五章 夢(2)
「その日から、修一は陸上を忘れ、ほとんど学校にも来なくなった。あたしもあれから彼と言葉を交わした覚えはないわ。だから、彼が知り合いのいない場所を求めて家を出て、光葉を受験したと聞いたときは驚いたわ」
絶句したままのなのかに向かって、あたしはあの日の全てを話した。
「でも、別に彼が罪悪感を覚える理由はないのよ」
そうしてなのかの手を握る。どこか“彼女”に似ている彼女に全てを託す。
「あなたなら、修一を救えるかもしれない」
「……私は」
そう言われてなのかは搾り出すようにして声を出した。
「私は、つぐみさんの代わりってこと?」
確かに、そう思われても仕方がない部分もある。でも、それは違う。
「最初は、そうだったかもしれないわ……。つぐみと似た雰囲気を持つあなたと一緒にいると、昔に戻ったみたいで楽しかった」
つぐみとなのかは違う。それは絶対だ。
「あなたは代わりなんかじゃないわ。あなたは笠原つぐみよ」
「……」
何も答えないなのかに、あたしは恥ずかしい気持ちを抑えて口を開いた。つぐみにも直接言ったことがないだろう言葉を、今から彼女に言う。
「あたしは、笠原なのかと“親友”になりたい」
はっとした顔で、なのかがあたしを見つめる。顔は赤くなっていないかしら。
「そして、あたしはまた雪村修一と“親友”に戻りたいの。……だからお願い。力を貸してくれない?」
「……で、でも、私に何が――」
「できるわよ」
あたしはなのかの肩に手を置いた。びくっと身体を震わせるなのかに、精一杯の笑顔を向ける。
「修一は負けず嫌いで、冗談は言うけど決して嘘はつかない人だから」
「……?」
「もうすぐ、体育大会があるわね」
なのかは首をかしげたまま、可愛らしく小さく唸った。勘の良さは、圧倒的につぐみの方が上みたい。
「なのかも修一に、もう一度陸上をやってもらいたいんでしょ?」
「……う、うん」
「だったら、やることは一つよ」
「へ?」
「もう。それくらい分かってくれないと、あたしの“親友”としては落第ね」
「そ、そんなこと言われても……」
おろおろするなのかはとても可愛くて、もう少しいじめたくなったけれど、あたしが彼女に頼みごとをしているのだ。今は我慢しよう。
いじめるのは、また今度でよい。きっとあたしたちは、もっと仲良くなれるのだから。
「いいかしら? 作戦はこうよ」
びっくりした。
雪村君と葵、そしてつぐみさんにそんな過去があったなんて。
雪村君が全中で二冠をとった最高の日。その日に“彼女”が死んでしまうなんて……。そんなことがあったら、二度と陸上をやりたくなくなるのも、少しだけ分かるような気がした。
そして彼は全てから逃げるようにして光葉を受けたにも関わらず、自分の、そしてつぐみさんの“親友”だった葵と再会してしまう。
葵が雪村君に対して、ぞんざいな態度をとっていた理由が分かった。
お互いにもう一度、近づくことができるほど、雪村君の中でつぐみさんの問題が解決していないのだ。
全てを忘れてしまいたかった雪村君と、もう一度、全てを取り戻したい葵と……。
――私に、何ができるだろうか。
葵は言った。
「自分ではどうしようもない」と。
でも、果たして葵にできないことが私にできるのだろうか。
ただ、私は嬉しかったのだ。
葵が私と「親友」になりたいと言ってくれたことが。
だから、少しだけ頑張ろうと思う。
だって、私は雪村君の「ヒロイン」になりたいから。
夢を見た。
今日、修一やなのかとあんな話をしたからだろうか。夢の中で、あたしたち三人は楽しそうに笑っていた。
いつまでも続くと信じていた、あの関係……。
「つぐみ、喉渇いてないか?」
「ん、ちょっと渇いてるかな」
「んじゃ、何か買ってくるよ、何が良い?」
「えーっと……」
「じゃあ、あたしはコーラで」
「ごめん。ちょっと何言ってるのか、全然分からない」
「なんでよ」
あたしはにやけ面の修一の頭を軽くはたいてやる。
「私は紅茶が良い!」
「紅茶ね、了解」
「あたしはコーラ!」
「じゃあ、行ってくる」
あたしの方を見ようともせず、つぐみに向かって笑いかける修一を見て、わざときつい声を出してみる。
「……あんたねぇ、いっつもそうだけど、差別はやめてほしいわ」
「失礼だな。これは差別じゃないし、たとえ差別だとしても妥当で公正な差別だ」
「どこがよ!?」
「お前とつぐみとじゃ、比べ物にならないってこと」
修一はまたにやっと笑うと、あたしの攻撃を避けて自動販売機にかけていく。
全く憎らしい。憎らしい、けど……。
「相変わらず、仲良いね」
「ん?」
「羨ましい」
「どこがよ? あんなからかうような態度とられるあたしのどこが羨ましいって?」
「修一とじゃれあえる人って羨ましい」
そう言ったつぐみの瞳はどこか寂しそうで、あたしは「彼女」と「親友」には大きな隔たりがあることを感じた。
親友には親友というポジションがある。あたしが修一を憎めない理由も、あたしが彼の「親友」だからこその理由だ。彼は、あんな態度をとっても、絶対にあたしを傷つける真似はしない。多分、今回も……。
もし、あたしが修一の「彼女」だったなら、彼はあたしのことを“いつも”のように扱ってくれただろうか。それとも、今のつぐみのように“大事”に扱うのだろうか。
それは、どっちであってもなんだか少しだけ物足りない気がした。
「妬いてるの?」
「べ、別に妬いてなんかない!」
「相変わらず可愛いわね」
「うるさいなぁ、もう!」
そう言いながら、つぐみの頬を突いて彼女の反応を楽しむ。しばらく満喫したころ、修一が走って戻ってきた。
「はい、つぐみ」
「ありがと」
戻ってきた修一は予想通り、手に三つの缶を持っていた。紅茶とコーヒーと……コーラ。
「ほい、葵。120円ね」
「は? おごってくれないの?」
「え? おごる理由がないよね」
「つぐみにはおごったのに?」
「つぐみのは俺の意思で買ったが、葵のは頼まれたから買ったんだ。お金を請求するのは妥当だろ?」
「どうしてかしら。すごく腹が立つわね」
そういうわけで、修一の手からコーラをぶんどって、軽く、本当にかるーく彼の足を踏んづけてやった。案の定、修一は大げさに痛がり、そして、小さく笑う。
「今度、返せよ」
「はいはい」
確かに、あたしたちはじゃれあっているのかもしれない。でも、それはいつもの見慣れた風景もはず。
それを見ながら、つぐみは何を思っていたのだろうか。
あのときはからかうつもりで、ああ言ったけれど、呆れるくらいヤキモチ妬きの彼女は、あたしにもヤキモチを妬いていたのだろうか。
修一が他の女子とちょっと話をしただけで、ぶすっと膨れる彼女は、本当にあたしにも妬いていたのだろうか。
それは今ではもう分からないことになった。
でも一つだけ確かなことがある。
修一は、つぐみしか見ていなかった。
彼の中で、彼女は絶対的な存在だった。
彼女がいるから彼は彼でいられたのかもしれない。
そして、あの日、それが欠けてしまった――。
あいつと言い争ったせいだろうか。
ここのところ日を置くことなく毎晩、あの日の夢を見るようになった。
つぐみの身体が僕の目の前から消えていく瞬間ばかり、繰り返される。
悪夢以外の何ものでもない――。
おかげで、寝不足になった。
眠れない日々が続き、頭もぼんやりとしてくる。
食欲もない。やる気もない。
高校に入って少しは落ち着いたと思っていた精神状態があの事件の後に戻ったようだった。
精神的にずたぼろになった俺は、この先どうすればよいのだろう。
もう、何も考えたくない……。




