男の子になってしまったようです
―― ひとりが生まれ、ひとりが宿り、ひとりが母の言葉を聞いた。
こうして残されたのは、ついに、自身のみ。
新たな器は生まれ来ない存在となり、器となりえる者の可能性も消えてしまった。
これでは母の言葉を聞けぬ、これでは使命を全うできぬ。
この世界では、器は見つからない。
不意に、身を引かれたのが判った。
それに従おう、母がため。それに従おう、使命のため。
たとえそれが、この世界の外側にあろうとも。
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何の変哲もない平日の昼間に、一人の子供が路地裏へと足を運んでいた。乾いた足音を響かせながら暗がりを進み、見えてきた二つの人影を前に立ち止まる。
「楽しそうなことしてるじゃん」
薄っすらと赤い無地の長そでシャツに濃い藍色のジーンズパンツ、スニーカーをはいたその子は左手を腰に当て、口元に微かな笑みを浮かべていた。
「私も混ぜてくれない?」
言葉とは裏腹に冷たい声調で、肩口まで伸ばしている黒髪を揺らし、空色の瞳を鋭く光らせながらも歩み寄ってくる。
「なんだ、お前」
制服をだらしなく身にまとい、髪を明るい茶に染めている青年は声に振り返った。
「またガキか……。痛い目に遭いたくなけりゃ、どっか行け」
「み、美代おねえちゃん!」
高校生だろう青年の前には、自身よりも更に年下の男の子がいた。布製の小さな財布にシワの跡がついてしまうほど両手できつく握りしめ、壁に背をピッタリと付けて目元に涙を浮かべている。
美代は、男の子がなぜ自分の名前を知っているのだろうと思考をめぐらせ、近所に住んでいる、別の小学校に通う子供だという記憶にたどり着いた。確か彼の学校は昨日、運動会があっていたはずだ。
「どうせカツアゲするんなら自分より年上の奴からやりなよ、そうじゃなければ学校にも行ってないんだ、バイトでもすればいい」
鼻で笑い、小馬鹿にしながら更に言葉を続ける。
「卑きょう者」
放たれた単語に、青年の眉間にシワが刻まれた。彼が拳を固めながら美代に体を向けると、その隙に男の子は表通りへ駆け出す。
そんな男の子に目もむけず、美代は自身も重心を低くすると手を軽く開いた。
「ほら、言った傍から年下しか相手に出来ない」
「謝るなら今のうちだぜ、お嬢ちゃん。それとも泣くか?」
「卑きょう者相手に泣くほど、小さくないつもり」
「正義のヒーロー気取りかよ、癪に障る奴だ」
嘲るような口調に、美代はピクリと眉を動かした。それでも薄っすらとした笑みを浮かべたまま目を細める。
「別に。あんたみたいに、弱いくせにさらに弱い奴を虐めないと気が済まないような奴が嫌いなだけさ!」
カッと顔を赤く染め、拳を振り上げて来る青年に向かい、美代も地面を蹴った。
拳が振り下ろされるのを確認すると、美代は踏み出そうとした足を地面に突っ張り、走っていた体を無理やりに止めた。鼻先をかすめるそれに小さく口を鳴らし、体を低くすると青年の懐に向かい突進する。
腰に抱き着くようにしながら突き進むと、バランスを崩したのだろう彼は仰向けに倒れ、強かに打ち付けたらしい頭部を抱え込んで不明瞭な唸り声を上げた。美代はチロリと舌をだし、ついてもいないのに服から土を払うような動作をする。
「まったく、小学生からお小遣いを巻き上げてるやつがいる―って聞いて、オチオチ出て回れなかったんだよね。これに懲りたらもうやめる事!」
「て、め、え」
「なんで、自分よりもはるかに背が低くて体重も軽いだろう私に転ばされたのか解らない、って顔してるね」
立ち上がろうにも体が自由に動かないのだろう、憎らしげに睨みつけてくる青年に、美代は小さく笑った。彼の頭部に回り込み、軽く患部に触れ、頷く。
「あんたにもわかりやすいように、説明してあげる。私たちが普段あたりまえのようにしている、二本足で立って歩く、っていうのは結構不安定なんだよ。だから重心をちょっと崩して、そのまま押し倒しただけで」
得意げに笑っている美代に、高校生は恨めしそうに歯ぎしりをした。そんな彼に、どうだ! と言わんばかりに、胸を張る。
「どんなに体格差があろうと、転んじゃうってわけ! 体の中心を壊されちゃったら、普通には立っていられないもん。高校生のあんたを、小六の私が倒せるみたいにね」
と、美代は立ち上がった。同じように立ち上がろうとしてもたついている高校生の腹を両腕で、地面に押し付けるようにする。
「頭もしばらく痛いだろうけど、大きな怪我でもなさそうだし、しばらくそこに居なよ。じゃあねー」
ヒラヒラと手を振り、表通りに向かい歩いた。路地裏から一歩外に出た瞬間。
「うわっ!」
背中に殴られたような衝撃を受け、美代は数歩足を踏み出して倒れそうになったのを堪えた。咳き込みながらも、睨みつけるように後方を振り返る。
(あいつ、バットか何か持ってたの!)
高校生がもう回復して来たかと目を凝らしたが、彼はまだ先ほどの場所に座り込んでいるようだった。しかしふと、視野の違いに気づき、美代は視線を下に向けていく。
「な! あ、え?」
声を出し、息を詰まらせると美代は再び路地裏に駆けこんだ。青年を飛び越えるように奥へ奥へと走り、人気がなくなったことを確認すると再度自身の姿へ目を落とす。
「なんだよ、これ!」
状況を一言で言うならば。男になっていた。