Dear Elise
辛い恋ならば、しないほうが良かった――。本当かな、と思う。
うっすら茶渋で円が描かれた揃いのティーカップが五つ。乾いたクリームがこびりついた皿と、小さなフォークも同じ数。空っぽの部屋、がらんどうの部屋。クーラーの音ががーがーと耳につく。それに埋もれるように、ピアノの音が聞こえた。あぁ、そういえばBGMなんてかけていたのだっけ。おしゃべりしている間はすっかり忘れていた。
人気のお店のケーキ、どんな味だったか思い出せなかった。すごいカロリーだねと笑いながら二切れも食べたはずなのに。おかしいな。何をしゃべったかも、そんなにたくさんは覚えていない。どうでもいいようなことを思いつくままにしゃべっていたから。ケーキは集まってから三十分もしないうちになくなってしまって、あとは紅茶ばかり飲みながらしゃべっていたような気がする。気づいたら三時間も経っていて、すっと波が引くようにみんな帰って行った。
茶渋が染みついてしまう前に洗わないと。よっこいしょとおばあさんのような掛け声をつけて立ち上がって、汚れたカップとお皿をシンクに横たえる。「洗っていこうか?」ってみんなは言ってくれたけれど、あえて断ったのだ。ひとりぼっちになった部屋でなにもすることがなかったら、わたしは寂しがりのうさぎみたいに死んでしまうかもしれない。というのはいくらなんでも冗談だけれど、考えなくてもいい余計なことをいろいろ考えてしまうような気がした。せっせとスポンジを動かしている間は少しはまし。別に寂しいわけじゃない。みんなといるのはもちろん好きだけど、一人でいるのもちょっと違った意味で好きだ。でもヘンなことを考えてしまうのは嫌い。それで切なくなったり苦しくなったらもうどうしようもないから。それは擦りむいた傷口がじくじく痛むのに似ている。絆創膏を貼るほどではないけれど、お風呂に入るとじーんと沁みる。
馬鹿みたいだ。だったらお茶会なんてしなければいい。でも、したいんだ。寂しいわけじゃない。ただちょっとだけ繋がっていたくて、あなたがいてもいいんだよって言ってもらいたくて。ほんと、馬鹿だなぁ。そんなきざったらしい台詞、現実で誰かが言うわけないのに。
陶製のソーサーを丁寧に拭いて棚に重ねる。それですっかりシンクは空っぽになる。わたしの部屋と同じ、空っぽになる。嫌だなぁ。BGMを止めるのを忘れていた。軽快なピアノ曲。有名な曲だ、確かベートーヴェン。曲名は、そう、『エリーゼのために』。どこかで聴いたようなこのメロディーもクラシックなんだって、いつ知ったのだろう。ああ、駄目駄目。いろいろ考えたら駄目。嫌だなぁ。やっぱり思い出す。だから何かしていたいのだ。目の前のことに夢中になっているうちは大丈夫。そうだ、プリンを作ろう。わたしがプリンは簡単に作れるって言ったらみんなびっくりしていた。今度食べさせてあげると言ったはず。作って、またお茶会をしよう。
フライパンに水と砂糖をどばどば入れて中火で温める。少し時間がかかるけれど、急に熱くするとあっという間に焦げ付いてしまう。カラメルを作るこの工程だけはコツがいるのだ。どろどろの砂糖水の底から気泡がぽこぽこと浮かび上がる。もったりした液体に浮かぶいくつもの泡は、かえるの卵とか目玉とかに似ていてグロテスク。半透明なそれが生まれては弾けるのは、気味が悪いような面白いような変な気分だ。なかなか変化のない砂糖水をかき混ぜていると、耳がピアノの音を拾ってしまう。まだ『エリーゼのために』。エリーゼって誰なんだろう。クラシックに疎いわたしはベートーヴェンというと『運命』の印象しかないけれど、あんな重厚な感じじゃない。『エリーゼのために』はどちらかといえば、楽しそうだ。子供の名前かな、とも思う。ベートーヴェンに娘がいたのだろうか、わからない。でもきっとエリーゼは彼にとって大切な人なんだ。それはわかった。いつか、この疑問の答えを聞いたように思う。本当は思い出せないほど昔じゃない。けど、思い出さなくていいのだ。
なんでクラシックなんてかけてしまったんだろう。わたしの好きなポップ音楽でよかったのに。ほんのり香ばしい匂いになった砂糖水をプリンカップに注ぐ。こげ茶色の液体がもたりもたりと溶け落ちる。あとは簡単。卵と砂糖と牛乳を混ぜて注ぐだけ。しゅんしゅんと湯気を吹き出す蒸し器にそっと並べて、タイマーをセットする。嫌だなぁ、待つのは。ゆっくりゆっくり減っていくタイマーの数字を見ている。三十分は長いなぁ。CDを止めた。しんとした部屋にクーラーと蒸し器が間の抜けたオーケストラみたい。キッチンの台に寄りかかって、エプロンの裾をいじる。プリン、久しぶりに作った。前は得意だったから、きっとうまくできるだろう。どうしてずっと作っていなかったのかとか、考えない。どうしてどうしてと問い始めたら止まらなくなる。どうして病はとても危険だ。
ぼぅっとしていたら、タイマーが鳴った。三十分は案外早かった。ひょっとしたら気づかないうちにうとうとしていたのかもしれない。なんとなくふわふわした頭のまま、火を止めて蒸し器のふたを開ける。むわっと蒸気が視界を真っ白にして、それから鮮やかな黄色の宝物を自慢げに差し出した。うん、うまくできたみたいだ。ちゃんと見たくてせわしなくカップをつまみだす。なんで素手で取り出そうと思ったんだろう。熱いに決まっているのに、忘れてしまっていたのかなぁ。熱さは後からやってきて、運悪くちょうど蒸し器から出したところで指先がかっと燃えた。ほわほわ頭だったわたしは、びっくりして指を離してしまう。
がしゃん、と。思いのほか鈍い音でカップは割れた。潰れたプリンがべっちょりとフローリングに流れていた。指がひりひりする。火傷、してしまったみたい。瞼がぷるぷる震えた。寂しいわけじゃない。悲しいわけじゃない。ただ、火傷が痛かったから。
どうしてわたしはエリーゼになれなかったんだろう。そう思いながら、プリンが塩味になっていくのを見ていた。