気な顔が少しだけ弱々しい。
「ん〜ん。大丈夫」
「そう。それなら良いんだけど」
葵はいつからここにいたのだろうか。さっきの私たちの会話を聞いていたのだろうか。
「今日の英語の宿題難しくなかった?」
「ん〜、まぁまぁってところじゃない?」
聞きたいことはたくさんあったけれど、口から出てくることは他愛のないどうでもいいことだった。
「じゃあ、後で答え合わせしようよ」
「写す気じゃないでしょうね?」
「えへへ」
「えへへじゃないわよ。……しょうがないわね。教室に戻ったらノートを貸してあげるわ」
「ありがとー」
「ジュース一杯でいいわ」
「えー」
「嫌ならいいんだけど?」
「いえ、そんなことありません」
「じゃあ、契約成立ね」
そんなくだらない会話をしながら教室に入る。そこに雪村君の姿はなく、私は少しほっとした。足を止めて、彼の席を見つめる私をよそに、葵はたたっと自分の机にかけていく。私ものろのろと自分の席に向かい、ため息と共に腰掛けた。
「はい、これ」
「ありがとう」
私は葵からノートを受け取ってぺらぺらとめくる。もはや宿題どころではなかった。いったい雪村君はどうしてしまったのだろう。
「……ん?」
ふと、私の目がノートの片隅に止まった。
「これは?」
そこには、走り書きのような葵の字でこう書かれていた。
あなたには踏み込めない場所がある。
でも、そこはあなたに踏み込んで欲しい場所でもある。
これはどういう意味だろうか。
それが私に対するメッセージなのか。それとも葵がなんとなく書き綴っただけなのか……。
それを判断できるほど、私は葵のことをよく知っているわけではなかった。
今の私にとって、葵は多分ただの「友人A」に過ぎないのだろう。




