妹の名前3
四万六千二百一、ニ、三、四……。
「晶、くん……」
「……えっ?」
気が付けば、
目の前に温子さんが立っていた。
……僕の部屋なのに、
どうして温子さんがいるんだろうか?
「電話……気付かなかったのかい?」
「電話? ああ……」
携帯に目をやると、
確かにぴかぴか光っていた。
全然気付かなかった……。
「呼び鈴にも出ないし、鍵もかかってなかったから、
何かあったと思って上がらせてもらったんだ」
「それより、何をしているんだ晶くんはっ?
体中傷だらけじゃないか!」
「額も、手も切って……
引っ掻いた痕まで……」
ああ……言われて気付いた。
切れてたんだな。
まあ、そんなのはどうでもいい。
別にこんな傷、放っておいても治る。
「それより……助けてよ、温子さん。
コトコの顔を思い出せないんだ……」
「……それはまた、昨日みたく?」
「僕にも、よく分からない。
けれど、どんどん消えていく気がするんだ」
「手の中から砂が零れていくみたいに、
少しの手触りだけ残してどこかへ行くんだよ」
「だから、コトコに会うまで、
呟いて、ずっと忘れないように、名前を……!」
「……晶くん、とりあえず落ち着いて」
「で、でも、名前を……名前を言ってないと。
コトコが、帰ってくるまでは、ずっと!」
でないと、コトコが消えてしまう。
死んでしまう。
僕が名前を言い続けてないと、
コトコが死んでしまう。
死んじゃったら、帰って来られない。
だから、それまではずっと、
名前を呼び続けてないと――
「分かった。分かったから、
とりあえず落ち着こう? ねっ?」
「温子さん……でも……」
「昨日もそうだったけれど、
私が話したら思い出せたんだよね?」
「ああ、そっか……。
温子さんに教えてもらえばいいんだ」
「……」
「ただ……一つだけ約束して欲しい」
「約束って……?」
「私は、絶対に嘘はつかない。
それから、覚悟を決めて話す」
「だから、晶くんには、
ありのままを受け止めて欲しいんだ」
ありのままを……。
「晶くんには絶対に、
真実と自分自身から目を逸らさないで欲しい」
「それを約束してくれるなら、教えるよ」
「……分かった」
温子さんが、
何を言っているのか分からないけれど――
「約束、するよ……。
僕は、絶対に目を逸らさない」
温子さんがそれを求めるなら、
僕は、応えるだけだ。
これまで、温子さんと一緒にやってきて……
クラスのこととか、ABYSSのこととかをやってきて。
温子さんの言うことを聞いて後悔したことなんて、
一度もなかったんだから。
「……信じるからね、晶くん」
温子さんは笑顔で頷いて、
僕の前に腰を下ろした。
それから、同じ目線の高さで、
じっと僕の顔を覗き込んできた。
「昨日も言ったけれど、
爽は私の妹で、琴子ちゃんは晶くんの妹だ」
「琴子ちゃんは、
晶くんと、この家で暮らしていたんだよ」
……そうなんだ。
全然実感がない。
大切なものっていう感覚はあるのに。
「晶くんは、
ABYSSのことは覚えているのかい?」
「それは……当然でしょ?
だって、巻き込まれてる最中だし」
「そうか。それなら、
全部説明しなくても大丈夫だね」
「ABYSSは、生け贄にとって大事な人を、
人質として確保するんだ」
「じゃあ、私と晶くんが生け贄になった場合、
誰が人質になるかというと……」
「琴子と……爽なの?」
温子さんが、暗い表情で頷く。
「じゃ、あ、二人がいないのって、
ABYSSに浚われたからなの?」
「そうだ」
「そうだって……助けに行かなきゃ!」
「……いや、必要ないよ」
「必要ないって、どうして?
妹なんでしょ!?」
「もう、必要ないんだ」
「……え?」
「だって、二人は――」
――急に、続きが聞こえなくなった。
ふっと、柔らかい毛布に包まれたみたいに、
底のない安心感が体の表面を走った。
あまりにも心地よいその感覚に、
意識が遠のく。
同時に、まずいと思った。
取り返しの付かないことになると思った。
この落ちていく感覚こそが、
僕の一番怖かったものだという直感があった。
だから、落ちていかないように、
人差し指を噛んだ。
「い――」
それでも、まだ足りない。
「やだ――」
目を思い切り瞑り、全身に力を込めて、
噛み千切るつもりで歯を指に食い込ませる。
口の中に鉄の味が広がり、
嫌いな臭いが痛みよりも鋭く鼻を刺してくる。
それでも、歯は離さない。
ここで離してしまったら、きっと僕は寝て、
全てを忘れてしまう。
それはできない。
琴子を忘れたくない。
爽を忘れたくない。
自分自身から目を逸らさないって、
温子さんと約束したんだ。
ここで、眠るわけにはいかない――!
「晶くん……?」
その時、温子さんの声が、
すぐ傍から聞こえてきた。
目を開ける。
僕の噛み締めていた手を止めようとしていたのか、
温子さんが目の前で、僕の腕に手を添えていた。
「……大丈夫かい?」
「うん……何とか」
指がずきりずきりと鼓動のたびに痛む。
けれど、ずっと靄のようにかかっていた眠気は、
何とか晴れてくれていた。
「それより、爽と琴子は……?」
「二人は……ABYSSに殺されたんだよ」
ころ……された……?
「う……」
嘘だ、と言いたかった。
けれど、温子さんは言っていた。
絶対に嘘はつかないって。
だから――
でも――
「嘘、だ……」
僕は、信じたくなかった。
分かってる。分かってる。
温子さんは
嘘なんてつかないって分かってる。
でも、信じたくなかった。
「温子さん……お願い。
嘘だって言って」
「……嘘じゃないよ。
晶くんだって……その手で抱いたじゃないか」
「僕が……?」
両手を広げて、目を落とす。
覚えのないはずの重みがそこにあるような気がして、
慌てて手を引っ込めた。
「琴子は……生きてるんだ。
生きてるんでしょう?」
ねぇ? とその顔を窺うも――
温子さんはじっと、
涙の溜まった目で僕を見ていた。
「何で黙ってるの?
お願いだから、生きてるって言ってよ……」
忘れないようにって、
ずっと頑張ってたのに……。
もう死んでましただなんて、
そんなのあんまりだ。
だって、それじゃ――
「僕のしてきたことは、
全部無駄だったってことじゃないか……」
「……無駄じゃない。
無駄じゃないよ、晶くん」
「確かにもう、爽も琴子ちゃんも戻ってこないけれど、
だからって忘れていいわけじゃない」
「ABYSSは……というか世の中はこれから先、
二人に対して『消えてなくなった』扱いをするんだ」
「データとしては一定期間残るけれど、
それもすぐになくなってしまう」
「そうなったら、
二人の存在はどこに残るんだと思う?」
「人が本当に死ぬのって、
どんな時だと思う?」
「誰だって死ぬのは怖いよね。
私も、朝までずっと悩んだことがあるよ」
「どうして死ぬのが怖いのか。
私は何に怯えているのか。ずっと考えてた」
「その時、一番怖いと思ったのは、
『私が死んだ後も世の中が回り続けること』だった」
「でもそれは、当然のことなんだよね。
どんなに有名な人の死でも、世の中は止まらない」
「一瞬は止まっても、
その後も延々と続いていく」
「そんな世界で、私一人が死んだところで、
何の影響があるんだろう?」
「……分かってる。分かってるよ。
何の影響もないことなんてね」
「私が死んだら、私は消滅する。
肉体だけじゃなくて、存在そのものが」
でも――と温子さんが呟く。
目の端から、ほろりと涙が零れる。
「それでも、
生きた証を残したいじゃないか」
「有名な人なら、
生前に残したものがたまに引用されたりする」
「世の中は流れ続けるけれど、その流れの中でも、
ふと足を止めて見てくれる人がいる」
「じゃあ、私たちが死んだ後に、
足を止めて見てくれる人は誰だろう?」
「爽や、琴子ちゃんが死んだ後に、
誰が立ち止まってあげられるんだろう?」
それ、は……。
「晶くんにとっての琴子ちゃんは、
どんな存在だったんだい?」
「……私にとっての爽は、妹だった」
「どんなに変人と言われようが、空気を読めなかろうが、
アイツは私にとっては最高の妹だった」
「私にない部分を全て持っていた、
誰にでも誇れる、自慢の妹だったよ」
子供に絵本を読み聞かせる親みたいに、
優しい声で温子さんが呟く。
その様子に、
酷く心を掻きたてられた。
疼いたというべきかも知れない。
僕は……僕にとっての、琴子は――
「晶くんにとっての琴子ちゃんは、
どうだったんだ?」
琴子は、甘えん坊だった。
べったりだった。
ちょっとしたことで怯えて、
僕にだけは強気だった。
気分屋で、よく分からないところで
頬を膨らませてた。
人見知りで、初めて会う人にはあんまり喋れなくて、
いつも誰かの陰に隠れていた。
それが――その隠れる誰かが、
最初は僕の知らない誰かだったのに。
いつの間にか、
僕に変わっていたのは、それは――
「琴子は、僕の、」
――お兄ちゃん♪
「妹、だから……大切な、家族だ……!」
「……うん」
今、やっと思い出せた。
琴子の、忘れていた顔を。
そうだ、そうだ……!
琴子は、そうだった。
人懐っこい、
年相応のくりくりっとした感じだった。
瞳が大きくて、上目遣いに見上げられると、
ついつい言うことを聞いてあげたくなるんだ。
それをずるいよなと思いながら、何だかんだで、
頼られることに喜びを感じている自分がいたりもして。
どうして、こんな可愛い妹のことを、
忘れていたんだろうか。
本当に、どうして――
「琴子ちゃんの顔は、
ちゃんと思い出せたみたいだね」
「それじゃあ……
今度は、受け止める番だ」
「……本当、なの?」
「うん……。
琴子ちゃんはもう、死んでるんだ」
ふっと、意識が遠のきそうになる。
その甘い誘惑に、
唇の端を噛んで耐えた。
「死んだ人は、もう戻ってこない。
誰でもいつか死ぬのと同じで、避けられないことだ」
「でも、だからこそ、
事実をしっかりと受け止めてやらなきゃいけない」
「目を背けるってことは、
その人をいなかったことにするってことだから」
「晶くんが受け止めなきゃ駄目なんだ。
晶くんが悲しまなきゃ駄目なんだよ」
「晶くん以外に、琴子ちゃんの死を
悼んであげられる人なんていないんだから」
「……僕が、悲しむ」
「そう。晶くんが悲しまないといけない。
琴子ちゃんの家族の晶くんが」
顔を上げると、
そこには澄んだ温子さんの瞳があった。
その瞳に、
僕が映りこんでいるのが見えた。
隈が色深く刻まれた青白い顔が、
鏡のような潤んだ黒の中で、酷く歪んでいた。
でも、そんな今にも泣きそうな僕の顔なのに、
不思議と涙は流れていなかった。
「心配しなくても大丈夫だよ。
晶くんなら、きっとできるから」
「だから……私に、
琴子ちゃんのことを聞かせてくれないかな?」
「出会いから今までを、一つずつ全部」
出会い……
琴子との出会いは、覚えてる。
笹山の家に来た時に初めて見た、
小さな体を叔父さんの陰に必死に隠している姿――
「……この子が僕と暮らすってことの意味を、
最初はあんまり分かってなかったんだ」
「他所の家の子を妹って呼ぶ感覚が、
ちょっとズレてたのかな……なんていうか」
向こうは僕のことを警戒していたみたいだし、
僕からも敢えて近づこうとはしなかった。
けれど、同じ家で暮らす内に、
凄く寂しがり屋ってことが分かったんだっけ。
それと琴子は、
何をするにも自信がなさそうにしていた。
だから、見てられなくて横から細かく手を出してたら、
いつの間にか頼られるようになってたんだ。
……そうか。
今思えば、琴子が甘えん坊なのは、
僕にも原因があったのか。
「あ……いつの間にかじゃないや。
多分、すぐにだ」
「すぐに?」
「越してきたばっかりの僕に、
初めて笑ってくれた人が琴子だったから」
思い出した。
いや、今でも覚えてる。
那美ちゃんよりも、ただ一人だけ早い、
僕に笑顔を向けてくれた大切な妹だから。
「そう……だ。それから、那美ちゃんと知り合って、
三人でしばらく遊んでたんだ」
友達もまだ那美ちゃんしかいなかった頃は、
三人でよく遊んでた。
鬼ごっこやかくれんぼは、
僕もまだ加減がよく分からなくて。
那美ちゃんには文句を言われるし、
琴子は泣き出すしで、困ったことがあったんだ。
結局、体力差の出る遊びはやめて、
四葉のクローバーとか探して回ってた気もする。
……でも、色んなことがあった。
色んなことをやった。
僕はやっぱり、今と同じで一線引いてたけれど、
琴子と那美ちゃんに引っ張り回されてた。
なのに、そんな流される毎日も、
凄く居心地がよかったんだ。
「それから……」
大きくなっても……やっぱり、
僕にべったりだった気がしないでもない。
いや、琴子が女の子らしくなってからは、
夏場に汗臭いとか言われだしたのか。
あと、琴子の前で着替えようとすると、
琴子が部屋を出て行くようになったのもこの頃だった。
僕に対して妙に強気になったのも、
そうだったな……。
目を閉じるだけで蘇る、弾むような柔らかい声と、
しなやかで強い声。
さっきまでの僕が、まるで嘘みたいだ。
思い返しても悔やまれる。
どうして僕は、
こんな大切なことを忘れていたんだろう。
僕が忘れてた――忘れようとしていたのは、
もう、どんなに望んでも戻ってこないっていうのに。
それくらい、
かけがえの無いものだったのに、僕は……。
「晶くん……」
「えっ?」
「……気付いてない?」
「気付いてって……え?」
そこまで言われて、ようやく気付いた。
頬を伝っているだろう、一滴の雫に。
「え……? あれ? ぼ、く……」
泣いて……るのか?
もしかして、琴子のために……?
「あれ? の……温子さん、僕、」
何か、涙が出てる――
そう言おうとした途端、
温かくて柔らかい腕の中にいた。
「……それでいいんだ。
泣いていいんだよ、晶くん」
「え……で、でも、僕、は」
「いいんだ。
死に際まで思い出す必要はないよ」
「琴子ちゃんと過ごした日々が、
戻ってこないものだと理解できればいい」
「大切な時間をくれた琴子ちゃんを、
愛おしく思えるなら、それだけでいいんだ」
「ぁ……」
それでいいと、
温子さんに言ってもらえて――
僕の中で詰まっていたものが、
一気に噴き出した。
「ぅ……うあぁあああああああっっ!!」
もう限界だった。
ようやく思い知った。
僕は、手放したくなかった。
初めて手に入れた居心地のよさを。
「あああぁああっ!
こと、こっ、ことこぉっ!」
暗殺者時代にはなかった、
家族らしい温かさを。
大切な、家族を。
「晶くん……」
「の、のんごさん……
僕、ぼく、うぅうう……!」
「……いいよ。好きなだけ泣こう?
私がずっと、晶くんの傍にいるから」
「う、うううぅぅうう……」
琴子……。
ごめん……本当に、ごめん……!
僕は、多分、琴子を守ってやることができなかった。
琴子のことを、忘れようとしてた。
ごめん。ごめん。本当に、ごめん。
悪いお兄ちゃんで、本当にごめんな……。
そして――ありがとう。
僕には、琴子以上の妹なんていなかった。
琴子と那美ちゃん、どっちかが欠けていたとしたら、
きっと僕はどうしようもない人間だった。
琴子がいたから、今の僕はあるんだ。
本当に……本当に、ありがとう。
僕は、絶対に琴子のことを忘れないから。
もう、二度と。




