生徒会のお仕事3
文化祭の打ち合わせが終わった後、
みんなが出て行って生徒会室に一人残った。
もちろん、
真ヶ瀬先輩から引き受けた残業のためだ。
作業内容は、簡単に言えばデータ入力。
それと、学園祭で使う部屋や予算の割り振りだ。
全部、僕の裁量でやっていいとは言われたけれど、
そこまで自由だと逆に不安になってくる。
まあ、全部打ち込むとなるとかなり面倒だし、
時間もないから仕方ないってこともあるんだろう。
余計なことは考えず、粛々と消化すべし。
「あー、もう疲れた!」
およそ三時間半が経過した辺りで、
もう集中力さんが限界になった。
けれど、頑張ったおかげで
申請書の束は最後の一つ。
これを片付ければ、やっと帰れる……。
「……ちょっと一服して気合い入れるか」
真ヶ瀬先輩の怠慢によって
スティックシュガーを咲かせた植木鉢から砂糖を収穫。
インスタントコーヒーをカップに空けて、
鼻歌を歌いながらコーヒーを作る。
っと、そうだ。
ポットのお湯が沸くまでの間に、
外の目安箱の中身を回収しておくか。
コーヒーを口にしながら、作業再開。
いい加減、かなり面倒になってきたけれど、
入力はともかく割り振りは手を抜けない。
えーと、次は――
「……あれっ?」
そこにある文字が、ふいに霞んだ。
慌てて目を擦る/目に力を入れてもう一度見る。
やっぱり焦点を合わせづらい。
疲れていたのが自分では分からないだけで、
最後に気が緩んだら表に出てきた?
そういえば、何だか体もだるいかも?
そう、肩を回そうとしたところで――
世界が、斜めにズレた。
「なっ!?」
下になった教室の壁へと滑り落ちていく感覚に、
慌ててデスク掴んで堪える――何とか落下を回避する。
けれど、体は繋ぎ止めたはずなのに、
目に映る世界がさらに傾いでいく。
まるで遠心分離器にかけられて、
魂と体が引き剥がされているような気分。
おかしい。
何だ、これ――?
「くっ……!」
どこが上か下かも分からないまま、
手探りの感覚だけを頼りに机に突っ伏す/しがみつく。
押し退けたキーボードが
何かに当たって音を立てたものの、確認する余裕がない。
何が何だか分からない。
何が起きた?
何だこれ。
何――
「はっ……!」
鈍っていく思考の中で、
目を閉じていた自分に気付いた。
それでようやく、これが、この感覚が、
もの凄い睡魔によるものなのだと理解した。
「ぐ、ぎっ……!」
異常なまでに暴力的な眠気――明らかに人為的。
なのに、どうにもならない。
明らかにこのままではまずいと分かっていても、
全く抗うことができない。
脱力した首から上が、机に横たわる。
栓を抜いた浴槽の水みたいに、
意識も体も為す術なく吸い込まれていく。
その最中に、
降りていく瞼の向こうのそれを見た。
「あ……」
コーヒーカップ。
原いんは、これ、か……。
けれ……ど、
ど、こ、
で
……風の唸る音が聞こえた。
目を開かすと、青白い明かりに照らされて、
コーヒーカップが暗い視界にぼんやりと浮いていた。
首を回した先には、光源の液晶ディスプレイ。
風の音はPCのファンの音だったらしい。
画面に表示されているデータを見る限り、
ここは生徒会室で間違いないようだった。
「どうなった……?」
意識がはっきりしたところで、
体を起こし、全身の調子を確かめる。
眠らされる前に、
最悪殺される覚悟までは決めていた。
それだけに、無傷で生きていられるはずがないと、
上から下まで念入りに体を調べる。
怪我――なし。
特別な痛み――なし。
所持品の欠損――なし。
「おかしいな」
何もされていない。
意識を奪い、何でもできたはずの状況だったのに。
念のため、明かりをつけて部屋を確かめてみたものの、
状況は思い出せる限りそのままだった。
強いて言うのであれば、明かり。
眠る前は明かりがちゃんとついていたはずだ。
他は……変化がありそうには見えない。
「一体、何が目的だったんだ……?」
まさか、眠らされたと思ったこと自体が、
僕の気のせいだったなんてことは……。
そういえば、今って何時だ?
眠っていたなら、
どれくらい時間が経っているんだろうか。
「――はぁ!? 十一時!?」
携帯で確認してびっくりした。
夜の十一時――正確には十二時に近い。
着信履歴は限界近くまで埋まっていて、
その全てが琴子からだった。
「やばいな……」
これだけ遅くなったら、心配するに決まってる。
とりあえず電話しないと。
……。
「……出ない」
もしかすると、
出たくないくらい怒ってるんだろうか?
とにかく、早く帰らないと。
データを保存した後に、PCを落とす。
ポットのコンセントを引っこ抜く。
コーヒーカップは流し台に。
ついでに蛇口をしっかりと締め直す。
それから、ロッカーに入れていた鞄を引っ掴んで、
生徒会室の戸を開く。
途端――
ゼリーみたいな、ねっとりとした闇が、
どぷりと、廊下から部屋の中へ零れ出してきた。
生徒会室に籠もっていた熱が、
流れ込んでくる冷たい空気に飲まれていく。
血と精液の混じったような、
重く粘つく臭い空気。
つい反射的に息を止めて――
けれどそんなのはまるで意味がなくて、溺れた。
耳鳴りがする。
貝殻に耳を当てた時のように、
瘴気に触れた耳奥の蝸牛が幼少期に記憶した音を再生する。
「これ、は……」
まだ暗殺者だった頃に、
幾度となく聞いた音。
毎朝、昇降口を抜ける度に聞いている音。
人死にの声。殺人の痕跡。
――ふと、真ヶ瀬先輩に言われた言葉を思い出す。
『そんなに遅くまで残ってたら、
ABYSSに襲われちゃうかもよ?』
「いやいや……まさかだろ?」
あまりに出来すぎだ。
そんなこと、あるわけがない。
そう思いたくて、
ドス黒いゼリーの中へと踏み出した。
廊下は、ほぼ真っ暗だった。
生徒会室から漏れ出る明かり以外は、
火災報知器の赤いランプと、窓から入る月明かりのみ。
重く冷たい空気といい、夜の学園というものが、
昼間とは別世界なのだということを思い知らされる。
味のしそうな粘つく空気を思い切り吸い込むと、
思わずくらりとした。
懐かしい感覚――ああ、昔の僕にとっては、
こっちが自分の世界だったんだな。
そんな異世界の奥に、微かな足音を拾った。
「……この時間に?」
喉が鳴る。
しばらく振りに血の通った部分が痛痒い。
足音は二つ。
……重さ的に、男女のペアか?
確実に分かるのは、
こちらへと近づいてきているということ。
おいおい、鬼なんか出やしないだろうな……?
まさかという気持ちで、
闇の向こうへ目を凝らす。
そこに――
ぼんやりと、白い仮面が浮いていた。
月明かりをも飲み込みかねない、
悪意と闇の澱んだ夜の学園。
その人気の無い廊下に、二つの足音が響く。
仮面の男と生け贄の少女――
鬼塚を名乗るABYSSと、
タカツキリョウコと呼ばれる誰か。
少女は相変わらず恐々としていて、
辺りをキョロキョロと見回していた。
ただ今は、図書室までの道のりとは違い、
少女の前を鬼塚が道を切り開くようにして歩いている。
その鬼塚が、
唐突に足を止めて少女へと振り返った。
「もしもこの先、他の誰かに出会ったら、
俺は作戦のためにそいつを殺すぞ」
突拍子もない発言とその内容に、
少女が鬼塚へ困惑を向ける。
「ビデオはさっき壊しちまったからな」
「あんたと一緒に歩いてるところを見られるのは、
俺が裏切ったって相手に教えるようなもんだ」
「だから、もし誰かに見られたら……
それが誰であっても殺す」
「ま、つってもさすがにもう誰もいねぇだろうよ。
一階で遭った副長がイレギュラーだったんだからな」
「……そう、ですか」
「おいおい、そんなに悪いことじゃないぞ?
相手がABYSSだったらその時点でクリアなんだし」
「それはそうですけど、
他の人ってことは……?」
「一般人はまずねぇよ。
人払いは完璧にやってるはずだしな」
「今、この校舎にいる人間は、
殺しても構わない人間だけだ」
生殺与奪の権利をごく当たり前のように語る鬼塚に、
少女が複雑な顔を作る。
鬼塚はそれを不安と受け取ったのか、
困った風に頭を掻いて、うーんと小さく唸った。
「ああそうだ。もしも、それでも誰かいたら、
あんたを気絶させて相手を油断させるよ」
「カメラを壊して逃げた生け贄を捕まえたって体なら、
あんたと一緒にいても不思議じゃねぇだろ?」
「油断……してくれますかね?」
「多分な。まあ油断してくれなかったとしても、
四分の二で勝てる相手だから心配しなくてもいい」
「部長が出てこなければ、三分の二ですか」
「そういうことだ」
「ま、無視していいほど低い可能性の話だから、
本当に“もしも”だけどな」
暗い廊下に似合わない気楽さで語る鬼塚。
そんな彼の態度に、
少女が強張らせていた表情をようやく緩めた。
その時だった。
廊下の前方――どこかの教室で、
ぱっと明かりがついた。
火災報知器の赤ランプと窓からの月光以外は、
あるはずのない光。
あるはずのない“もしも”。
はっとなった少女が、
答えを求めるように鬼塚の顔を見る。
「おいおい……本当に誰かいるのかよ?」
「いなくても……明かりのつく学園なんですか?」
「いや、まさかだろ」
緊張した鬼塚の声に苦笑の響きが混じる。
だが、笑うしかないほど低確率の状況が、
目の前で起きていた。
「場所は……よりにもよって生徒会室だな。
くそっ、いったい誰だよ」
「作戦決行、ですか?」
「……ああ。相手の姿が見えたらな」
「一応、手加減はするけど、
それでも起きたら痛いだろうから先に言っとく。悪いな」
「……ちゃんと手加減してくださいね」
不安そうな少女の声に、鬼塚が親指を立てて答える。
少女がそれに笑みで返す。
そうこうしている間に、
生徒会室の扉が開かれた。
「……見えるまでは歩くぞ」
少女が頷く。
鬼塚の歩みに震える足でついていく。
そうして歩くこと、数歩。
生徒会室にいた誰かが、二人のほうを向いた瞬間、
鬼塚の拳が少女の後頭部に振り下ろされた。
鈍い音と衝撃に、
少女の意識が一瞬で飛びかける。
倒れ伏す直前、遠のく意識の先で、
誰かと向き合う鬼塚が視界に入る。
その誰かに鬼塚が勝利してくれることを本心から願いながら、
少女は意識の淵へ深く深く落ちていった。




