悪夢の始まり5<過去>
有無を言わせない怪人の言葉に――
少女の口から、
初めて小さな嗚咽が漏れた。
これまでずっと我慢していた気持ちが、
堰を切ったかのように溢れ出してきた。
「あらあら、とうとう泣き出してしまいましたね。
素直になっていただけたようで何よりです」
目元を擦りながらしゃくりあげる少女に、
怪人が拍手を送る。
「では、用意が整ったところで、
ゲームの説明をしていきましょうか」
「一度しか説明しませんから、
聞き逃して後悔することのないようにして下さいね」
嘲るような仮面の忠告に、
少女はハッとなって嗚咽を飲み込んだ。
そして、溢れてくる涙を何度も拭いながら、
必死になって仮面を睨み、説明を聞く準備を整えた。
「まずゲームの目的ですが、
こちらで設定した勝利条件を達成することです」
「クリアさえすれば首輪は外してあげますし、
ご褒美も用意してありますので、是非頑張って下さいね」
「なお勝利条件ですが、三つ用意してあります。
どれを選択していただいても構いません」
怪人が右手を上げ、一つ指を立てる。
「一つ目は、五人いるABYSSのメンバーのうち、
誰か一人を殺害すること」
殺害という言葉に、少女の顔が強張る。
殺し合いをしてもらうとは、
確かに言われていた。
ただ、勝利条件の一つとして実際に提示されてみると、
体がすっと冷たくなった気がした。
「対象となるABYSSのメンバーは、
学園内を徘徊しています」
「全員が必ず仮面をつけていますから、
それを目印にして下さい」
「もちろん、私でも構いませんので、
見かけたら遠慮なく殺しにきて下さいね」
「……そんなことしません」
いちいち言わせるなと含ませた回答だったが、
怪人は興味なさそうに『そうですか』と流した。
「なお、一人殺した時点でクリアとなりますが、
夜明けまでであれば、何人殺しても問題はありません」
「ただし、ABYSSの部員は例外なく――」
「きゃあっ!?」
「……と、こんな感じですので、
注意して下さい」
目の前で事も無げに破壊された教卓を見て、
少女が息を呑む。
こんなのと殺し合えなど、
たちの悪い冗談以外の何だろうというのか。
「さー次々行きましょうか」
そんな少女の心中など知ったことはないとばかりに、
仮面の怪人が二本目の指を立てる。
「二つ目の勝利条件は、
学園内に存在する五つのチェックポイントを回ること」
「チェックポイントにはカードが一枚ずつあり、
その五枚を手に入れた時点でクリアとなります」
「チェックポイントがどの場所にあるのかは、
タカツキリョウコさんの同行者に聞いて下さい」
同行者という新たなワードが気になるものの、
まともそうな条件の提示に、少女は胸を撫で下ろした。
化け物に殺されるのはもちろん考えたくもないが、
人を殺すことも問題外だ。
どちらも避ける手段があるのであれば、
それに越したことはない。
「では、最後に三つ目――
人質の救出となります」
「人質……?」
不穏なその言葉に、
少女が眉をひそめる。
もしかして、自分と同様に、
他にも浚われてきた人がいるんだろうか――
「喜んで下さい。
可愛らしい男の子ですよ」
――ぴたりと、少女の動きが止まった。
「……は?」
可愛らしい男の子?
人質?
ちょっと待て。
人質という言葉を適用される人物は、
交渉相手にとって価値のある人物ではなかったか?
「ま、さか……」
口の端の引きつった笑顔に見えなくもない表情で、
少女が怪人を凝視する。
可愛らしい男の子。
価値のある人物。
心当たり――ないわけがない。
それでも、それはあり得ない。
そんなことが許されるわけがない。
そんなことがあってたまるはずがない。
だよね? という脅し染みた確認を、
タカツキリョウコが血走った目で投げつける。
それに、怪人は蕩けるような優しい声で、
「素敵な弟さんで羨ましいですね、
良都く――」
「あぁあああぁぁっ!!」
言い終わる前に、
少女の腕が怪人の喉元へと走っていた。
痛い目に遭わされたとか、殺されるかもしれないとか、
そういう一切は周りの景色と共に消し飛んでいた。
とにかく弟のために、
視界に居座る白面を排除しようと突進していた。
だが、突然の襲撃にも関わらず、
怪人に動じる気配は微塵もない。
伸びてきた少女の腕をやすやすと捕らえ、
勢いそのままに投げ飛ばし――
「げふっ!」
地面に叩きつけられた少女が、
痛みと酸欠の苦しみに呻きを漏らした。
その様子を、笑顔の面がしげしげと見下ろす。
「随分にぶい人だと思っていたんですが、
弟さんの名前を出しただけで凄い反応ですね」
「いいですね、そういうの。
麗しの姉弟愛とでも言うのでしょうか?」
「……おや?」
仰向けに倒れ悶えていた少女が、
うずくまって体を起こしたかと思いきや――
床に手をつき、怪人の靴を舐めるように、
深々と頭を下げた。
「お、お願い……」
「お願いします……お願いしますから、
良都は勘弁してあげて下さい」
少女が顔を上げ、聳える怪人を仰ぎ見る。
縋るように、黒衣の端を握りしめる。
「あの子、まだまだ子供なんです……
大事にしてやりたいんです」
「……手、離してくれますか?」
「何も知らないあの子を、
こんなことに巻き込みたくないんです」
「だから……私ならどうなったって構いませんから、
どうか弟だけは助けてあげて下さい。お願いします」
「あの、日本語分かります?
手を離せと言っているんですが」
「お願いします、
良都だけはお願い……!」
「弟殺すぞ?」
「ッ!?」
言われた途端、少女が真っ青になって仰け反り、
ひっくり返るようにして怪人から離れた。
「……どうもまだ、
勘違いしているようですね」
恐怖に顔を凍らせる少女を見下ろしながら、
怪人が大きな溜め息をつく。
「確かにあなたはゲームのためには必要ですが、
浚ってくれば幾らでも換えは利くんです」
「そんな価値しかないあなたが命を張ったとして、
それで交渉できると思いますか?」
「でもっ、どうしても良都のことは……」
「ああ、皆まで言わなくて結構ですよ。
相手をするのも、そろそろ疲れてきましたから」
怪人がおもむろに携帯を取り出す。
それから、少女を一瞥して、
いかにも手慣れた風に操作していく。
「ちょっ……まさかそれって……」
少女が自身の首元に手を伸ばす。
指先に触れる、ごつごつとした手触り。
この生け贄を繋ぐ首輪は、確か、
電話でも作動すると言っていなかったか――
「う、嘘でしょ?
だってこれから、ゲームを始めるんだし……」
少女が引きつった顔で確認するも、
怪人は携帯から目を離そうとしない。
「ちょっと! ねぇ!」
幾ら言っても帰って来ない返答に、
少女が悲鳴じみた声を上げる。
が、怪人は黙々と携帯を弄り、
やがてこれ見よがしに『決定』と呟き、ボタンを押下――
「きゃあっ!?」
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。
今のはメールを送っただけですから」
「……えっ?」
「ふふふ。なかなかいい顔していますよ。
よく訓練された生け贄の顔です」
「なっ……」
そんなの違う――と言い返したくとも、
少女の口からはまともに言葉が出て来なかった。
死を覚悟して強張らせた体からは、未だに力が抜けず、
情けないと思いつつも手足が震えていた。
「さて、これで説明は終わりですが、
その様子だと十分に理解できたようですね」
「私はこれから所定の場所に待機しますので、
もし不明な点があれば、同行者に聞いて下さい」
この教室の外で待機していますから――と、
怪人が廊下の外を顎で示す。
「同行者の名前は鬼塚。
あなたのサポート役であり撮影役でもあります」
「サポート……撮影……?」
「どちらもあなたに対しての、ですよ」
くすりと、意味ありげに怪人が笑う。
が、それもすぐに止んだかと思うと、
怪人は踵を揃えて僅かに顔を上げ、息を吸い込んだ。
「それでは、
これより“ABYSS”を始めます」
鈴のように通る声で、
重苦しくも厳かに。
怪人――ABYSS部長は、
ここにゲーム開始を宣言した。