9 伝わらない絶望
「おいおい、ひどい言われようだな。聞いただろ? ちょっとお見合いを用意してくれただけじゃねぇか。実際あんた、番を見つけなきゃやばいんだろ? それだけ獣性が薄いと、俺より最適な雄なんて早々いねぇぞ」
ニヤニヤと笑いながら押さえ込んでくる獣人から顔を背けて叫んだ。
「ガウス…!! 助けて、ガウス……!!」
「そう吠えんなよ。俺だって、雌に無理強いする趣味はねぇんだ。……ただ、あんたは妙にそそられるんだよなぁ。ガキだったあいつが理性を失っちまったのは仕方ねぇかもな……」
「いや……っ、触らないでっ」
手を振り払うと、グルルっと、唸るような喉を鳴らす音が響く。
「お嬢ちゃん、そんなに嫌がるフリすんなよ。そんな駆け引きしなくても、俺よりお嬢ちゃんにぴったりな良い雄はいねぇだろう? あー……そそるわ。なんっか、興奮しちまうなぁ。俺は乱暴にする趣味はねぇけど、……やべぇなぁ。……お嬢ちゃん、そういう遊び方はやめた方が良いぜぇ? ……ああ、理性が飛んじまいそうだ、食いてぇ」
腕を掴まれ、ヒッと息をのむ。ガクガクと震える身体は、逃げ出すこともできないほどに硬直していた。もう頭がなにも考えられなくなる。
「………が、ガウス………ガウス、ガウス、がうす……」
恐怖で涙が勝手ににじんだ。
「かわいいねぇ。それが保護者の名前か? 心配すんなよ、ちゃぁんと俺が話を付けてやんよ。あんたは、なぁんにも心配しなくて良い。守られて、愛でられるのがお嬢ちゃんみたいなヒトの生き方だからなぁ」
獅子獣人が小さく笑って宥めようとしてくる。その猫なで声が、かえって気持ち悪かった。
「う、恨んでるの?」
「なにを?」
「わ、私と、ガウス、と……」
獅子獣人は、途端に、きょとんとした様子で首をかしげた。
「なんで」
「あなたの、弟さんを、」
ひどい目に遭わせたから……そう言う前に、獅子獣人は「なんだ、それ」と、おかしそうに笑った。
「恨むわけないだろ。そりゃあ、気に食わねぇし、憎らしいが、弟が弱かっただけだしなぁ。けどなあ、嫌いなヤツには嫌がらせぐらいしたいもんだろう? ついでにこんなに旨そうなおまけも付いてくる」
旨そうという言葉に、ぞわりと震えが走る。
ガウスに言われていた言葉が脳裏をよぎる。
『獣性の強過ぎる奴らにとって、お前みたいな純粋な人間はとんでもなく美味そうな匂いがするんだよ。やたらと本能を刺激されて食らいつきたくなる。
そうは言っても、奴らも獣人だからな、野生の動物よりかは我慢がきくし、生き餌を食らう習慣はねぇから本当に食うことはない。けど理性に期待するな。理屈じゃなく、本能が刺激されるんだ。
「雌」と認識していたら、獣の本能が強いヤツは抵抗さえすりゃあ逆に踏みとどまれるんだが、お前は「捕食対象」だから、むしろ狩猟本能が刺激されかねない。
それでなくても、お前の力じゃ「抵抗」とすら気付かれないかもしれねぇ。獣人並みの抵抗をお前ができりゃあまだ「雌の抵抗」と認識されるかもしれねぇが、力が弱すぎてむしろ誘っていると思われる可能性もある。
獣ってのは、人間を性の対象にしても、番にしない限りは、捕食衝動が上回る。食いたくて食いたくてたまらない、獲物だ。
ミーナ、番のいない獣性の強い雄には、絶対に一人で近づくんじゃねぇぞ。知り合いでも、周りに誰かいないときは、すぐに離れろ。必ずだ。
大抵は俺の匂いでひるむはずだが、本能に狂うと、なにをするかわからねぇからな』
あの時のガウスの言葉の意味を、身をもって理解する。私は、この雄にとって捕食対象なのだ。その上、襲っても良心が痛まないどころか、鬱憤を晴らす相手でもある。
感覚からして違う生き物なのだ。どんなに馴染んでも、根本的に理解出来ない存在なのだ。
恨まれているというのならまだ理解できた。好きだというのならまだ理解できた。
恨まれているのでも、好きだというのでもない。そそられるから、ちょうどいいから、それだけが、理由になるのだ。
何度も何度もこの世界にやってきた自分を憐れんで嘆いた。
常識が違うことを度々思い知らされ恐ろしくなった。
それでも、私は恵まれていたのだと改めて思い知る。ガウスに拾われ、みんながよくしてくれて、平和に暮らせていた。
命の危険を感じたのは、この世界に落とされたときと、虎獣人に襲われたときの二度だけ。
それだけでも多いと思うが、この世界で私が生きてきた時間を思えば、驚異的なほど、少ないといえる。
この世界の常識では、いかに私が幸運だったかなんて、いうまでもない。ガウスの庇護はそれだけ大きかった。
現実から逃避するように記憶を遡っていたけど、私を押さえ込む獅子獣人から喉元をざらりと舐められたことで、意識が引き戻される。
「……っ、いたいっ」
舐められた部分に、ヤスリでこすられたような痛みが走り、身が縮こまった。
「痛い? 嘘だろ……やっぱ、ヒトの肌は弱えぇなぁ。毛皮あったら全身舐めてかわいがってやんのによ」
「ひっ」
身体を竦ませながら、必死に押し返そうと腕を突っ張るが、やはり何の抵抗にもなっていない。
「ははっ、照れてんのか?」
笑う顔は恐ろしいほどに無邪気だ。そこに悪意はひとつもないことが恐ろしい。
本当に私の力では、「本気で嫌がっている」とはわかってもらえないのだ。
基本的に、ヒトは獣に求められると、庇護者を得るとあって喜んで受け入れる傾向にある。
不満があまり出ないのは、それが常識であるのも大きいだろうけど、動物の本能が私より強いことも大きいのだろう。
だからこの獣人はヒトから拒絶されたことがないのかもしれない。下手をすると、自分に見初められて幸せだと、思われているのかもしれない。
ヒト寄りの雌の獣人が、「もっと旦那の獣性が強かったら良かったのに」とぼやくのは、よくある話だ。獣性が弱いよりかは強い方が断然マシと思うのが、力が物を言う世界で生きる獣人の本心だ。
押しのけようとする腕の力は、なんの役にも立たず、ぐっと身体は引き寄せられて、獅子獣人の腕に囚われる。
「あんた、かわいいなぁ。こんなにそそられるのは初めてだ。嫁達の中でも一番にかわいがってやっても良いぜ」
パニックになっている状態で、更に追い打ちをかけられて、勝手にボロボロと涙がこぼれはじめる。
嫁達ってなに? ライオンは群れを作ってるの? 一夫多妻の種族? それとも種族のせいじゃなくてこの雄がそういう獣人なだけ?
わけがわからない。私は群れで生活をする獣人との結婚は全く考えてなかったから、その辺りは詳しく知らない。獣人達の家族形態は多様だ。いろんな種類が入り乱れているから、本当にわかりづらい。
しかもガウスが家の外で群れを作ってないから尚更知る機会がなかった。
そんな訳の分からない仕組みに、勝手に組み込まれようとしている。ガチガチと震えて歯がかみ合わない。指先まで冷たくなって、感覚がどんどんと薄れて行く。
「がうす、がうす、がうす、……」
何かを考えるほどの精神状態ではなくなっていて、意識が薄れていて、わかるのは怖いということと、ガウスのことだけ。私は知らず、自分を助けてくれるただ一人の名前をつぶやき続けていた。
「なんだぁ? ここまで来て、保護者の名前かよ。お嬢ちゃん、それはちょっといただけねぇなぁ」
その言葉が最後まで私の耳に届いたかどうかというところで、かき消された。次の瞬間、ドンともガンとも聞こえる、何かが乱暴に壊されるような音がしたせいだ。
あっと思う間もなかった。
大きな黒い影が飛んできて、当たると思う間も身構える間もなく、訳がわからないまま、私は目の前の獣の身体と共に吹っ飛んだ。




