我が名は、ウィング
むくりと起き上がって目を擦り、美代は周囲を見回してしばらく呆然としていた。徐々に頭が働き始め、ドアの上に掛けてある時計に目が止まると勢いよくベッドから飛び降りる。
「朝じゃん!」
そして今度は、自分が発した声に驚きながら机の隣に置いてある姿見の前に立った。再度目を擦り、頬をつねり、それだけでは足りないと言わんばかりにぺちぺちと両手で軽く叩いてみる。
「そう言えば昨日のは何だったんだろう? 夢?」
――昨日は路地裏でかつあげ青年を退治し、家に帰ろうとしたら背中を突き飛ばされたような衝撃を受け、視線に違和感を持って自分の姿を見てみると男になっていたことは覚えていた。
それから一体何をしたか、というのがおぼろげで、美代は首をかしげる。
「……そっか、悩んでも仕方がないからって、帰ってきて寝ちゃったんだっけ」
路地裏から家まで帰ってくるのがやたらと速かったり、家の門を軽々と飛び越えてしまうだけの脚力がついていたり、何度見ても男になってしまっていたり。
それらをひっくるめて考えるのを放り投げ、ベッドに身を任せたのだった。
考えても答えがでないものはそれ以上悩まない。
そんな自分に苦笑しながら、鏡の前でクルリと回った。
肩にかかるほどの長さがある黒髪に、普通のシャツとズボン。そして、空色の瞳。
何も変わらない自分がそこにいた。
「夢、じゃないと思うんだけどなぁ」
「美代―、起きたの? 学校はー?」
一階から母親の声が響き、美代はベッドを降りるととりあえず着替えを始めた。小さく唸り、ベッドの脇に放り投げてあるランドセルを見つめるとため息をつく。
「行ってみようかな……」
ランドセルの中に教科書を突っ込み、机の下に置いてある靴を手にするとベッドに膝をついて窓を開けた。窓枠に腰を掛けると靴を履き、ランドセルを肩に引っ掛ける。
「じゃあ、行ってきます!」
「行ってきますってあんた! いい加減気をつけなさいよ!」
美代が二階の自室から飛び降りたと同時、リビングの窓が勢いよく開かれ、母が身を乗り出した。すでに家の門を開いている美代の背中にホッと息を漏らすも、眉は寄せたままだ。
「ご飯はー! 昨日は晩御飯も食べないで寝てたでしょ!」
「今日はちゃんと食べるよー! 朝ごはんはいらない、行ってきます!」
「気を付けてね!」
「はーい」
手を振りながら笑い、美代は学校に向け、軽く走るのだった。
学校に着くと、美代は昨日の姿が夢ではなかったことを確信した。学校の正門から見えている時計は、七時五十分を指している。
(家を出たのが四十五分で、普段なら走っても十五分はかかるのに。軽く走っただけで)
「美代!」
考え込んでいると背後から勢いよく抱き着かれ、慌てて踏ん張った。苦笑し、抱き着いてきた少女を振り返る。
「おはよう、沙理」
こげ茶で柔らかいおさげを揺らし、ニッコリと閉じている瞼の向こうに茶色の瞳を持っている女の子に、美代も目を優しくした。沙理はもう一度、ギューッと抱き着くと美代の手を取り、六年生の教室がある二階へ向かっていく。
「なんか久しぶりだね、学校で会うの!」
「そうだねー。土日を挟んでだし、最後に来たのが……」
チャイムの音が響いたのとほぼ同時に、スーツを着崩している眼鏡の男性が入って来た。思い思いに友人とお喋りをしていた生徒たちは一斉に席へ戻り、美代はスッと、目を細める。
「お、上野か。一週間ぶりか?」
「土日挟んでるから、そんな気にもなるけど。先週木曜日に一応来てるよ? 山中さん」
「さんじゃなくって先生と言え、先生と」
平然と言い放つ美代に眉を寄せて長いため息をつくと、山中は教壇に立った。美代も沙理に促されて席に戻り、ランドセルを机の横に掛けると頬杖をつく。
ホームルームを終えるとすぐに一時限目の支度が始まり、美代は筆箱を机の上に出した。どうやら算数らしい、時間割表は全く見てこなかったので、今日ある授業は始まるまで判らなかった。
「今日は先週言った通り、算数のテストをするぞー。教科書ノートをしまって、筆箱だけ机の上に出せー」
山中の言葉に生徒たちが嘆息を漏らす中、美代は鉛筆を一本だけ机の上に置き、あとの物はランドセルにしまってしまった。それを見た山中は、ピクリと眉を動かす。
「……今日のテスト、お前が学校に来てない間にやった範囲だけど、大丈夫?」
「いいから始めようよ、先生?」
挑発的なその言葉に。山中はグッと口角を上げ、プリントを配り始めるのだった。
教室内で鉛筆が動く音がカツカツと響いている中、美代は頬杖を着いたままぼんやりと窓の外を眺めていた。鉛筆はとっくに机の上を転がっており、テスト用紙も裏返されている。
そんな彼女へ向け、クラスメイトの数人が視線を投げつけた。
「出た、バ上野」
「あいつ、めったに学校来ないくせに、なんであんなに余裕なんだよ……」
ふと、美代が視線を机に動かし、彼女を見ていたクラスメイト達も慌てるようにテスト用紙へ顔を戻した。美代はそんな彼らに見向きもせず、机の上を。正確には鉛筆を見つめている。
手をふれているわけでもなく、机の脚が歪んでいるわけでもないのに、カタカタと勝手に震えていたのだ。
次の瞬間、急激な横揺れに襲われ、美代はイスの上から投げ出されていた。教室の壁に後頭部をぶつけ、手で抱え込みながらも周囲を見渡す。
「じ、地震だ!」
「きゃあああ!」
「みんな落ち着け! とりあえず机の下に隠れろ、揺れが落ち着いたら避難訓練の通りに!」
山中が言うと、クラスメイト達は悲鳴を上げ、泣き出しそうな表情を浮かべながらもどうにか机の下に隠れていた。そんな中美代だけは窓に手をかけ、ガタガタと揺れている床から足を離して身を乗り出すように外へ視線を走らせる。
「なにしてんだ上野!」
「山中さん、すぐに教室を出た方が良いよ!」
美代が見ていたのは、教室の窓から見える電信柱だった。
教室内は立っているのもつらいほど激しく揺れているのに、電線すら揺れていないのだ。それにも関わらず、校舎も学校近辺の建造物も激しく揺れており、美代は眉を潜めた。
その事情は説明しないままに床に降りると突っ伏すよう横になり、這うようにしてドアに向かった。山中はそんな美代に目を剥き、無理やりに立ち上がる。
「危ないから揺れが落ち着くまで……」
「梁が歪みでもしたら、ドアが開かなくなって逃げられなくなるだろ!」
と、美代は教室の後ろのドアに手をかけた。すでに少し歪んでしまっているのだろう普段よりも固いスライドに舌打ちを漏らし、ドアに手を突きながら立ち上がるとそれをこじ開けた。
山中を見てみると彼も壁沿いにどうにか歩き、前方のドアを力ずくで開くと廊下に出ていた。
他の教室でもドアは開かれているようで、激しい揺れで倒れてしまわないよう踏ん張りながらクラスメイトへ顔を向ける。
「判った、みんなグラウンドに迎え! 鞄で頭を庇いながら、落ち着いて、走らないように!」
山中の指示にクラスメイトがランドセルを頭に乗せ、互いの体を支え合うように廊下へ向かう中、美代は一人床を這いながら逆走していた。それを目にしたのだろう沙理も振り返り、立ち止まる。
「美代、なにしてるの! 逃げよう!」
「先に行って! みんな混乱してるだろうから気を付けて、すぐに行くから!」
教室の後方にある棚に手を着き、立ち上がりながら美代は沙理を見た。沙理は不安そうに美代を見つめるも、激しくなっていく揺れに小さく頷き、他のクラスメイトと一緒に避難を始める。
それを見届け、美代は再び窓に手をかけた。だがすでに窓枠が歪んでしまっているのだろう、開けることが出来ず、イスの足を持つと躊躇わずガラスをたたき割る。破片に気をつけながら身を乗り出して再び周囲を見つめ、何気なく上を見た。
「な……!」
校舎の上空、貯水タンクよりさらに上。普通に考えればありえない場所に、人がいたのだ。避難を終えた生徒たちが揺れていない地面と揺れている周囲の建物を見比べて悲鳴を大きくしていく中、美代は真っ黒な人型を睨む。
なぜか、あれがこの怪奇現象の原因であると、そう思った。
「あいつ……!」
カッと体が熱くなり、思わず窓枠に足を掛けていた。視界に入った足は、シューズではなく、足袋を履いている。
美代は昨日の、男の姿に変わっていた。
窓枠を思い切り踏み込み、教室の外に飛び出すと、美代は上へ向かった。異常な脚力は昨日家の門を軽々と超えた時と同じように、造作なく一つ上の階の教室の窓に届き、それをも踏み込んでいく。
そうやって屋上にたどり着くと黒い服が揺れているのが見え、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「おい! 今の揺れ、お前の仕業か! 危ないだろ!」
怒鳴ると、揺れが止まった。その黒がこちらを見たように感じ、手を腰に当てると再び大きく息を吸う。
「てかどうやったらこんな怪奇現象を起こせるんだ! 今すぐ止めろ!」
教室にいた時よりも近くはなっているが、それでも顔が判らない程度に黒は上空に居た。その表情は見えないはずなのに、なんとなく笑みを浮かべている気がする。
次の瞬間。揺れが一層激しくなった、学校の壁にひびが入り、屋上もボロボロとコンクリートが崩れていく。
崩壊はすぐそこだった。
一か八か。美代は給水塔へ飛びあがり、そのままの勢いで塔を蹴り上げ、跳んだ。予想以上に跳びあがってしまい動揺するが、黒の姿がより鮮明に見えてきて気を引き締める。
宙に浮いているのは、黒いコートに黒いズボン、腰に届く紺碧の髪をした青年だった。色白の顔には鮮血があり、思わず息をのむ。
青年は血と同じ色をした目を丸くすると、そのまま音もなく姿を消してしまった。それと同時に揺れは治まるが、終着点を失った美代は重力に引かれ、崩れいく校舎に落ちていく。
「ふ、ざけんな……」
「きゃあああああああああ!」
グラウンドからの絶叫に、美代はそちらへ顔を向けた。歪み、撓んでいた窓ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走り、砕け、地面へ向かっている。
高所から落ちるガラスは決して、真下に落ちるとは限らない。ガラスが割れた高さと同じ距離の範囲に降り注ぐものもあるという。校舎の高さを考えれば、グラウンドにその凶器が降り注ぐ可能性は、十二分に考えられた。
このままでは生臭い水たまりが一帯に出来上がるのは、想像に容易い。
「危ない! 早く逃げろ……」
考えるよりも先に、体が、そう命じていた。
美代は両手を突き出すと、そこに風を生み出していた。生まれた風を躊躇せず巨大化し、グラウンド全てを囲えるほどの竜巻にする。
ガラスの破片や崩れた校舎のガレキはその風に吸い込まれるように動き、美代自身は竜巻の中心に静かに着地できていた。肩で呼吸をしながらも少しずつ大気の動きを抑えていき、ゆっくりとガレキや破片を地面へ降ろす。
「なんだ、これ……」
「あ、あなたは……?」
女性の若い先生に声を掛けられ、美代はそちらを見た。そろりそろりと周囲に視線を移していき、どうやらグラウンドのど真ん中、避難して来た先生や生徒に囲まれるような位置にいる事に気づく。いくつもある双眼に宿す色は、畏怖。
「なに、今の……」
「なんであの高さから落ちてきて、平気なの?」
「今の竜巻……あの人が?」
友人同士で、先生同士で、ヒソヒソと耳打ちし合う声が、妙に大きく聞こえてきた。美代はそれに思わず小さく舌打ちをし、この場を離れようと足の裏に力を込める。
「あ、あの!」
人ごみを掻き分けるよう出て来た声は、沙理だった。彼女は不安そうに眉を寄せ、まっすぐにこちらを見てくる。
「助けてくれて、ありがとうございます! えっと、校舎の中に、あたしと同じくらいか……少し背が低い、黒髪青目の女の子、いませんでしたか!」
沙理の言葉で、今まで畏怖の目で見てきた彼らも口を閉じ、おずおずと感謝の言葉を述べ始めた。美代は頭飾りにそっと触れ、口の端を緩く上げる。
「その子なら、向こうに避難させたよ」
「良かった……! えっと、あなたの名前は?」
「……ウィング」
頭飾りについている羽根に触れ、自然と、そう言っていた。なんとなく大勢からの視線に耐えられず、今度こそ地面を蹴ると場を離れる。
ただ走り、人気がないことを確認するとガレキの陰に隠れた。何度か深呼吸を繰り返すと視線が低くなり、元の姿に戻ったのだと、今度は長く息をつく。
「一応……戻った方が、いいだろうなー」
本当ならばこのまますぐにでも家に帰り、両親の様子を知りたかったが、つい先ほど自身の心配をしてくれた沙理を放って行くことも出来なかった。たった今全力で走って来た道を、今度は歩いて戻る。
学校まで来てみると、すでにほとんどの生徒は帰宅させられたようで、人影は少なかった。改めて見てみると校舎の崩れ方は酷く、校庭にはガレキが一かけらも落ちていないところに思わず苦笑する。
「一体なんなんだろ……おうふっ!」
「こんのバカ美代! どれだけ心配したと思ってんの!」
風について考えようとしたその時、脇腹に強い衝撃を受け、美代は思わず地面に倒れ込んでしまった。どうやら沙理が突っ込むように抱き着いてきたもののようで、苦笑すると彼女の頭をクシャリと撫でる。
「ご、ごめん。ほら、山中さんにも私は無事だってことを伝えないと、帰れないだろうし。とりあえず、行こう?」
「うぅうー。このバカ美代ぉ……」
立ち上がり、泣いている沙理を立たせながらも。美代は姿を消した青年を思い、空を睨むのだった。