六章 空(2)
……雪村君は鉄柵の向こう側に立っていた。
「ゆ、ゆゆゆ雪村君!」
あのときの状況が思い起こされる。彼がそのまま飛び降りてしまうんじゃないかと思って、私は慌てて駆け寄った。
そんな私とは対照的に彼はゆっくりと振り返る。
「どうしたの? 笠原さん」
その顔は、死のうとしている人のそれではなかった。むしろ、生きている人の顔だ。
「あ、え、うー、えっと……」
「もう飛び降りたりはしないよ」
雪村君は笑いながら鉄柵を乗り越え、こちら側に飛び降りた。目の前に雪村君の身体がせまり、私は跳んで後ろに下がった。
「この前はごめんね」
「……え…………。ん、ん〜ん。いいよ」
雪村君は小さく頭を下げてから私に向き直った。
「それで、何か用?」
「え……? あ、あのね――」
「葵に、何か言われたの?」
雪村君は私がびくっと震えたのに気づいただろうか……。仮に気づいていたとしても、全くそんな素振りを見せることなく、その場にしゃがみこんで鉄柵にもたれかかると、静かに空を見上げた。
「死んだ人は、天に昇るっていうよね」
「え? う、うん」
「空を見上げると、つぐみの顔が見える気がして、つぐみの声が聞こえる気がして……さ。いつの間にか、空を見ることが癖になっちゃったんだよね」
「……え?」
突然のことに、私は目を丸くした。まさか、ここでつぐみさんの名前が出るとは思っても見なかった。唖然とする私に視線を戻して、雪村君は小さく笑った。
「聞いたんでしょ?」
「う、うん……」
「笠原さんは、つぐみに似てるんだ」
あのとき、私のことを「つぐみ」と呼んだことに関係しているのだろうか。でも、似てる、とはいったいどういうことだろう。私の記憶が確かならば、つぐみさんは私とは全然違うはずなんだけど。背が小さいことと、私が必死に伸ばしたこの髪くらいしか似ているところはない、と思う。
「ど、どこが?」
「葵に振り回されているところとか、俺なんかのために必死になってくれるところとか……」
雪村君は顔を俯かせた。もしかしたら、彼女を思い出して泣いているのかもしれない、と思った。
「いつも一生懸命なところとか」
でも、そう言って顔を上げた彼の瞳には涙らしきものは見えなかった。
「……私は、別に一生懸命なんかじゃないよ」
「そうかな? 本当に一生懸命やっている人は一生懸命やってるとは言わないしね。少なくとも俺には君は全力で戦っているように見えるよ」
「そんなことない! わ、私は全然頑張れてなくて、だ、だから、中学生のとき、雪村君が本気で頑張ってるのを見て羨ましくて、それで――」
「あの友だちとは、仲良くやってるの?」
「え?」
突然のそのセリフはいったいどういう意味なのだろう。雪村君は、あの日のことを覚えてくれているのだろうか。
「中学二年の県大会。あのときの子でしょ? 笠原さんって」
「……そ、そう」
「久しぶりだね」
「うん……」
「ごめん。最初から気づいてたんだ」
「え?」
「でも、近づく勇気がなかった」
雪村君は、頼りなさげに微笑むと、また下を向いた。
「逃げていたんだろうな。きっと」
「……」
「笠原さんと葵が仲良くしているのを見ると、昔に戻ったみたいで息苦しかった。もう二度と戻ってこないはずの日常を見ているみたいで辛かった」
声が震えている。私は何も言えずに、ただただ彼を見下ろすしかなかった。
「でも、笠原さんは笠原さんで、つぐみはつぐみだ。君とつぐみを重ねるのはもう止めにしようと思う」
再び顔を上げた彼の顔には決意の光が宿っていた。
「それを吹っ切らせてくれるために、君はここに来たんじゃないの? 葵に乗せられて」
「え、えーっと……」
「そういうところは全く似てないんだよな。笠原さんも葵をうまく手玉にとってみなよ。からかいがいがあるよ、あいつは」
そう言って、くくっと笑う雪村君は、中学生のときに見た、私が好きになったときの彼の顔に徐々に戻っているようだった。
表面的ではなく、心からの笑顔。
私がもう一度それを見ることができる日は、もうすぐにやってくる気がした。
「それで、要件は何? 言ってみな」
「あ、あの、わ、私と賭けをしませんか?」
「賭け?」
「は、はい。えっと、今度のクラス対抗リレーで、3組が1位になれたら雪村君の勝ち、それ以外なら私の勝ちです」
「それって、俺が不利じゃない。クラスは全部で8つあるんだよ?」
ここだ。ここで、葵に教えてもらった、とっておきの一言を雪村君にぶつけてやる。
「か、勝つ自信がないんですか?」
それを聞いて、彼は一瞬きょとんとした顔になり、それから不機嫌な顔になった。
「それも葵の入れ知恵か? 全く油断ならないやつだな……」
そうぼやく彼は立ち上がってお尻をはたくと、私の顔を上から見下ろしながら言葉を続けた。
「で、君が勝った場合、俺はどうなるの?」
「私が勝ったら、雪村君は陸上部に入ってください!」
「…………へ? そんなことで良いの?」
「そ、そんなことじゃありません!」
間の抜けた顔をする雪村君に、私はくってかかった。そんなことじゃない。私にとっては、とても、とても大事なことなのだ。
「……そっか」
雪村君は、何かを考えるように目を瞑り、そのまま口を開いた。
「分かった。良いよ」
「ほ、本当に!?」
「ただし、俺が勝ったら、今後一切、俺のやることに口を出さないって約束できる?」
「……う、こ、今後一切?」
「そう、今後一切」
雪村君は目を開けると挑戦的な瞳を向けた。もし、これでもう二度と陸上はやらない、と言われたら私に手出しはできなくなる。
……でも、ここは退けない。
「わ、分かった」
「おし、交渉成立だな。んじゃ、笠原さん、ちょっと走ってみて」
「…………え?」
雪村君は、私の手を引くと屋上のはしっこに連れて行く。私は彼に引っ張られるままに、そこに立った。
「え? なんで、走るの?」
「だって、確か笠原さんって走るの苦手でしょ? 教えてあげる」
「え、いや、でも……」
「勝ちたくないの?」
「か、勝ちたいけど、か、勝ちたくない、というか……」
勝ちたいけど、勝っちゃうと賭けには負けてしまうわけで……。その狭間で揺れる私は、答えを濁すしかなかった。
「俺を走るように仕向けたのは君だよ」
「む。ま、まぁそうだけど……」
「だから、一緒に走ろう、笠原さん」
「う……わ、分かった」
なんだか上手く乗せられた気もするけれど、私は内心嬉しかった。まさか、雪村君とこんなに長い時間一緒にいられる日がくるとは思わなかった。
足はがくがくになったけれど、それでも、すごく楽しかった。走るって、こんなに楽しかったんだ。
「さて、あとは本番を待つだけみたいね」
二人の様子をこっそりうかがっていたあたしは、なのかが走り始めたころに、そっと屋上を後にした。
なのかの力なのか、それともつぐみの力なのか、修一はゆっくりと元に戻りつつある。まだまだ純真ななのかはどうだか分からないけれど、修一はきっとうまく“乗せられてくれる”だろう。
さて、最後の仕上げね。
後は、桜井侑哉にうまいことやってもらって、とどめを刺すとしよう。




