来客
オレはつややかに磨き上げたテーブルやチリひとつ落ちていない『アスカ』の応接室を眺め回して頷いた。
オレの自慢でもある『アスカ』の応接室は2階建の建物の2階部にある。だがその窓からはどんな晴れた日も光は差込まないという絶妙な角度だ。
壁際の棚においてある金箔を張り付けた安っぽい燭台の蝋燭に火をつけながらテーブルへ持ってきておき、それからあとは吊るしてあるランプに火をいれてしまう。
それなりに明るくなった室内をもう一度見回した。
燭台の明かりが磨きあげられたテーブルの重厚さをより引き立てているし、ランプのきらめきが幻想的な印象をあたえている。そのさまにオレは満足し、軽くお茶の準備をはじめる。
思ったより来るのが遅い。
店に来るのは2度目のはずだから道に迷うとも思えない。
それとも最近、頻繁に起こる地震のせいで遅れているのかとも思わなくないが、それはすぐに否定する。
地震など今更である。
「若様。お茶の支度などこの爺が致します。落ち着いてお待ちくださりませ」
純白のシャツにグレイの燕尾服姿をした小太りの老人がオレから茶器を取り上げ、椅子を薦める。白髪まじりの灰色の髪はふさふさとゆたかだ。
オレは彼の提案に頷こうとしてやめた。
なぜなら、扉の前にようやく依頼人がたどりついたからだ。もうじき、あのノッカーに手を伸ばすだろう。
「信天翁、お客人が来られた様だ。さあ、出迎えてやってはくれないかな。お茶はオレが淹れておくから」
信天翁は茶器とオレとドアを見比べて瞬時迷うようなそぶりを見せ、それでも客人のために扉を開けに部屋を出ていった。なぜか茶器を持ったまま。
オレは信天翁が落としていったと思われる白い羽根をそうっと拾い、壁際の棚に滑らせた。
軽いノック。
そして信天翁の声。オレはすでに椅子に座っている。ただし、いつでも立ち上がれる様に。
「若様、失礼いたします」
お客人がいる時に若様はないだろうと苦笑したくなるのを抑え、出来るだけ重苦しい声を出してみる。
「どうぞ」
入ってきたのはとても真面目そうな学者然とした青年だった。
でも、薄い茶色い髪は陽に焼けたせいでぱさぱさ。
顔や肌も陽に焼けたせいであろう少し赤い。
特に顔はそばかすだらけだ。
それでも力仕事には向きそうにない体つきと太い丸ぶち眼鏡が『学者』と自己主張している。
彼は薦められるままに椅子に座ると信天翁の差し出したお茶に思いっきりお辞儀をしながら受け取った。
彼はミゲルと名乗った。
「あの、実は、あなたが魔王『エダス』を倒したと聞きましたので、ぜひ! その経験談をお聞きしたいと思いまして。実は私は魔王の法則と言うものを専門として調べているのです。今までに世界にはそれはもう、数数え切れぬほどの魔王が出現しました。その全てが元からの魔物ではないのです。ではなぜ、魔王へとなる道を彼らが選んだか、私はそれを知りたいのです。もし、理由に共通性が見出せるのなら、その道を選ぶものを止めることもきっと出来るはずではありませんか! 私はそのさきがけになりたい」
ミゲルは興奮のままそう叫ぶとお茶を一気に飲み干した。
きっと少し冷めていたことだろう。
オレは肩で息をしているミゲルににっこり笑って見せた。
「経験談とはどのような?」
オレが言う横で信天翁がお茶のおかわりを静かに注ぐ。
おかわりは爽やかな香りのするお茶だ。
琥珀石のような蜜色の液体『笹飴茶』はオレの好物でもある。
あたたかなお茶を口元に運びながらミゲルの言葉を待つ。
彼が持ち出した内容はあまり面白い依頼ではない。その内容自体は面白い試みだと思えてもだ。
聞いたというのはきっとここがメリクのある大陸だからだろう。
魔王が潜んでいた迷宮はこの大陸の北方港であるメリクにあったのだから。
その懐かしきメリクの街は徒歩で10日、馬で6日ほどの距離だ。
しかも魔王の消滅のニュースというものは世間に蔓延するのは想像する速さよりもずっと早いものだった。
3日と経たずこの情報は大陸中に広がっていたと言うほどだから。
ミゲルはオレの言葉に非難を感じでもしたのか、心持ち慌てた仕草で手を振った。
「あ、あの、あなたの静かな生活を邪魔しようとか、そう言うわけじゃないのです。そう、ただ、経験談をお話しいただければ、と。思っているだけでして、はい。その、心ばかりですが謝礼も用意しております」
オレはゆっくり椅子にもたれ、ミゲルを観察した。
20代半ばの人間だ。自分の専門に没頭していて価値あるものを所有しているとも思えなければ、金離れは良すぎそうに見える。
なにしろ専門として調べているものがものだ。普通の者ならばからしいと言って一笑にふしてしまうに違いない。
それでも丸ぶち眼鏡のぶ厚いガラスのむこうに隠れた瞳はしっかりオレのことを観察している。
その判断を間違えることを罪と見なしそうな瞳がそのおっとりした真面目な専門ばかな情熱家と言う風貌を否定している。
タウフィ研修院の学者にはいまいち思えない。第一こんな商売している状況を普通『静かな生活』というものだろうか?
学者だと言うのなら相当異端だろう。それともこんなものなのだろうか?
今までは研究助手とか事務員とかが客の多くを占めていたせいで判断がいまいちつかない。
沈黙を守るオレを不審に思ったのか彼はそっと覗きこんできた。
「あの、アスカさん?」
オレは少し言葉を失った。
どうやらミゲルは『アスカ』と言うのがオレの名前であるととったらしかった。道理で名前を訊ねられなかったはずである。
名乗らなかったオレもオレだが。
オレは訂正するかどうか瞬時迷ったが、取り敢えずそのままにしておくことにした。
ここタウフィには個人(主に店主)の名を店名に活用する風習があったことと『勇者様』の名は一般に伝わっていないと言う状況がそうさせたのだろう。
「聞いていますよ。ただ、オレとしてはお話ししたいと思えることはないのです。メリクの街をお訪ね下さい。その方が話は聞けることでしょうから」
それは本当だ。あの街の住人達ならあることもないこともしゃべってくれることだろう。
ミゲルはそんな返答が面白くなかったらしく、ぱさぱさになった髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「そうおっしゃらずに……、どうか」
神経質気味にミゲルの指が小刻みに動いて膝を叩いている。
話を聞きたいと言うのなら相手の気分を急かすのはやめるべきだろう。
オレはミゲルのそんな仕草にちらりと目をやりながら3杯目ぐらいのお茶を口元に運んだ。
やっぱり薬効茶は『笹飴茶』に限る。
「申し訳ないのですが体験談をお話しすることはできません。
ですが、これは言えることなのですが、彼はやるせない劣等感から魔王になったのです。
劣等感と心にぽっかり開いた起源の記憶の欠如。それが彼を狂わせたのだと思います。
彼は自らが異界からの来訪者であるという記憶を無くしてしまって、自らの居場所を見出せなかった。
そう、自らが異端であり、同胞がいないという恐怖に彼は堪えられなかった。
細やかな理由はともかく魔王となるものはなんらかの欠如を感じているということは共通しているのではないのでしょうか?」
少し澄まして言ってみる。こんな風にしゃべるのは嫌いではない。
昔よりは人に解りやすく説明できる様になったと思う。昔は結構思った事をそのまま口に出してしまって支離滅裂で説明になどなってなかったものである。
多分、少しはましにしゃべれているとは思うが実は自信は皆無だ。
4杯目のお茶を信天翁が注ぐ。いい加減にしろと怒鳴りつけたいが客の手前それもできない。
ミゲルは眼鏡を軽くいじり、空を仰いでため息を洩らす。その仕草はいちいち大袈裟で実に芝居がかっている。
「諦めませんよ。でも今日はここで失礼いたします。また後日。お茶をごちそうさまでした」
ミゲルはそう言って椅子から立ち上がって手を差し出した。
オレもゆっくり椅子から立ち上がると彼の手を礼儀に則って取った。
「今日は実に有意義な一日でした。機会があればまたお寄り下さい」
暗に来るなと言う意味を込めてにっこりと挨拶の言葉をオレも口にした。
オレの手を握るミゲルの力がやけに強かった気もするが、まぁ気にするほどではないだろう。
彼が出ていった後、信天翁が口にした言葉に首を横に振るだけの理性は幸いにして残っていたことだし。
「若様、塩でも撒いときましょうか?」
何の冗談だと思って信天翁の表情を見ると実に真剣そのものだった。
オレは込み上げてくる笑いを必死に堪え、首を横に振る。
「塩がもったいない。やめとけ」
内陸地であるこのタウフィでの塩の値段を考えながら、オレはやっぱりもったいないと思った。
ランプの光の先に闇が見える。
ほの暗い過去。
忘れてしまう事の出来ない過去。
『親殺し』と姉になじられた事。事実でも姉に言われた事が辛かった。
初めての友人。初めての父親との出会い。
初めて尽くしでどうすればいいのかなんて理解できなかった頃。知ることは出来ても理解する事はできなかった。
まだ傷は新しすぎて言葉にしたいとはとうてい思えない出来事。
信天翁が甘く淹れた『笹飴茶』をオレの前に差し出してくれる。
その横に塩で練った麦菓子と薄く切ったピンクレーズンチーズが添えて有る。
ピンク色のチーズを麦菓子の上に乗せ、口元に運ぶ。
初めての友人、ビノール。小さな種である彼との出会い。
それは初めて外の空気にその身を晒したその日に出会った初めて見る動く生き物。
何もない静寂の空気を破って訪れた初めての来訪者。
あの日は本当に初めて尽くしの初めての日。
初めて感じる不愉快感、初めて感じた楽しさに驚き。初めて寄せられた同情と友情、好意とお説教。
思い出せば自然と笑顔になる。
大好きなモグラ族の魔法使い。
彼は得難い喜びを教えてくれた大事なオレの友人。
見守ってくれた。父を、魔王を切り裂き殺した後の虚ろな気分でいたオレを理解してくれた。
オレ自身よりもよっぽど。
「ああ、オレは二度も父を殺した。父から幸福である事を奪った。二度も」
水滴が頬をつたう。
父は魔王となってでもオレに会いたいと望んでくれていたのに。オレを抱きしめたいと望んでくれていたのに。
そんな父をオレ自身がその手で殺めたのだ。
いくらそうしなければ死んでいたのがオレ自身だったといってもその事実は変わらない。
オレは体験談を話すべきだったのだろうか?
確かに請けるつもりだった依頼だが、ミゲルを帰してしまった事を後悔はしていない。
まだ話すほどには気持ちの整理は付いていないのだから。今でも、あの時のことを思えば動転し、混乱してしまう程度には。
小さな音がして『笹飴茶』のおかわりが注がれる。
信天翁だ。
信天翁は心配そうな眼差しでオレの事を黙って見ている。
かなりの事情を信天翁は知っている。だから『塩でも……』などと言い出してもくれたのだ。
軽く笑って見せ、オレはお茶をくいっと一気に飲み干した。
「心配させたか? すまなかった。ありがとう」
信天翁はふさふさとした眉をぴくんと跳ね上げ、一礼し、蝶ネクタイをきゅっと意味なく正した。
立ち上がり、部屋に戻ろうかと思った時、玄関のノッカーの音がした。
信天翁が玄関の方とオレとを見比べ、もの問いたげな表情を作った。
オレは座り直して、信天翁に笑いかけた。
「お通ししてくれ。家賃ぐらい稼ぎ出さないとな」
信天翁はゆたかな眉毛を軽く不快げに跳ね上げると黙って出ていった。
信天翁はオレが毎月の金を払ってまでこの部屋を借りている事を好ましくは思っていない。
同じ金を使うのなら買い取ればいいという内容の事をいつも言っているくらいだ。
オレはそれでは風情と言うものがないと思っている。
でなければ何のためにこんな裏筋に店舗を借りているのかわからないと言うものだ。
一般に暮らす人々の様に間借りして、その雰囲気を知ることはちょっといい感じ。
人の街は人の生きる息吹で活気に満ち、それでいてほっとさせられる何かがあるのだ。どんな街にでも。
オレは室内を見回し、立ち上がった。照明を少し変えよう。
ランプにオイルを足し、部屋の中をもう少し明るくしておく。
棚からオイルランプ用のガラス玉をひとつ取り出して青い色の付いたオイルを放り込み、テーブルの燭台と交換する。
次の来客を待つ準備はこれで出来た。