第1話
この作品を親愛なる地衣氏に捧げます。
―――とても寂しい場所だった。
なんの変哲もない田んぼ道だ。強いて変哲というものを挙げるなら、おそらく都会っ子たちが見たならば何も面白いものもなく、ただただ続くだけの道に驚くといったぐらいだろう。
何年も放置された木造の電柱は低く、風雨に晒されて渋みの出た表面は文明の香りを田舎道に調和させている。電線ではなく街路樹のようだ。勿論、この道には街路樹なんて洒落たものは生えていない。基本的に見晴らしはやたら良く、具体的には、つまるところ何もない。
冬には雪がつもり、夏には虫が騒ぎ出す。山々に挟まれた田んぼは今では機械で整備されるためか普段は人影も殆どない。もとより日も昇りきって、もう暫くすれば沈み始めてしまうだろうという頃。農家の皆さんのお仕事も、とうの昔に終わってしまっているのだ。
車が便利に使われるようになった現代だ。もっともっと便利な場所に家を移した人も多く、人通りも少ない。通り道としても殆ど使われなくなった田んぼ道を使うのは限られた人達だけだった。
その限られた人の中に入る、一人の少女の姿があった。
初夏とはいえ、山村は暑い。汗も噴き出る程に強い日差しの中を、流石に涼しげとまではいかないが、みっともない程ではない。普通の人なら、みっともないぐらいが当たり前だというのに。
少し古風ではあるがスタンダードな夏服、白いセーラー服が少し陰って来た太陽の光を反射して爽やかに光る。山々の隙間を通り過ぎて吹いてくる薫風が揺らすのは、光の加減で若草色に光る黒髪。年頃の女の子にしては珍しい、蛙と蛇を摸した髪飾りがやけに目を引く。
おそらく、十人いたら九人は類い希な美少女と呼ぶだろう、高校生ほどの少女だ。蛇足だが、弾かれた一人は確実にゲイである。
「‥‥まだ葉月にもなってないのに、今年は随分と暑いですね。早く帰ってエアコン付けてあげないと、御二柱が怒りそう」
鈴を転がすような声、というのだろうか。あまりにも人気のない道を登下校に使っているからか、彼女は独り言がクセになってしまっていた。誰に聞かせるわけでもないのに、だからこそ自然で愛らしくて、綺麗な声だった。
今時のスレた雰囲気が全く無い。純真無垢、というよりは天真爛漫。彼女が善良であるかどうは彼女を最も知る二人を以てしても頷けるかと問われれば微妙。しかし間違いなく善人ではあると太鼓判を押すことだろう。
人への親切の出し惜しみをせず、他人の苦境に敏感であり義侠心も十分以上。そも“人のためになること”が彼女がそう定めた、或いは定められた在り方ならば、少なくとも誰かから恨まれたり厭われたりすることは彼女自身の人柄も合わせて殆どないと言える。
だが若さ迸る、という意味ならば些かの間違いもありはしない。同年代の他人に比べても十分以上に情熱的なところのある彼女。一見すると物静かな高嶺の花だが、その実は一度突っ走り始めると転けるまで一切の原則が出来ない暴走超特急であり、学校でもそれなりのトラブルメーカーとして、遠巻きに生ぬるい目で見られていたりした。
無論それは彼女の耳に入ることはない。彼女に皆が気を遣っているから、という意味ではない。あまりにも自らに対する他人の視線というものに頓着しない彼女の性分が故である。本当は天真爛漫ではなくて、天然と言い換えた方がいいのかもしれない。
しかし周囲の悪い感情に左右されることなく、それでいて周りの人のためにと走り回る姿。その辺りも含めて彼女の奇特なキャラクターは友人達から愛されているのである。
「ごきげんよう、案山子さん。今日は特別、暑いですね」
普段の自由奔放な言動が目立つ彼女だから、返事なんてするはずのない道端の“彼”に話しかけたのも、いったいどんな理由があったからなのか。
“彼”は彼女が子どもの頃から、いや、きっとそのずっとずっと前から其処に立っていたのだろう。ものすごくボロボロで、ものすごく古くさくて。そして、ものすごく頼もしく立っていた。
基本的にはごくごく普通の案山子だった。ただ今時の案山子にありがちで、麦わら帽子に手ぬぐいと袢纏なんてありふれた格好ではなかった。
頭には古ぼけたシルクハットを被り、首に巻いているのも小洒落たハンケチーフ。そして誰の持ち物だったのか、纏っているのは時代遅れの派手なタキシード。もっとも其れらも雨風に晒されて酷く痛んでいる。
もちろん顔はのっぺらぼうだ。服や帽子はこの辺りの住民達が持ち寄ったものなのだが、流石に顔ばかりは修正が効かないこともあり、描くのは躊躇されたのだろう。その代わり顔を作っている布や中の藁は程々に取り替えてもらえていたらしく、そんなに痩せたようには見えない。
ごく普通の案山子と比べてみると明らかに洒落っ気があって、愛されていることがよく分かる。
オシャレさんなのに、案山子。どこかひょうきんな彼が早苗は決して嫌いではなかった。むしろ隙と言っても良い。
いや、そもそも案山子なんかをそんな感情を向ける先として論議している段階で、彼女が案山子のことをそれなり以上に気に入っていることは明らかなのである。
「あれ、ほつれが」
久々にじっくりと案山子を眺める早苗。
ふと、その首もとから糸が覗いているのが見えた。どうやら風に吹かれて煽られ、振られる首は相当に負担がかかる部分のようだ。全体的に痛みが激しいが、特に東からの風が吹くこの谷では、東風に煽られる右側の布が破け、糸がほつれてしまっていた。
このままでは遠からず首がもげてしまう。別段関係もない案山子だけれど、早苗は少しだけ気になった。
「‥‥黒い糸しかないんですけど、構いませんよね?」
びゅう、と吹いた風に揺られた頭が、こくんと頷いた気がした。
鞄から嗜みとしてしっかりと持っていたソーイングセットを取り出す。普段の言動からはかけ離れていると評されるほどに少女趣味な可愛らしいデザインのそれの中には、何故か黒い糸しか入っていなかった。
主に繕う対象がブラウスかブリーツスカートだから、ちょうど白が切れていたというなら別に不思議でもないわけわけで。しかし、もちろん白い糸はそんな目的のために使われたわけではない。あまり、ここで話すことに意味はないのだが。
しかしソーイングセットを取り出して少し困る。この案山子、かなり背が高い。具体的には早苗から頭三つ分ぐらいは高い。ほつれている首元も、とてもじゃないけれど背伸びしたぐらいでは届かない。気になって繕おうと考えたはいいが、これでは無理そうだ。
踏み台になりそうなものでも近くにあればいいのだが、中々見つからない。道沿いに立てられた案山子だ、軽トラックの荷台からでも普段は整備しているのだろう。その整備がどれぐらいの頻度なのかは知らないが、おそらく昔からこの辺りでお米を作っているおじいちゃんおばあちゃん達の仕事に違いない。
「‥‥むぅん、誰も見てませんよね?」
届かないならどうしようもない。けれど、一度やろうと決めたことを途中で投げ出すのは癪だった。多分、すごくどうでもいいことだろうけれど。出来ない、じゃあいいや、なんていうのはすごく後ろ向きな行動であるような気がした。
我ながら子どもっぽいとも思うけれど、こればかりは性分なのだから仕方がない。
ちらり、ちらりと辺りを伺う。
人通りは無いに等しい。この道の先はこの辺りでも大きな山で、ここで暮らしている若者は彼女だけだった。この道を少し戻れば民家も程々にあるのだが、少なくともこの先に、この時間に用事のある者など殆どいない。
おそらく暫くは大丈夫だろう。誰かに見られる心配はなさそうだ。
よし、と彼女は決心すると目を閉じた。
「東風谷早苗の神力に不可能はありません‥‥ッ!」
ふわり、と風が吹く。東からの優しい風が。
ゆっくりと彼女の、東風谷早苗の体が浮き始めた。最初は確かめるように。次第に大胆に。最後は同道と、まるで当たり前のように。
ソーイングセットから針と糸を取り出し、のんびりと案山子の首を繕い始める。飛ぶことには慣れているのか、ゆらゆらと頼りない感じはしない。宙に立っているようだ。安定している。
一度人目を気にするをやめてしまえば、もう気兼ねなく作業が出来る。空を飛ぶという非常識を行っていながら何ら構うこともなく、鼻歌すら歌いながら慣れた手つきで繕い仕事だ。
現在、天涯孤独に近い状態の彼女である。そう豊かな経済状況でもないので、基本的に色んなことを一人でやらなければいけない。裁縫仕事は特にお手の物だった。
「‥‥うん、このぐらいでいいかしら」
しかし案山子の首を繕う、というのは自分の巫女服を繕うのとは訳が違う。まず曲面だし、あんまり雑に繕っては直ぐにまた解れてしまうことだろう。
少し不格好になってはしまったが、これぐらいしっかりと縫えば再び裂けてしまうことはないとは思う。白い布の首の部分だけ黒い糸がやたらと目立つが仕方がない。むしろアクセントになったと思ってくれればいいのだが。
自らの成果に満足した早苗はゆっくりと地面に降りたって汗を拭った。風の加護で少々の涼を得ている早苗でも少し集中して作業をしたからか、ほんのりと頬は赤い。
仕事自体はそんなに時間はかからなかった。しかし夕暮れ時、太陽の光が陰るのは早い。特に山の間にある田んぼは山の陰が大きくなった分だけ暗く見える。
「そろそろ帰らないと御二柱に叱られちゃいます。案山子さん、首の様子がおかしかったら言って下さいね。解れぐらいなら、また繕いに来ますから」
風で乱れてしまったブリーツスカートの裾を直しながら、早苗は案山子に向かって語りかけた。
傍目には不思議少女にしか見えないが、本人いたって真面目である。真面目というか、天然である。つまるところ本物の不思議少女である。
「―――わざわざありがとう、お嬢さん。君はとても優しいね」
「‥‥はい?」
案山子相手にお喋りなんて恥ずかしい、と思った瞬間。
何処からか聞こえた、くぐもった声。はっきりと聞こえなくて、しっかり届く。一瞬、自分に話しかけられているのか分からなくなる曖昧な声がした。
キョロキョロと辺りを見回し、しかし誰の姿もない。聞こえるのは風の音だけ。
「ここですよ、お嬢さん。ワタシが分からないんです?」
「―――ッ?!」
びくり、と震えた肩の上。すらりと伸びた首に乗った頭がゆっくりと上を向く。
風にそよいで、服の裾がひらひらと。不思議と縫いつけられたわけでもないのに、転がり落ちることもない小洒落たシルクハットがゆらゆらと。
何も描かれていない、のっぺらぼう。さっきよりも、少しだけ俯いてこちらを見ているような‥‥?
「ありがとう、と申し上げたんですよお嬢さん。危うく首がもげてしまうところでした」
布で遮られたように、くぐもった声が発せられている。目の前の真っ白な顔から。こちらに話しかけているように。
俯いている。間違いなくさっきよりも俯いている。というか、こッちを見ている。
動いたとしか思えないのだ。いや、確実に動いているのだ。そんなことより喋ったのだ、確実に。
ただの案山子にしか見えないものが。
「―――か」
「‥‥か?」
「案山子が喋ったぁぁぁぁあああッ?!!!!!」
即刻反転、一目散にひとっ飛び。
非日常に慣れ親しんだ彼女も、普段から触れあう幻想以外は須く常識の範疇たる世界。彼女の日常を侵犯するものへの耐性は驚く程に低く。
人目も気にせず飛び去った風祝。
誰もいない田んぼに残ったのは飛翔によって舞い起こった東風と、谷から吹き下ろす南風。
そして呆然とたたずむ顔なしの案山子。
ただそれだけの、静かな夕暮れだけだった。