2回目のチュートリアルは、名画の前で
「まだ、痛むか?」
「だいぶマシにはなりましたけれど──」
額のあたりを手でさすりながら、あたしはため息をついた。全く、何だってこんな目に遭わなきゃならないんだ。せめて、謝ってくれたならまだしも、それすらないのだから……はあ。
もうね、ため息をつくたびに、幸せが逃げていくような気がするわ。
ため息をつけば、幸せが逃げる。よく言われる事だけど、こんな風に実感する日が来るとは思わなかったわ。止めたいと思うのだけれど、ため息がね、止まらないのよ。悲しい事に。
また、ため息がこぼれそうになった時、ふわりと温かい風があたしの額を撫でていった。
え? と、今のは何だと思わず足を止めかければ、
「法術を使うまでもない、とは思うんだが……頭に近い場所だし、色んな意味で痛々しくてね」
「アト様……ありがとうございます」
すごいわ、さっきまでズキズキしていたのが、きれいさっぱり。
おでこのたん瘤、結構大きかったですもんねえ。普通なら、保健室へ行って手当をお願いするのが良い。
法術での治癒や痛みの軽減は、あまりしない方がよいとされている。人間の体は楽をしたがるので、法術を多用すると自然治癒力の低下を招いてしまう恐れがあるのだとか。授業で習ったわ。
でも、保健室へ行っていたら、お話する時間が減ってしまいますものね。ただの親切心からだとしても、嬉しいです、アト様。
「あの女の事は、ランスロット殿下にも報告しておく。あのまま放置していたら、君の身に危険が及びそうだ。今一度、警備体制について見直す必要があるかも知れない」
「学園ではなるべく近づかないようにはしているのですが──」
向こうから寄って来るのだから、こちらとしては良い迷惑である。
「それだけでは、弱いかも知れないな」
本当は、君がその花十字の力を使うだけで、簡単に事は片付いてしまうのだが──と、アト様は冷笑を浮かべた。でも、それは一瞬の事で、彼はあたしを気遣わし気に見下ろし、
「でも、それは君の望むところではないのだろう?」
「ええ」
あたしは、頷く。
この首にさがる花十字のペンダント。この力を使うというのは、要するに教会の権力を使って、ミシェルを排除するという事だ。それだけの力を、このペンダントは有している。
「わたしは臆病なので、人の人生を変えてしまう事が恐ろしくて仕方ないのです」
「君の人生は、変えられようとしているのに?」
「アト様、あたしの人生は変えられようとしているのではなくて、変えようとしているのです。あたしは、あたしの意思で動いていますから、勘違いなさらないで頂きたいわ」
あたしの人生を変えるのは、あたししかいないわ。これは、とても重要な事。
この主張は、誰にも譲らない。チトセさんも、ランスロット殿下も、アト様も、あたしの人生を変えるために、協力をお願いしているの。
マリエールモードの「わたし」ではなく、「あたし」と言ったところに、決意の強さを感じ取ってもらいたいものだ。
一瞬、キツネに鼻を摘ままれたような顔をしたアト様は、すぐにくくっ、と喉の奥を鳴らして、面白そうに目を細めた。
「なるほど、チトセとちびこが気に入る訳だ。その強さがあるなら、村でも十分やっているけるだろう」
商会ではなく、村? どういう事だろう? と首を傾げれば、アト様が「あの村は、何から何まで規格外だからな」とぼそっ。ちびちゃんの生まれ育った村ですもんね。チート村でも、驚きませんよ、あたし。
……っと! そうだ、あたしったら! ちびちゃんで思い出したわ。
「アト様、先日は素敵なお花をありがとうございました。すっかり、お礼を言いそびれていて、申し訳ございません。カーンたちにも、改めてお礼を伝えていただけますでしょうか?」
「ああ、そんな事……。こちらこそ、丁寧なお礼状を頂いて、かえって気を使わせたかと、反省していたんだ。カーンたちは素直に喜んでいたがね」
「わたし、とても嬉しかったんです。心のこもった花束を頂いたのは、あれが初めてでしたから。しばらく花瓶に入れて楽しんだ後、押し花にして、栞を作ったんです」
栞にしたのは、アト様から頂いたお花の方。カーンたちからもらったお花の方は、小さな額にして、マリエール・ヴィオラの祭壇に飾ってある。ちびちゃんからもらった、鳥の人形も一緒だ。
「そんなに喜んでもらえたなら、贈った甲斐があったというものだ」
「でも、あの後、ちびちゃんはチトセさんに怒られたんじゃないですか? 内緒でカーンたちについて来たみたいでしたから──」
「ああ、ちびこは君へのプレゼントを仕上げた翌日に、罰をくらっていたよ。タオルケットの芯にされて、ぐるぐる巻きに。上手く歩けないから、ころころと部屋の中を転がっていた」
あらまあ……ちびちゃん、簀巻きにされたちゃったの!? あの活発なちびちゃんが自由に動き回れないとなると、かなり苦痛だったんじゃないかしら?
「ちびちゃんは、どんな様子でしたか?」
「そんなに顔を曇らせなくてもいい。心配せずとも、楽しそうに笑って、転がっていたから、あれは罰にはなっていないな」
……それはそれで、あり得そうね。ちびちゃんの事だから「あははは。ぐゆぐゆ~」って、きゃっきゃ、はしゃいでいそうだわ。
「チトセに、蹴ってくれって、頼んでいたくらいだ。あれは絶対、何かの遊びだと思っていただろうな。失敗したと、チトセが珍しく頭を抱えていた」
その姿も、ばっちり想像できます。どんより、頭を抱えて落ち込むチトセさんへ、ちびちゃんが笑いながら転がって、突撃する様子まで想像できてしまうわ。ホント、仲良しよね!
チトセさんはというと、ようやくリッテ商会の王都支店の出店場所が決定したそうだ。
東地区にある手芸通りの近くにある空き店舗の賃貸契約を結んだのだとか。小さな店になるだろうけれど──まだ、商品のラインナップが充実していないらしい──これから、内装についての話し合いや、工事の手配、什器の搬入や品ぞろえ、スタッフの教育とやる事は目白押し。
「これから、忙しくなりますね」
「人材については、ウチからも派遣する予定だが、アイツは人を使う事に慣れていないから、そちらの方が問題かも知れないな」
チトセさん、優秀ですもんね。何でもできちゃいますもんね。分身の術──本当にあるのかどうかは知らないけど──で、接客からお会計、商品補充まで1人でこなしていても、彼なら、あり得そうで怖い。
ちびちゃんたちの話をしている内に、目的地である美術室についてしまった。
兄の描いた絵は、美術室の中ではなく、外の廊下に飾られている。兄の作品だけではなく、他の生徒の作品や、学園に寄贈された絵の一部もここに飾られていて、美術室前の廊下は、まるでギャラリーのようになっていた。さり気なく飾ってある中に、宮廷画家である、クレメンスの美人画があったりするから、侮れない。ちなみに、あたしは、セーゲルという風景画家が描いた、草原の絵が好きである。
「ほぉ……これがそうか……」
兄が描いた絵の題材は、花瓶に生けられた、紫と白のスミレ。大きさはそれほどでもなく、あちらで言うところのA4サイズ程度。あたしでも、胸に抱えて持ち運べる大きさだ。
きちんと額装されていて、絵の下に「シオン侯爵家寄贈『窓辺のスミレ』」というプレートが付けられていた。
ガラス製だと思われる、ミルクピッチャーのような小さな花瓶に生けられたスミレは、窓から入る日差しに当たる花と当たらない花がはっきりと分かれている。
この絵を評価した専門家曰く、このスミレは少女から乙女、乙女から女へ変わっていく喜びと悲しみを表現しており……どうたら、こうたら。一般的な紫色のスミレの中に交じる白いスミレは、純潔さを表していて……云々かんぬん。
専門家のいう事は、はっきり言ってよく分からない。ただ、好きか嫌いかで聞かれると、あたしは、あまり好きじゃない。描かれたスミレがそれほどキレイだとは思えないのだ。
「あの男も、中々こじらせている」
くっと笑ったアト様は、この絵をどう思うか、たずねてきた。あたしは、素直に
「スミレが窮屈そうに見えて、あまり好きではないのです」と、答えた。
「──だろうな。この絵には、男の願望が見え隠れしているように思えるよ。この願望を理解できてしまうところが、少々複雑ではあるが……」
「願望……ですか?」
窮屈そうなスミレと男の願望。その2つがどう繋がるのか、あたしにはサッパリ分からない。左右に首を傾げて、絵を見る角度を変えてみるけども、やっぱり分からない。
「私としては、分からないままでいて欲しいがね」
「はあ……」
アト様がクスクスと笑っている。
「さて、君を連れ出したのには実は訳があるんだ。先日の誘拐事件について、君はどこまで聞いている?」
「どこまで……とは? エルンストの暴走ではなかったのですか?」
彼の暴走で片付けるには少々乱暴な決着の付け方のような気もしないではないが、他の従者の話だと、あの日のお供は自分に譲ってくれ、と同僚に頼み込んでいたらしいのだ。
「やっぱり、君には何も話していないか」
アト様はため息をつき、仕方がないと言えば仕方がないか、と独り言。
話した方がいいのか、話さない方がいいのか、悩んでいたし、とため息交じりに言葉をこぼす。
「どういう事ですか?」
「君は知らないままでも、ほぼ問題はない」
「でも、アト様は知っていた方がよいと思われるのですね」
「完璧な計画などあり得ないのだから、競争相手の情報は多ければ多いほどいいだろう?」
言いながら、アト様は兄が描いたスミレの絵の額縁をピンと指先で弾いた。その口元には、冷笑が浮かんでいて──怖いやら、美しいやら、拝みたくなるやら。もう、反応に困るわ。
「ええと……?」
「君も聞いていた通り、あの後、トワイライトから報告が届いたのだが──視点が足りなくて、君の従者を探して事情聴取をするよう、指示を出した。──チトセに」
チトセさん……お疲れ様です。あ、トワイライトって言うのは、あたしを誘拐した男たちがいる組織のお偉いさんの名前。感情が高ぶって、オネエ口調になってしまった、アト様に責められていた人よ。
「そもそも、おかしいとは思わないか? 仮にも侯爵家で働く男だ。身内はもちろんの事、交友関係や、素行だってしっかりと確認した上で雇い入れているはず──」
「あのような品のない方々とどこで接触したのか、というお話ですね。法具の入手経路も含めて、友人を通じて、という事も難しいのでは? と考えていらっしゃる?」
「その通り。実際、事情を聞けば、その通りだった」
煩わしい話だったよ、とアト様。
あたしに報告が来なかったのも、その煩わしさにあるのだと、彼は言う。
「結論を言うと、彼は操られていた。と、言うのは少し語弊があるか。法術で思い込まされていた、というのが正しいのだろうな」
「思い込まされていた? どんな風にですか?」
というか、そんな法術があるの? 後でカーラに聞いてみよう。
「誘拐された君を自分の手で助けるしか、君と結ばれる手段はない、というような感じではないかな。とにかく、誘拐された君を助けなくてはいけない、と思ったらしいよ」
何だ、それは。カーンたちの話だと、途中でおかしなことになってたよね? それは、法術の未熟さのせいだろうと、アト様。この手の法術は、とても繊細に術式を組まなくてはいけないらしい。
「君たちが昼食を取っている時、彼も同じ店の別の場所で昼食を取っていた。その時、話しかけて来た男がいたそうだ。その彼は不思議な雰囲気の男で、初対面のはずなのに、何故か日ごろ、思っていても口に出せない事をぽろり、とこぼしてしまったのだとか」
「職場の不満とか、思っていても言えなかったり、話していて、普段、気付いていなかった事に気付かされたりしますものね」
うんうん、と思わずうなずけば、そういう事じゃなくて、と苦笑いされてしまった。
「君への恋心を、しゃべってしまったらしいよ。田舎者の冒険者風情が、お嬢様と馴れ馴れしく口をききやがって、と憎らしく思っていた事も」
「え?! こっ、コイゴコロっ!?」
「スミレのレディーは、自己評価が低すぎやしないか? 君はとても魅力的な女性で、婚約者がいると知っていてなお、君にほのかな恋情を抱く男は少なくないはずだ」
ちょぉっ?! アト様まで何をおっしゃいまするかっ!? あたしは、侯爵令嬢らしくない、平凡顔の平凡な娘ですよっ。ハンナもそう思……って、何でうんうん、頷いてんの!?
「全く、こんな絵を描いておきながら、育てる事をしないとは──馬鹿な男だな」
アト様、何かおっしゃいましたかっ? よく聞き取れなかったんですけど? 何だかよく分からないけれど、何だかメチャクチャ恥ずかしくて、1人であわあわしていると、
「そういう君も、可愛いらしく思うと同時に、憎らしく思ってしまうのだから──私も相当なのかも知れないな」
「は?!」
ナンデスト?! ちょ……顔が、顔が熱いわよ!?
今、ちょっと、アト様のお顔がまともに見られないわっっ。
今ならあたし、顔面でお湯を沸かせそうな気がするっ。
……………脳みそがキャパオーバーを訴えてきました……。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




