六章 空(1)
「体育大会の出場種目を決めたいと思います」
6月も中盤に入り、高校生活最初の行事ともいえる体育大会が迫ってきた。今日はその種目を決めることになっている。
まずは、ここで失敗してはいけない。
後ろから葵の無言のプレッシャーがかかる。これくらいはやって欲しいと頼んだんだけど、
「あら、あなたがやることに意味があるんじゃない」
と言って、取り合ってくれなかった。う〜……。ど、どうしよう、どうしよう。
「このクラス対抗リレーというのは、各クラスから男女代表1人ずつを選び、1組、2組、3組……8組と学年単位で1チームを作って競い合う、この体育大会一番の見せ場ともいえる競技です。だから、できればこのクラスで一番足の速い人に出てもらいたいのですが、どうでしょうか?」
「でも、足が速いとか、って分からなくないか? 陸上部に入っているならともかくさ」
「そうだよね。まだ3ヶ月弱くらいしか一緒にいないし」
「体育の授業で走ってはみたけど、それだけで判断するのもきついよな」
クラス中がざわめく。
クラス対抗リレー。
これが勝負をかける種目だ。私はざわつく教室の中で、言葉を発するタイミングを探していた。
「では、まずは立候補にしましょうか? 出たい人、いますか?」
静まり返る室内。2,3年生と同じチームになってリレーを行うというのは、1年生にとっては緊張ものだ。もしもミスをしてしまって、そのせいで目をつけられでもしたらどうしようもない。
もちろんというかなんと言うか、手を挙げる人は誰もいなかった。
「では、推薦でも……」
ここだ。後ろの席から咳払いが聞こえ、私はがたっと大きな音を立てて立ち上がった。クラス中の視線が集まる。雪村君は前を向いたままで、こちらを見ようともしない。
「何ですか? 笠原さん」
「え、えっと、クラス対抗リレーなんですけど……」
ちらっと、もう一度雪村君を見る。依然として、我関せず、と言った風に窓の外を見つめる彼を見て、本当にこんなことをしてもいいのかと迷う。
……が、そんな私の迷いを察したのか、後ろから椅子を蹴られた。女の子がそんな真似をしちゃだめなんじゃないかな、と思いながら、後ろに目をやると、いやに真剣な顔をした葵がいて、私の目を見て小さく頷いた。
「あの、私は……ゆ、ゆ、雪村君が走れば良い…………と思うんですけど……」
瞬間、雪村君がこちらを振り返り、私を睨みつけ、ついで、葵に視線をはしらせた。
「えーっと……雪村君、どうですか?」
司会の学級委員、井上君が、雪村君に同意を求める。
「僕は、そういうのは――」
「雪村君はっ!」
彼の言葉を遮って、私は大きな声を出した。クラス中の視線が集まる。雪村君は、私が大声を出したことに驚いたのか、目を丸くして、私を見つめていた。
「中学生のときに、100mで全国優勝していますから、彼しかいないと思います」
私の言葉に再びっざわつき始める教室。
「え? 全国優勝って?」
「雪村って、やっぱりあの雪村なのか」
「それで林先生や桜井君が雪村君につきまとってたのね」
「だったら、雪村でいいだろ。決まりだな」
「し、静かにしてください!」
収拾のつかなくなったクラスを落ち着かせるように、井上君が声を張り上げ、再び雪村君に問いかける。
「えっと、雪村君。出てくれるかな?」
雪村君は諦めたようにため息をついた。それから、すっと立ち上がると、こちらに視線を向けた。
「笠原さんが出るなら出ても良いかな」
「…………へ?」
私は突然のことにぽかんとした。私の足は自慢じゃないけれど、とても遅い。
「え、わ、私は――」
「いいわ。うちのクラスの女子代表はなのかがやる。それで出てくれるのね?」
丁重にお断りをしようとしたところで、葵が立ち上がって私の肩に手を置いた。
「でも、言っておくけど、この子の足はかなり遅いわよ。大丈夫なの? 3組の1年生のクラス代表として出るのよ?」
「ささやかな抵抗だ」
雪村君は小さく笑ってから席についた。井上君が困った風に私の顔を見てくるので、もう頷くしかなかった。
――こうして、私と雪村君はクラス対抗リレーの代表になった。
「ささやかな抵抗だなんて、変わらないわね、あいつ」
放課後、葵がはき捨てるようにそう言うのを聞いて、私は首をかしげた。
「どういうこと?」
「“推薦”なんていう形で走るのが嫌なんでしょ。自分の意思でもう一度走り始めるつもりだったんじゃないかしら?」
「……え? そんなー…………。だって葵がそうしろって言ったんだよ?」
私はがっくりと肩を落とした。
「今ので嫌われちゃってたらどうしよー」
「あんな態度をとったってことは大丈夫よ。それよりもここからが勝負よ」
「え?」
泣き出したくなるのを堪えて、私は間の抜けた声を上げた。ここからが勝負って?
「修一は今、屋上にいるわ。だから、なのかは今すぐ屋上に向かいなさい」
屋上と聞いて、少しびくりとした。でも、最近の雪村君はあの頃に比べて、随分と元気になっている。もう自殺なんて考えていないはずだ。
「そこで“あの話”をするの?」
「そう」
あの話……。葵が提案した、あの計画を実行するのだ。
「で、でも、私、き、嫌われちゃってるなら、話聞いてくれるかな?」
「だから、大丈夫だって。あいつは、なのかのこと嫌ってないと思うわ」
「どうして?」
「修一は、本当に嫌いな人に干渉したりしないわ。それに……」
「え?」
葵が言葉を濁したので、私は思わず聞き返したが、彼女は何でもない、といった風に首を横に振った。
「ま、ここはあたしの言葉を信じて、屋上に行ってごらん。多分、なのかの話ならちゃんと聞いてくれるわよ」
「そ、そうかな」
いまいち自信はなかったけど、葵が言うのなら、そうなのか、と思えるから不思議だ。
……あ、これが「親友」というものなのかもしれない。
「……ごめんね」
不意に声のトーンを落として、葵が謝った。いきなりのことに私は驚きを隠せなかった。
「ど、どうしたの?」
「本当はあたしが頑張らなくちゃいけないのに、全部なのかに頼んじゃって……。あたしは……あたしは、修一の“親友”だったはずなのに」
葵の手のひらに滴が落ちた。葵は泣いているのだ。普段は、凛として格好良い葵にも弱い部分がある。今、私の目の前にいる彼女の姿が、その思いが本心だと分かるから、私は嬉しかった。
「いいの。葵がくれたチャンスを無駄にしたくないし、これは私のためでもあるんだから」
私は立ち上がると、ぐっと拳に力をこめた。そうこれは私のためでもある。私はなんとしても雪村君と仲良くなりたい。そのためには、自分から動かなくちゃいけない。
その勇気と機会をくれたのは葵だ。謝られる理由なんてない。それに、私の前で二度も弱さを見せてくれた「親友」の信頼に応えたかった。
「任せて」
「……うん、お願い」
私は駆けていく。雪村君がいる屋上へ。
あたしはなんて情けないのかしら。
自分にできないからといって、全てをなのかに任せてしまった。
でも、あたしでは無理。
あたしでは修一を救えない。
あたしは9年も一緒にいたというのに、まだ2ヶ月ちょっとしか修一と過ごしていないなのかに、その役目をとられることは少し癪だったけど、こればかりは仕方がない。
年月の長さではない。
あたしは、いつまでたっても「親友」より上にはいけないけど、なのかはいつか「彼女」になれるだろう。
この件が無事に解決したとき、それが証明されるはず。
そしてまた、あの日のように“三人”で笑い合える日がやってくればよい。
……お願い、なのか。




