見知らぬ力
自宅に避難していた人々が親戚の家や隣町、友人の家へと移動していき、静かで平穏な生活が始まったころ。美代はベッドの住人となっていた、額に冷えていたタオルを乗せられてひどく咳をしている。
「人が多かったからねぇ。大丈夫?」
「手洗い、うがいはちゃんとしてたつもりだったんだけど……」
唸るように言い、すっかり温いタオルを近くの洗面器へ放り投げた。母はそれを氷水に浸し、絞ると再び美代の額に乗せる。
「じゃあ、母さんはお手伝いに行かないといけないから。お昼ご飯は作ってあるから、ちゃんと食べてね。薬も忘れないようにね」
「うん、気を付けていってらっしゃい」
咳を抑えながら言うと、母は心配そうに眉を寄せながらも部屋を後にした。直後に美代はタオルを洗面器に放り投げ、体を横に向けて閉められたドアを恨めしそうに見つめる。
「……仕方、ないんだけどね」
深いため息をつき、そのまま目を閉じた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
――コンコン――
「ん……」
ガラスが叩かれる音に、美代は目を擦りながらそちらに顔を向けた。そして目を剥き、窓から離れようとしてベッドから落ちてしまう。
「だ、大丈夫か?」
「な……は、へ?」
ブラックがそこに居たのだ。
美代はとりあえず全ての疑問を投げ捨て、ベッドに這い上がると窓の鍵を開ける。
初めて彼を見た時と同じよう宙に浮いており、慌てて部屋の中に招き入れると身を乗り出して辺りを見渡した。彼がいつからここに居たのかは分からないが、周囲に人影はないようでひとまずホッとする。
それから中に入れたブラックを見てみると、彼は靴を履いたままベッドの傍に立っていた。
「ちょ、クツ、靴!」
美代が言うと首をかしげ、彼女の足元を見ると靴を脱いだ。それを壁際に置くと顔が赤い美代をジッと見る。
目を覗き込まれるようにして見られ、美代はわずかに体をのけぞらせた。
「な、なに? なにしに来たの、どうしてここに?」
「具合悪いのか? 大丈夫か?」
「いや、質問に答えてよ……」
言いながらも、美代はブラックに座るよう促した。彼はキョロキョロと辺りを見回し、イスを指さす。頷いてやるとそれをベッドの脇に引き寄せ、チョコンと腰を降ろした。
「えっと、ミヨ? だっけ」
「え、あ……うん」
「お前、不思議な奴だな!」
(喧嘩を売りにでも来たのだろうか……)
満面の笑みで放たれた言葉に、美代は口の端をピクリと痙攣させた。だが彼の目からは悪意や敵意を感じられず、ニコニコと笑ったまま美代を見ている。
「それで、えっと、このあいだの男……そう、風を使うやつ。あいつからお前が怒ってたって聞いて、ほら、オレ、男の子だと思ってたし……その、ごめん」
最後の言葉に、思わず目を丸くした。笑顔だったはずのブラックはしどろもどろになりながら俯いていってしまい、謝罪の言葉を出したころには視線を泳がせながら体を小さくしている。なんとなくそれが可笑しくて、小さく笑っていた。
「どうした……いてっ」
「はい、これで勘弁してあげる」
笑い声のせいだろう、顔を上げたブラックの頬を、美代は両手でぱちんと挟んだ。驚いたのかブラックは目をきつく閉じ、ゆっくりと開きながら掌が離れた頬を擦っている。その様子がまた子供の様で、再び笑った。
だが咳が出始め、美代は大人しくベッドに横になると顔だけをブラックに向けた。彼は心配そうに眉を寄せ、顔を覗いて来る。
「……大丈夫か?」
「ちょっと熱があってさ。寝てれば……」
言いかけて、ブラックの手が胸の上にかざされたのを、黙ってみていた。何か温かいものが体を巡りいくのを感じ、ブラックを見る。
しばらくすると風邪独特の気だるさはほとんどなくなっており、美代は体を起こした。
「なに、今の?」
「魔力を流しただけだよ?」
そんなことも知らないの? と言いたげな目に、美代は苦笑してしまった。時計を見てみると十二時をとうに過ぎており、ベッドから立ち上がる。
半日以上横になっていたせいだろうか、浮遊感があった。美代は体を預けるようにベッドに座り直し、キョトンと首をかしげているブラックへと困ったように笑いかける。
「あの……よかったら、一階まで連れて行ってくれない?」
遠慮がちに言うと、ブラックはすぐに立ち上がり美代の膝の裏と首元に腕を伸ばした。躊躇いなく横抱きにされてしまい、そんな運搬の仕方をされるとは思っていなかった美代は耳まで一気に赤くする。
「ちょ、ちょっと! 体を支えてくれるくらいで、良いんだけど!」
「なんで? 歩けないんだろ? フワフワしてるんじゃないの?」
「そ、れはそうなんだけど……」
萎みながら言うと彼は満足したのだろう、どこか楽しそうな笑みを浮かべながら階段を降りた。台所へ行くと催促して降ろしてもらいながら、ラップが掛けられている料理に苦い表情をした。
「うん……多いかな……」
――グゥ――
鳴ったのは、自分の腹ではなかった。となれば、ここに居るのはもう一人しかいない。
「……ご飯食べてないの?」
「えーっと」
と、ブラックは考え込んだ。ゆっくりと指を折り始め、今度は折った数だけ指を立てて美代に突き出す。
「ん」
「ん?」
「これだけ、食べてない」
「……ええええええ! よ、四日も食べてないの? いや、四食? それにしても一日は食べてないよね!」
「あ、それだ! よっか、食べてない」
「本気で言ってんの!」
ふにゃりとした表情で言ってのけられた言葉に、美代は思わず叫んでしまった。そのせいか咳き込んでしまい、ブラックがトントンと背を叩く。
心配そうに眉を寄せている彼を見上げ、美代は呼吸を整えると、テーブルの上のプリンだけを手にした。
「よかったら、食べなよ」
「え、良いのか?」
「私は薬を飲まないといけないから、食べる必要があるだけで。ならプリンだけでも良いし、お腹を空かせてる人を目の前に一人で食べたくないよ」
座るように促すと、ブラックは美代の対面に腰を降ろした。テーブルに並んでいる料理にキラリと瞳を光らせ、しかしキョロキョロと何かを探す。
「どうしたの?」
「ふぉーく、ない?」
「フォーク? なら」
美代が立ち上がる前に、ブラックは立ち上がると台所の引き出しの中からそれを持ってきた。それから椅子に座り直すと、皿の手前に置いてある箸を指先で突く。
「なぁ、これなんだ?」
「箸、だけど……なんでフォークの場所が判ったの? 私、まだ言ってないよね」
言うと、ブラックはわずかに目を開き、唇を噛んだ。彼の顔色は変わったが美代は静かに見つめ続け、俯いている彼の返事を待つ。
秒針がゆっくり二週目を回りきったころ。美代はため息を漏らした。
「それもさっきの、魔力って言うのが関係するの?」
「あ、そ、そう! あとミヨの目が向こうを見たから、それでっ」
「わ、わかったわかった。だからそんなに泣きそうな顔しないでよ」
慌てて言葉を紡ぐブラックに、美代は手を振ると頬杖を着いた。数日前、自分に物騒な物を向けてきたのと同一人物には見えない挙動に、なぜか頬が緩んでしまう。
「ほら、私もお腹が空いてきちゃったから、食べよう。いただきます」
両手を合わせ、呟くと、ブラックが首をかしげた。それでも美代の真似をするように手を合わせる。
「いただきます」
フォークを握り、料理が乗っている皿を引き寄せるとブラックは無言のままに食べ進めていった。反対に美代はそんなブラックを眺めながら、のんびりとプリンを消費していく。
「な、な、ミヨ」
「うん」
「お前、不思議な奴だよな!」
「それ、二回目だね」
勢いよく顔を上げたかと思うと名を呼ばれ、返事をしてみれば彼を家に招き入れた直後と同じことを言われた。よほど腹が空いていたのだろう、料理のほとんどは彼の胃袋に収納されており、なおもモグモグと口を動かしている。
「オレ、お前を攻撃したし……建物も一杯壊した。怖くないの? 警戒とかしないの?」
「まぁ確かに、変な力は持ってるし、考察を放棄したくなるようなことはたくさんしてるし。かといって、今あなたに何かしらの抵抗をしたところで、私には勝てる術がないから無駄なことはしたくないの。ただでさえ体調不良なのに」
薬を飲むために湯冷ましを取りに行きながら言い、ブラックをチラと盗み見た。先ほど以上に顔を歪め、泣いてしまいそうな表情になっている彼に長くため息をつくと錠剤を一気にのみ込む。
「警戒はしてる。だけど怖くないのかって質問には、はい。って答えるよ」
「え?」
「この間のこと、謝りに来る必要はなかったはずなのに、謝ってくれた。私が苦しそうにしてる時に魔力っていうのを流してくれて、体調を整えてくれた。そして一階に連れて行ってほしいって私の頼みをイヤな顔一つせずに、きいてくれた。そんな相手を怖がるほど子供じゃないつもり」
振り返ってみると先ほどとは打って変わって、輝くような笑顔を浮かべていた。コロコロと移り変わっていく表情が幼い子供の様だと、美代は小さく笑う。
「どうしてあんなことをしたのか、まで教えてくれれば一番いいんだけど。……あ、もうご飯食べ終わった? じゃあお皿を片付けるね」
と、テーブルの空き皿に手を伸ばしたのと、ブラックが適当に重ねていきそれを持ち上げてしまったのはほぼ同時だった。腕を伸ばした美代はそのままテーブルに突っ伏してしまい、顔を上げる。ただでも背が高い彼が、頭上にまでそれを持ち上げてしまえば、自身にはどうすることも出来なかった。
「えっとー?」
「どこにしまえばいいんだ?」
「あ、あそこの桶の中に」
「ん」
突っ伏したままでいる美代の横を通り抜け、指示通りに炊事場の桶の中に皿を入れてしまった。それから無言で彼女の体をヒョイと抱えあげ、驚いた美代は再び赤面しながら、足をバタつかせる。
それをものともせずに、ブラックは二階に戻った。美代をベッドに降ろし、床にペタンと座り込む。
「ありがとう……」
「あの」
元々の体調不良のせいか、運搬方法のせいか。体が熱くなってきたために美代は転ぼうとした。それを止め、ベッドに深く座り直すとブラックを見る。
「どうしたの」
「少し、話がしたいんだ。ミヨ、不思議な奴だから」
「大事なことだから、三回言いました。って?」
彼にとって自身のどこが不思議なのか、判らなかった。それでも美代は座ったまま、窓を少し開けて風を通す。
「うん、いいよ。……ところで私の名前の発音が、ちょっとおかしいかも。美代って、こう書くんだけど」
ベッドを降り、机の上からペンと紙を取り出すと、美代は自身の名前を書いて見せた。ブラックはそれをジッと見つめ、首をかしげる。
「上野が名前?」
「いや、美代が名前」
「やっぱり不思議な奴」
ニパッと口を開けて笑っているブラックに。美代はそれ以上突っ込む気も言葉を挟む気も起きず、苦笑いを浮かべてしまうのだった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
「お邪魔しますー。美代ー」
夕方になり、沙理は上野家を訪れていた。玄関から声を掛けてみるが返事はなく、悪いかな、と思いつつも勝手に上がっていく。
「美代、寝てるの?」
だが、二階にある彼女の部屋からは楽しげな笑い声が聞こえていた。思わず目を丸くし、耳を澄ませながら階段を静かに上がる。
彼女の声の他に聞こえているのは、男の声だ。
「誰かいるの?」
突然ドアが開かれ、美代とブラックはビクリと肩を震わせた。勢いよくドアへ顔を向け、目を丸くする。
それは、顔を向けられた沙理も、同じ表情だった。
「あんた、この間の!」
「美代、オレ、今日は帰る! じゃあ!」
窓に足を掛けようとし、床に手を付けると壁際に置いてある靴に腕を伸ばした。沙理は咄嗟に彼の腕を掴もうとしたが、それはあっさり躱され、美代のベッドを飛び越えて窓の外に姿を消す。
沙理も美代を踏まないようベッドに上り、窓から身を乗り出したが、すでにブラックの姿はどこにもなかった。きつく眉を寄せながら振り返る彼女に、美代は弱々しく笑う。
「あいつ、空き地にいたあいつでしょ! なんでここにいたの、何もされなかった?」
「その時のこと、謝りに来てくれたの。ブラックって言うんだけどね、あの人」
「謝りに? それだけ?」
「あと、話しをしてた」
と、窓の外を眺めている美代に、沙理も視線を追った。だがそこには何の姿もなく、ベッドを降りると傍に引き寄せられている椅子に腰を降ろす。
「話しを?」
「……うん。良く判らないことも多かったけど、気づいたらこの町に居たってことと、なんか……敵意を向けられて、そのことに苛立ってあんなことをしたってこと」
「あんなこと?」
訝しげに眉を寄せる沙理に、美代はわずかに苦い表情をした。自身のせいとは言え、思わず零してしまった言葉をどう説明しようか、頭を捻る。
と、廊下から聞こえた足音に、沙理はそちらを見た。
「あ、おばさんが帰って来たのかな?」
「いや、母さんの足音じゃない……あぁ、尚人かな」
「なおと?」
階段を上り終えたのだろう、足音がしばらく止むと、向かいの部屋のドアが開く音がした。そのままパタンと閉じられ、沙理は美代に続きを促す。
「うん、この間の……そう、地震で、家がなくなったらしくてさ。家族のことはちょっと聞き辛くて、聞いてないんだけど。うちに居候することになったの」
「そっか……。今朝のニュースでは、亡くなった人はいなかったーって言ってたよ」
「え、そうなの? じゃあ大丈夫なのかな……」
すっかり音が消えた廊下に、二人は視線をそちらへ向けたまま黙っていた。しかし不意に沙理が美代のことを押し倒し、突然のことにそのままベッドに横たわる。瞬きをしていると布団を頭まで被せられ、慌てて顔だけでも外に出した。
「ふえ?」
「もー。普段熱を出したら二日、三日寝込む子がお昼寝もしないで、喋ってたんでしょ。あたしはもう帰るから、ちゃんと休みなよ」
「あ、ありがとう。そだ、今日は何かあった?」
「えーっと、なんか保護者さんや生徒たちからの要望があったみたいで、学校のグラウンドにテントを建ててそこで授業を始めるみたいだよ」
長いため息を漏らす美代に、沙理は笑っていた。モゾモゾと布団の中に潜りこんでいく彼女に、イスの肘掛で頬杖を着いてそれを眺める。
「その前に、他にすることもあると思うんだけどね」
「保護者だけなら、だけど。みんな早く、普通に戻りたいんだよ」
「……まぁ、仕方ないか。明日は私も、出歩けると思うよ。本当に楽になったんだ」
「あんた、風邪ひいたときは思考力低下するんだから、もうちょっと気をつけなさいよ。じゃあ、あたしは本当に帰るね」
美代は部屋を出ていく沙理に向けヒラリと手を振り、再び窓の外を見た。
(あいつ、宙に浮くだけじゃなくって、一瞬で消えたなぁ。この町で一体、何が起きてるんだろう)
考えながらもあくびを漏らし、調べようもない事柄に。美代は目を閉じると深く息を吐き出したのだった。