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四章 橋本つぐみ(3)

(高校生にまでなって宿題のプリントを忘れるなんて……)

 せっかく途中まで帰った道のりを再び引き返しながら私は悪態をついた。葵が「用事がある」というので、今日は私一人で下校していた。部活もやっていない彼女が何の用事だろうと思ったけれど、彼女は私の「友人」であるはずだから、私はそれに従った。

 教室まで戻ってきて、さぁ入ろうというときに、中から大きな声が聞こえた。

 それは雪村君の声であって、雪村君の声ではなかった。


「――俺が殺した、あの女の顔が!!」

 

 しかも、その内容は信じられないものだった。


 俺が殺した……? 


 悪いとは思いつつ耳を傾けると、次はビンタの音がした。

 この中に、もう一人、誰かがいる。


「吐き出して、少しは楽になったかしら?」


「……あ?」

 葵だ。この教室には、雪村君と葵がいる。私は今すぐにでもこのドアを開けて中を覗きたい衝動にかられた。

「誰も、修一がつぐみを殺したとは思っていないわ」

 けれど、葵のその一言で思いとどまった。

 つぐみ? 

 つぐみというのは、果たして誰のことだろうか。

「もう、良いでしょ?」

 葵の言葉が続く。

「ね?」


「…………誰も、だと?」

 

 これも雪村君が発した声なのだろうか。私は怖くなって、今度はそこから逃げ出したい衝動に駆られた。でも、足が根をはったように動かない。

「誰もじゃない。“俺は”俺がつぐみを殺したと思っている」

 

 雪村君が、つぐみさんという人を殺した?


「バカね」

「何だと!」

 大きな音がして、私は身体を震わせる。しかも、その後に驚くくらい冷静な葵な声が聞こえて、私の恐怖はさらに加速した。

「あなただけが不幸なわけじゃないわ」

「確かに、不幸なのは俺だけじゃない。……でも、俺が不幸だというのは事実だ」

 私の頭は混乱でうまく回っていなかった。だから、彼がドアに近づいてきたときもうまく反応できなかったのだ。

「雪村修一は、そんな人だったかしら」

 

 そして、見つかってしまった。

 

 私に気づいて怒っているような泣いているような複雑な表情をしている雪村君と、突然の出来事に固まってしまった葵に……。

「か、笠原さん。どうしたの? 忘れ物?」

 すぐに体裁を立て直して、雪村君が笑顔を浮かべる。さすがの私にも、それが演じられた笑顔であることは分かった。それでも、私は気づかない振りをした。するしかなかった。


 私はまだ何も知らないのだ。


「う、うん。ちょっと宿題のプリント忘れちゃって……」

「そっか。気をつけないとね。じゃ、僕はもう帰るから。また明日ね」

「あ、うん。ま、また、明日……」

 逃げるように帰っていく雪村君を見送ると、教室に残されたのは私と葵だけになった。

 

 葵は私の「友人」なのか「クラスメイト」なのか「敵」なのか、それとも「別の何か」なのか……。それを判断するときが来たのだと感じた。途端に冷静になった頭が、一気に回転を始める。

「な、なのか?」

「何、葵?」

「どこから、聞いていたの?」

「……俺が殺した、の辺りから、かな?」

 葵はぎゅっと拳を握り締めて、唇をかみ締めた。ここは押すところだろう。

「つぐみさんって誰? 葵は雪村君と知り合いなの? 雪村君がつぐみを殺したって何? わ、私には何も教えてくれなかったのは、な、な、何で!?」

 喋り始めると、せっかく冷静になったはずの頭がすぐにオーバーヒートを迎えた。一度にまくし立てたせいか、葵はしどろもどりになりながら、とりあえず私に落ち着くように促した。

「お、おおおおお落ち着いているから! だから、は、早く教えて」

 葵は近くにあった席に腰かける。私もそれにならって葵が座った席の隣に腰掛けると、身を乗り出して葵の手を掴んだ。


「教えて、お願い……」

 

 葵は困ったように頭をかいた後、小さく息をはき、ようやく口を開いてくれた。

「あたしは、修一と小学校、中学校が一緒だったの」

「小学校と……“中学校”が、一緒?」

 ということは葵は雪村君と9年間も一緒に過ごしたことになる。

 そうであるというのに、雪村君に対してあのような振る舞いをしていた理由は、いったい何なのだろう……。

「そう。昔はあたしと修一は“親友”だったと言って良かったと思うわ。でも“あの事件”以来、修一との関係は“ただのクラスメイト”以下になったの」

「あの事件?」

 葵はしばらく逡巡した。言うべきか言わざるべきか。何度か口を開いては閉じることを繰り返して、それから意を決したように咳払いをした。

「当時、修一には彼女がいたの」

 彼女、という言葉に身体が反応する。あのポニーテールの少女の姿が浮かび、それから――。

「あ……」

「どうしたの?」

「ん〜ん、なんでもない。続けて」

 そうか。あの子の隣にいた大人っぽい子は葵なんだ。今は髪の毛を染めているけど、間違いない。あのとき、彼女と一緒に雪村君を応援していたのは葵だったんだ。


「その彼女の名前は、橋本つぐみ」


「……つぐみ」

 

 雪村君と並んで歩いていた可愛らしい女の子。正直、羨ましくて仕方がなかったあの子の名前がようやく分かった。

 でも、つぐみさんというのが彼女の名前ならば、さっき雪村君が言っていたことって……。

「去年の夏。全日本中学校陸上競技選手権大会最終日。400mリレーで優勝して、その結果100mと併せて二冠を達成したあの日に……修一は陸上をやめたの」

「え……なんで?」

 その問いに葵は苦しそうに顔をゆがめ、しんと静まり帰った教室に響き渡る、透き通るような声できっぱりと言った。






「その日に、つぐみが死んだからよ」

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