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五章 夢(4)

 その日、雪村君は授業が始まっても教室に戻ってこなかった。葵も先生が来る前に教室を出て行った。

 

 これは、何かの兆候なのかもしれない。

 

 雪村君が葵と言い争っていた日、あの日から、雪村君はどこかおかしかった。何かに怯えているような、落ち着かない様子は私をひどく不安にさせた。

 そんなことはない、と言い聞かせながら、もしかしたら、という思いが浮かんでは消えていく。


『力を貸してくれない?』

 

 葵の言葉が思い起こされた。

 私に何ができるのだろうか。私に雪村君を救うことができるだろうか……。

 

 授業が始まってしばらく経つけれど、それでも戻ってこない二人のことが気になって仕方がなく、ノートをとる集中力さえなくなっていた。

 

 私は、思い切って立ち上がった。ガタっという音が響いて、クラス中の視線が集まる。


「先生、ちょっと気分が悪いので保健室に行ってきます」




 まじめだけが取り柄だったはずの私は、この日、生まれて初めて授業をサボった。




 当てがあったわけではない。とにかくがむしゃらに探し回るしかなかった。そして、ふと思い出した。彼は屋上で空を見上げていることが多いらしい、という話を。

 

 こんなことなら普段からもっと体力をつけておくんだった……。

 

 私は息を切らしながら、そんな悪態をつき階段を駆け上っていく。それでも足を休ませることはしなかった。

 


 私は今、本気で雪村君を追っている。




 屋上の扉は開いていた。葵の後ろ姿が見える。その前には――。



「だ、だめーっ!!」



 乱れた息は整わず、涙をぼろぼろ流しながら、私はあらん限りの声で叫んだ。

「な、なのか?」

 振り返った葵の顔も涙で濡れていた。雪村君も突然のことに呆気にとられているのか、その場に立ち尽くしたままだ。

「し、死んじゃだめ……」

 あたしは鉄柵を握り締め、彼に言葉をかける。瞬間、彼の目が大きく見開かれ、その場に崩れ落ちた。

 彼は這うようにして鉄柵に近づき、指先で私の頬に触れた。




「……つぐみ」




 雪村君は私の顔を凝視し、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、その名を何度も呼んだ。

「お願い。死なないで」

 彼がなぜ、私を“つぐみ”と呼んだのかは分からない。けれど私は、自分がなのかだろうが、つぐみだろうが関係なく、彼をここに引き止めるために必死に言葉を探した。

「……お願い」

 雪村君の手が鉄柵を境にして、私の手に触れる。その手はとても冷たかった。

「俺は……。俺はもういいんだ。疲れたよ」

「何言ってんの?」

「ごめんな、つぐみ。俺の……俺のせいで……」

 私の口は自分の意志とは無関係に動いた。自分でも何を言っているんだろう、と思った。



 だから、多分、この言葉は私が言ったんじゃないんだと思う――。






「修一は悪くない」






「…………え?」

「修一は悪くないから。お願い、生きて」

 そこまで言ったとき、私は何かに肩を叩かれた。

 それが葵だったのか、別の誰かだったのかは分からない。私は雪村君の顔から目が離せず、それを確認することができなかった。

 

「彼女」に勇気付けられた私は、今度は自分の意志で口を動かした。






「私は、雪村君が走ってる姿が好きだからっ!」






 なんで、このタイミングでそんなことを言ったのかは分からない。でも、なぜか今はこれが彼を繋ぎとめるためのベストな言葉だと感じた。

「だから、もっともっとあなたの走る姿が見たい。死んじゃ嫌だ」

 雪村君の瞳のぶれが収まった気がした。彼は手を離すと、鉄柵を頼りに立ち上がった。


 そして、今度は“彼女”ではなく“私”の名を呼んだ。


「……笠原さん」

「何?」

 雪村君は葵の顔を見て、それから力なく微笑んだ。

「ありがとう。そう言ってくれたのは、君が“三人目”……だよ」

 

 言い終わると同時に彼は意識を失った。膝から崩れ落ちる彼は、屋上から右腕だけをだらりと落とし、身体はそこに残して、その場にばたりと倒れこんだ。

 私は思わず悲鳴をあげ、急いで鉄柵を乗り越えようとした。でも、それよりも早く葵が乗り越え、雪村君を抱え込んだ。ひどく心配そうな顔つきで、涙を流しながら葵は雪村君の名前を呼び続けた。

 私はいろんな思いがごちゃまぜになって、どうしてもその場にいられなくなり、保健室へと駆けていった。




 雪村君の身体は警報を鳴らしていたらしい。数日間に渡る睡眠不足に加えて、胃の中はほとんど空っぽという状態だった。


 一人暮らしで良かったのか悪かったのか……。


 家族に心配をかけなかった点では良かったと言ってもよいのかもしれないけれど、家族がいなかったことがまた悪い要因となって、彼は倒れた。


 普段から、まめに家事をするため綺麗に保たれているという彼の家は、信じられないくらいに燦々たる状態だったらしい。






 倒れた雪村君を先生と共に保健室に運び終えた後、私は葵と話をした。

「ありがとう」

 葵の第一声はそれだった。子どものように泣きじゃくり、夏美とは違って自分の弱さを私の前にはっきりと示しながら、葵は何度も感謝の言葉を述べた。

「……よしっ」

 しばらく泣きつくした後、葵はすっと立ち上がると、私の肩に手を置いた。目は真っ赤だけれど、先ほどまでの弱い葵はもういない。

「ここからが勝負よ、なのか」

「ふぇ?」

 その瞳には強い意志が光っている。その切り替えの早さに(……あぁ、この人は本当に凄い人だな)と思った。

「体育大会よ。一気に畳み掛けましょう」

「え? だ、大丈夫なの? こんなことがあった後に……」

「大丈夫よ。あなたの言葉で修一もいくらか救われたはず。余計なことを考えさせる前に、さっさと事を進めなきゃ」

「で、でも……」

「でもじゃないわ」

 葵は私の頭を軽くなで、それからにこりと笑った。

「修一は逃げていただけだもの。走ればきっと思い出すわ。いろんなことを……」

「でも、つぐみさんのことは……」

「だから大丈夫だって」

 葵は拳をぎゅっと握り締めると、それを小さく掲げた。

「つぐみも修一の走っている姿が大好きだったから。それを見せてあげれば良いのよ。あなたが、ね」

 すっと、葵は空を見上げた。どこまでも続く青い空が私たちを見下ろしている。


 本当にそれで全てが救われるのかどうかは分からなかった。

 でも、私にできることがあるとすれば、もうそれしかなかった。だから、私は小さく頷いた。

 

 雪村君にもう一度、走ってもらうために、私たちは動く。






 結局、雪村君は丸二日眠り続け、目を覚ましたときには、これまでの分を取り戻すかのように、とにかくよく食べた。


 きっと「彼女」が彼に何かをしてくれたのだと思う。


 彼が元気になれるような、そんな何かを……。




 だから「彼女」には少し悪い気もしたけれど、ここからは私の番だ。











 夢を見た。


 笑顔のつぐみは、俺の手をとって言う。


「修一の走ってる姿、格好良いね。大好き」


 俺がその言葉をもらって、どれだけ嬉しかったか。


 きっと、誰にも想像できないだろう。


「最近は、走ってくれないのね」


 つぐみは不満そうに口を尖らせて、俺の顔を覗き込んだ。


「ね。走って見せてよ。私は、ずっと、ずーっと見てるんだから」






 唇にあたたかいものが触れた。






 俺は、いったい何をしていたのだろう……。


 どれだけ無駄な時間を過ごしていたのだろう……。




 ごめん、つぐみ、葵、それから――。

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