旅立ちの日
早朝に出かけて行ったバーナーを見送り、仕事に出かけた両親を見送り。美代は一人、学校をサボって台所に立っていた。
五枚切りの食パンをあらかじめ温めていたナイフで半分の薄さに切っていき、常温で緩く溶かしていたバターと、マスタードと混ぜたマヨネーズを片面ずつ塗っていく。
千切ったレタスの水分をキッチンペーパーで拭き取り、ツナは少なめのマヨネーズと電子レンジで程よく火を通していた玉ねぎのみじん切りを一緒に混ぜた。それとは別に、ベーコンをカリカリになるまで焼いたもの、輪切りにしたトマトの種を取ったもの、厚めに焼いた目玉焼きを準備する。
レタスとツナを、目玉焼きとベーコンとトマトを重ねてパンに挟み、その上から布巾をかけるとまな板を置いた。あとは、重みで食材が馴染むのを待つだけだ。
その間に、まだ取っていなかった朝食にと、余ったレタスを細く千切ってトマトをサイコロ状にするとツナマヨに混ぜ込む。簡易サラダの完成。
「これを食べたらもうちょっと寝よう……。体がだるいなぁ」
これも、ウィングに変身できなくなってしまった影響なのか。ふぅ、とため息を一つ漏らし、食事を始めるのだった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
お昼過ぎ、美代はバスケットを手に家を出て来た。
「ブラックいるかなー。紅茶は飲めるかなー」
学校があっている間に彼が来ても相手をすることはできないし、バーナーは早々にどこかに出かけてしまい、夕方まで帰ってこない。沙理はもちろん学校で、両親は仕事。
野営をしているため食事もろくに取れないだろうブラックのために、学校をサボったのだ。
学校の裏山に向かうため近道をしようと、美代は路地裏に入った。昼間にもかかわらず薄暗く、普段も通ることがある道のはずなのに、不気味に見える。
眉を寄せ、サッサと通り抜けようと足を進めた。ふと後ろに気配を感じて振り返ってみる、誰もいない。気のせいかと、再び歩く。
「どちらにお出かけですか、お嬢さん」
「え……あっ!」
誰ともすれ違わなかったのに、さっき見た時には後ろに誰もいなかったのに。背後から腕が伸び、美代は口を塞がれた。もう一方の腕は彼女の首にあてられており、徐々に絞められていく。
美代はその腕から逃れようと体を捩り、バスケットを落とすと自身を押さえつける腕に爪を立てた。せっかく作ったサンドウィッチは無残にも路上にぶちまけられ、背後にいる人物がそれを、躊躇いなく踏み潰す。
目の前がチカチカと、明暗を始めた。酸素を求めて謎の手を引っ掻き、掴み、力の限り引きはがそうとする。それを笑うように、口を塞いでいた手が鼻をも覆ってしまった。
フッと全身から力が抜け、ビクリと一度、体を痙攣させると。美代はそのまま、意識を手放した。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
ぼんやりと目を開き、眼球だけを動かしてゆっくりと周囲を見渡した。空咳を一つ零し、微かに顔を上げる。
「ここは……」
「お目覚めになられましたか」
聞こえた声に肩を跳ね、立ち上がろうとした時に初めて気が付いた。手足をきつく縛られ、柱に固定されている。戸惑いながらも正面に立つ青年を見上げ、体を緊張させた。
髪の色は鮮やかな緑、瞳は、冷たく光るアクアマリン。赤い服と黒いズボンに身を包まれたその青年は、袖と袖を合わせて手を隠すようにし、目の前に立っている。
「わたくしの名はボードオン・アスカ。ボンドッツとお呼びください」
「わ、私に、何の用?」
ボンドッツはクスリと笑い、膝を立ててそこに座った。美代の頬を両手で優しく包み込み、俯き気味だった彼女の顔を、上げさせる。
「あなたは人質ですよ、ブラックを呼ぶための」
ブラックの名に美代は目を見開き、ボンドッツはその表情を見て歪んだ笑みを浮かべた。ゾクリと走った寒気に、あぁ、昨晩感じた悪寒は彼だったのかもしれないと、他人事のように考えてしまう。
「大人しくしていてくださいね。……そうそう」
背を向けて歩き始めてすぐに、ボンドッツは振り返った。その凍るような目に、体が震える。
「もし彼がこちらの申し出に応じなければ、あなたには死んでいただきますので」
その言葉だけを残し、ボンドッツは姿を消してしまった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
ザワリと髪が揺れ動き、ブラックは周囲を見渡した。良く解らない胸騒ぎに、落ち着きなく辺りを歩き回って周囲を見張る。
不意に立ち止まると口の中で術を唱え、美代の部屋に入った。そこに彼女の姿はなく、代わりに彼女の部屋では見覚えのない――だが、自分には良く見覚えがある短剣が、机に突き立てられている。
柄には紙が括り付けられており、サッと目を通すと、それを燃やしてしまった。
「美代が……!」
オレのせいだ。
ブラックは、今度は術を唱えることもせず、その場から姿を消してしまった。
出たところは廃屋だった。気配を探し、自分の武器を出すと左後方に向けて振り上げる。ボロボロになっている柱はその風圧だけで崩れ、木屑が舞った。
それでも、そこに居た人物には剣を避けられており、舌打ちを漏らした。
「ボンドッツ!」
「手荒いですねぇ、いきなりですか」
「美代はどこだ、あいつは関係ないだろ!」
ボンドッツは喉の奥で笑い、視線を動かした。彼が見た方向に顔を向け、息を飲む。
「美代!」
目隠しをされ、猿轡をされ。彼女は手首だけでボンドッツの背後に吊られていた。縄が食い込んで痛むのだろう、時折身を捩り、少しでも痛みを和らげたいと足を伸ばす。
そこからは到底届くはずもない、地面へ。
「美代、美代!」
ブラックはすぐに美代の元へ行こうとしたが、ボンドッツがそれを妨げた。彼を射殺さんばかりに睨みつけるが、手に握ったままの剣は構えない。
「あなたが戻って来るのであれば、彼女は解放いたしましょう?」
「……絶対、だな」
剣を消し、手を軽く上げた。ボンドッツは不服そうな表情をしながらも地面を蹴り上げて高く飛び、美代の手首につながっている縄を短剣で切り付ける。
「お前!」
足を踏みだし、美代が地面に叩き付けられる前に体を受け止めると、再びボンドッツを睨んだ。血が止まるのも構わないよう結わいつけられている縄を解き、目隠しを外し、口を覆っていた布をはぎ取る。
彼女の小さな口の中には布きれがいっぱいに詰められており、目を充血させている彼女の事を抱きしめながら、口内を傷つけてしまわないようゆっくりと布を抜き出していった。
うっ血してしまっている手首に優しく触れ、酷く咳をしている彼女の事を、ボンドッツから隠すように背後へ押しやる。
「こいつには、手を出すな」
「まぁ、いいでしょう」
「だ、め……」
かすれた声で、美代は言った。ブラックの服を握ると、彼に手を優しく剥がされ、頭をなでられる。
「大丈夫だよ、美代。ごめんな」
「ダメ、行っちゃ、ダメ……!」
剥がされた手で更に強く、しがみついていった。ブラックはまた剥がそうとするが、ますます力を込めて彼の事を捕まえていく。
「美代、放してくれよ。な?」
「やだ、いやだ……会えなくなる、そんなの……!」
ため息が聞こえ、ブラックはボンドッツを見上げた。宙に浮いている彼はすでに術を完成させ、美代の事を冷たく見据えている。
「斬 裂 血」
「美代!」
きつく体を抱きしめると、瞬時に飛んでくる赤黒い二つの刃を、ブラックは自身の背で受け止めた。そこに十字傷が深く刻まれ、低く唸ると美代を庇うように倒れる。
「ブ、ブラック!」
美代はブラックの下から這い出ると傍に座り、手が血まみれになるのも構わないようにして止血しようと、彼のコートを使って傷口を覆いこんだ。緩々と首を振りながら緩く体を押してくる彼を無視し、ボンドッツをキッとにらみつける。
「いけない人ですねぇ。せっかく救われた命を、無駄にしようなんて」
ボンドッツは微笑み、ゆっくりと歩み寄ると躊躇なく美代の首を掴み上げた。避ける時間すらなかったそれに、美代は爪を立てると足を振り上げ、逃れようとする。渾身の力を持って振り上げたつもりの足はあっけなく捕まえられてしまい、平然とした表情で首を絞め続けられた。
ミシリと、骨が鳴る音が聞こえた。
「やめろ……美代を、放せ!」
腰の付近に突進を受け、ボンドッツは目を見開くと美代から手を放し、仰向けに倒れた。忌々しそうに突進してきたブラックを睨みつけ、立ち上がると美代に向かい大股で近寄る。
「どうにかしていますよ。なぜあなたが、こんなものを庇うんです?」
「手を、出すな。それ以上傷つけるなら」
歯を食いしばり、脂汗を浮かべながらも立ち上がると、美代の机に突き立てられていた短剣を喉元に運んだ。切っ先はわずかに刺さり、血の珠が出来ている。
「オレはここで死ぬ。お前は、あいつの命を、果たせない」
「……本当に、あなたは変わってしまわれた。残念ですよ」
吐き捨て、倒れたまま動けずにいた美代の腹を、容赦なく蹴り上げた。体が宙を舞い、体制を整えることも出来ず人形のように床へ叩き付けられる。
一度だけ掠れた息を吐き出してピクリとも動かなくなった彼女にブラックは目を剥き、ビチャリと耳障りな足音を立てながら、近寄った。
背後から短剣を持っている腕を取られ、振り返る間もなく関節を取られるとそのまま、力づくで地面に跪くように押し付けられた。歪んだ笑みを浮かべているボンドッツの腕を振りほどこうにも、下手に動くと背中の傷が熱を放つような痛みを持ち、どうすることもできない。
「さて、まいりましょうか」
「美代っ……美代!」
そのまま、ボンドッツはゆっくりと魔力を練り上げていき。
空気へ溶け込むように、消えてしまった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
腹部に鈍く残る痛みと、口に広がる鉄の味と、鼻をくすぐる生臭くて湿気た空気。
薄く目を開き、空咳を漏らすと、美代はゆっくり体を起こした。地面に尻をつけてペタンと座り、ぼんやりとした目で辺りを見る。意識が戻る前にあった感覚が気持ち悪くて、もう一度眠ってしまいそうになり、どす黒い水たまりが目に入った。一気に頭が覚醒し、ささくれ立つ木の床に触れる。
「ぶ、ブラック! ここどこ? いま何時?」
腹が痛い、気持ちが悪いと言っている時間すらもったいなく、美代は廃屋の外に走り出た。太陽がすでに空に昇っている、最後に見た景色は夜だったはずだから、攫われてから丸一日経ったことになる。
「戻らなきゃ……尚人、バーナー……捜さなきゃ」
町の方角は解らない、それでも今は進まないと、どうしようもない。
勘を頼りにして、美代は歩き始めた。
廃屋から少し離れてみると町からはさほど距離がない場所に居たようで、少しの熱っぽさと体の怠さを感じながらも歩き続けた。ボロボロで、ところどころに血が着いている自分の格好を町の人たちがジロジロと見てくる。普段なら不快に思うが、そんな余裕もない。
フラフラな体の芯まで響いてきた振動に、美代はハッと顔を上げた。町の人々も異変に気が付いたのだろうざわめき、それを掻き分けるように息をつめて走り出す。
立ち直りかけていた花丘町は再び、ガレキの山となりつつあった。人々は逃げ、泣き叫び、傷ついている。
「な、なにが!」
人の波を掻き分けて、美代は逆流していった。全身を逆撫でるような地響きに上空を見上げ、波に呑まれながらも手を伸ばす。
「ブラック!」
頭上数メートルの高さに浮いている、腰まである長い碧髪に黒いコート、その紅い瞳の人物は確かに彼だった。ブラックはうるさそうに振り返ると、射るような凍った目で美代を見る。
「……なんでボクを知ってるの? まぁ、いいや」
剣を振りかざし、急降下をしつつ美代へ向けて振り下ろした。それを紙一重で避けながらもガレキに足を取られてしまい、地面に倒れ込む。アスファルトが焼ける臭いと宙を舞う土埃のせいで吐き気を催し、口元を手で押さえながらも、体を捻って彼を見上げる。
「あれ、よけた?」
「ブラック……なんで、私がわからない? なんで!」
「知らない、不愉快、消えて」
美代はそこに座り込んだまま立ち上がることが出来なかった。声もなく涙を流し、剣を頭上に振り上げるブラックを見つめる。無意味だとわかっていながらも、目をきつく閉じて頭を抱え込んでしまった。
いつまで経っても痛みはなく、代わりに剣と何かが激しくぶつかる音がした。恐る恐る目を開いてみると、真紅の剣を持ったバーナーがブラックと鍔迫り合いをしていた。
「何をしている……ブラック、どうしてこんなことを!」
「きみも、ボクを知ってるの?」
バーナーは剣を弾き、美代の首根っこを掴むとブラックと距離を取った。チロリと唇を舐めながら瞳に宿す光は真剣で、それでもどこか楽しげで、背に庇われながらも美代は息を飲む。
「美代、今のうちに逃げろ」
ブラックに向かって突進し、剣を振り上げたバーナーの事を、ブラックは面倒くさそうに見ていた。
だが彼の剣が振り下ろされた瞬間、ブラックは即座にその場を離れていた。深紅の剣が炎を纏い、ブラックがいた場所を空振りしていく。アスファルトを溶かしながら突き刺さった剣に、ブラックは静かに剣を構えていた。
「良い判断だな?」
口からこぼれる笑い声に、バーナーは刺さった剣を斜めに降り上げると間髪入れず、ブラックに向けて突き出した。ブラックはそれを剣の腹で受け止めようとし、背合わせになっている片刃刀の、僅かな隙間を見せる。
「っ!」
バーナーは自身の腕を蹴り上げ、突き出した剣を上に逃がした。振り払われる漆黒の剣は上半身を限界まで反らせてどうにか避けて、一歩ブラックと距離を取る。
「よく気が付いたね。この隙間に剣が入っていたら、砕けてたよ」
クスクスと笑うブラックは声すら冷気を帯び、クッと口角を上げるバーナーは背を震わせていた。
その光景から美代は、目を閉じることも背けることも、この場から離れることも出来ずにいた。体が震え、それを抑えようとする手にすら力が入らない。
初めて、この二人がこの世界の住人ではないのだと、実感できた気がする。
左胸に向けて鋭く突き出された剣を間一髪で弾き、玉の汗を宙に舞わせながら眉間を狙って拳を繰り出す。
ニヤリと笑っているブラックの直前で拳が何かにぶつかり、彼に届くことはなかった。髪が波打ち、口元がボソリと動くのが見える。目と鼻の先で盛り上がってくる地面に顔面を殴打されながらも、足の裏をそれにつけた。崩れたままのバランスで無理やりに体を縮ませると後方に跳ね、青ざめたまま動けずにいる美代の元に着地する。
戦いが始まった時とは違ってひどく険しい表情を浮かべているバーナーは、剣を宙に溶かすと美代の体を担ぎ上げて走り始めた。その瞬間楽しそうに笑っていたブラックの表情が凍り付き、目を細めて苛立ちを露わにする。
「そう……つまんないの!」
ブラックが指を動かすとそれに従うように、ガレキが動いた。走るバーナーの脛を強かに打ち、それに足を取られ、美代を庇いながらもそこに倒れ込んでしまった。
「死んで」
彼の周囲に浮遊するガレキの群れが、一斉に二人に向かった。避けられるような時間はなく、バーナーは咄嗟に美代の事を抱え込んでしまう。
二人の上にガレキの山を築き上げるとそれをしばらく見つめ、ブラックはふらりと姿を消してしまった。地面にはジワリと血が広がっていき、山が微かに震える。
「……美代、大丈夫だったか」
「バカ、私よりも、尚人……!」
ガラガラと積まれていた石を崩し、バーナーは体を起こした。わずかに表情を歪めながらも美代の手を取り、顔色を悪くしている彼女と一緒に立ち上がる。
「あ、あし、せなかも、ひどいけが……!」
「こんなもん、怪我には入らねぇよ」
「バカ! だって足からも背中からもたくさん血が出てて、はやく治療しないと」
「なぁ美代、あいつは一体どうしちまったんだ」
上着を引き裂き、上半身に巻き付けながらバーナーは問いかけた。手を伸ばしかけていた美代はビクリと震え、緩々と首を振りうつむく。握る拳を震わせ、深呼吸を繰り返した。
「尚人」
「他に人はいないからな、バーナーでいい」
「じゃあ、バーナー。どうすればいい? どうすれば、ブラックを追って行ける?」
目を真っ赤にし、泣き出しそうな表情をしている彼女を見ながら、バーナーは目尻を下げた。ポンと頭の上に手を置き、視線を合わせるよう腰をかがめる。
「オイラ達の世界に行こう。ニルハムに。先に行っていてくれないか、オイラもすぐに追いかけるよ」
「どうすればいいの?」
「きっかけをやるよ。何も考えるな、お前の両親や友人にはうまく伝えておいてやるから。目を閉じて、力を抜いて」
バーナーの手が頭から離れ、そっと目元を覆った。流されるように目を閉じていると温かい何かが体を包んでいくのが判り、深く息を吐き出すと体の力を抜く。
「またな」
優しい言葉を最後に、美代はグンッと体を引かれていた。