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護国の鬼  作者: 水沢佑
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五章 衝突

 皇国の敗戦を公言し、「その後」を議論する。

 民間人がそのようなところを見つかれば直ちに特高警察に拘引され、拷問のうえ大抵は「社会主義者」などのいわれもない名を冠せられて「獄中で病死」という形で処刑される。

 軍人であればさすがにそんなことはないが、それでも降格のうえ閑職に左遷、ないしは「戦死」や「事故死」ということは十分にありえた。

 初めから覚悟のうえであった高原や斉藤はともかく、二人に乗せられた他の隊員たちは最悪の展開を予想して蒼ざめた。特に激昂して叫んだ一人は唇をわななかせ、立つこともおぼつかない様子だ。

 「長官、申し上げます。先ほどまでの隊員の発言はすべて小官の恣意によるものであり、責任は全て……」

 言いさした高原を、宇垣は笑いながら手を振って止めた。

 「なに、心配せずとも諸君らの罪を問おうなどと考えておるわけではない。私はただこいつを差し入れに来ただけだ」

 そういって小脇に挟んでいた日本の酒瓶を樫の机に置いた。

 「は、はあ……どうも」

 軍の幹部は大体あだ名を持っている。暇をもてあました部下たちが好き勝手に考え出すためだ。宇垣の場合は「黄金仮面」。何事にも動じないその冷徹な性格を揶揄してつけられたものであり、高原が似たようなあだ名を持つのも似たような理由からで、ただ黄金でなく「鉄仮面」であるのは、さすがに中将と比べ貫禄が足りないということだけらしい。

 その高原にしてからが気の抜けた返事を返すことが精一杯だったのだから、他の者は唖然として、座れと示す宇垣の手に反射的に敬礼を解いて雑然と座り込んだ。


 「まあそう固くなるな、無礼講だろう。ほれ、まず一杯」

 「はあ……いただきます」

 宇垣自ら隊員の湯呑みに注いで回る。恐縮しながら一口飲んだ下士官が、思わず感嘆の声を上げた。

 「……うまい。こんないい酒を?」

 さすがに一等酒ではないが、これに比べたら先ほどまで飲んでいた戦時中の粗造酒など泥水のように見える。この時期にこれほどの銘酒を手に入れるのは至難の業であろう。


 「それは良かった。こいつはな、軍令部の大西瀧次郎が送ってきたものだ」

 「あ、あの大西瀧次郎中将閣下が我々にでありますか!?」

 まったく、人生に驚きの種は尽きないらしい。宇垣といい大西といい、彼らにとっては訓令のとき顔を見る程度の雲上人である。その一方が目の前で親しく一搭乗員に話しかけ、他方が自分たちのために酒を贈ってくるなど昨日までは想像もつかなかった事態だ。


 「うむ。やつは酒を飲むのも好きだがそれ以上に集めるのが好きでな、自宅に酒蔵を持っていたほどだ。そのなかから特攻隊の出撃のたびに隊員に銘酒を選んでおくってくる。やつなりの誠意だろうな」

 大西瀧次郎中将といえば戦前は航空派の最強硬派の一人であり、今では特攻戦術の生みの親として名高い。


 昭和十九年十月のフィリピン攻防戦の際にフィリピン群島の防空を担当する第一航空艦隊の司令長官であった彼は、水上部隊のレイテ湾突入の前に、壊滅状態であった航空戦力を有効に使用するため零戦に特殊爆装を施し敵艦に突入する戦法を考案した。


 実際のところ体当たり攻撃そのものはそれほど独創的なものではなく、被弾や燃料切れなどのやむを得ざる理由により自発的に敵の軍艦や施設に自爆攻撃をかけた例は日本軍に限らず多々あり、組織的な特攻にしても考えていたのは大西だけではない。


 だが、実際に高級指揮官が特攻を立案し、部隊を組織し実行したのは大西中将が最初であり、彼はそのことを忘れてはいなかった。来たるべき刻が来れば相応の形で責任を取るつもりであり、特攻隊に秘蔵の銘酒を贈るのもその一つの形である。



 全員に酒を注ぎ終わった宇垣は床にどっかと座り込んだ。

 「さて、諸君。高邁な意見を聞かせてもらった。軍令部でこれほどの建設的な議論が交わされたならばな……まあいい。この際だ、私も胸襟を開いて話をしよう。訊きたいことがあるならば腹蔵なく答えよう。多少軍機に触れようがかまわん」


 銘酒によって少しばかり喧騒を取り戻した小屋の中はたちまち静まり返った。

 宇垣の発言を正直に取れば、先ほどの過激な口論を咎めるどころか自ら参加しようというのだ。何かの罠ではないかと疑い、ためらうのも無理はない。

 だが、明日にはいなくなる隊員たちとは違い宇垣は軍の中枢を担う幹部であり、軍事機密を明かして危険になるのは彼のほうである。それに、すでに立ち聞きした内容で罪状としては充分なのであり、わざわざ罠など張る必要はないはずだ。それでもしばらく躊躇したあと、丸顔の少年がおずおずと口を開いた。

 「あの……高原中尉が言っていた、ソ連が参戦するというのは本当でありますか……?」

 「残念ながら、ほぼ確実だ。陸軍からの情報によれば、ソ連はウラジオストック、チタなどシベリア各地に兵力を集結させつつあるようだ。その数は百万を下らないという」

「ひゃ、百万!?」

 想像を大きく超える数字に、思わず息を呑んだ。日露戦争のときのロシア軍は一つの戦場に四十万以上の兵力を集結させることはなかった。日本軍はさらに少なく、二十数万が限度であった。それを遥かに超える兵力が集結しているというのだ。

 この時期、日本陸軍は本土決戦に備えて三百万人の動員計画を立てている。しかし、それは文字通り「動けるものは根こそぎ使う」日本の国力を総ざらえにした最終決戦用の兵力であり、訓練など施しようもないため、ゲリラ戦や地雷を抱えての特攻ならともかく正面から会敵すれば数字ほどの戦力は発揮できない。

 それにひきかえ、ソ連軍はみな優勢なドイツ軍と互角に戦い抜いた精鋭であり、特に戦車集団の戦力はあのドイツ機甲師団にもひけをとらない。南方に戦力の大半を引き抜かれている関東軍では勝負にすらならないだろう。


 広大な満州の大地がソ連戦車の轍に覆われていく様子を想像して、彼らは身を慄かせた。


 「ペトロパブロフスクなどの海軍根拠地にも相当の数が集まっている。おそらく南樺太と千島を席巻し、あわよくば北海道、本州をうかがおうというのだろう。これをとめるだけの戦力は、わが軍にはない」

 「し、しかし、わが日本とソ連の間には不可侵条約が結ばれております。一方的に条約を破ることはソ連の国際的な信用を失うことにつながるのでは……」


 声を震わせながらの少年の必死の反論だったが、宇垣は一息のうちに粉砕した。

 「ソ連自身、独ソ不可侵条約を一方的に破棄されておる。第一、条約の不履行はロシアの十八番ではないか。負けた後に万言をつくして抗議したところで一笑に付されて終わりだ」

 俯いて沈黙した少年に代わり、精悍そうな青年士官が声を出した。悲痛な響きがあった。

 「では……我々はなぜ戦っているのですか?なぜ明日死なねばならないのですか?負ける戦とわかって……なぜですか!」

 彼は俯いている少年を指さして叫んだ。

 「こいつの両親は、満州の新京で医者をやってるんです!ソ連軍が侵攻すれば、間違いなく巻き込まれるんですよ!今戦争を終わらせれば満州の数百万の日本人は助かるんですよ!つまらない意地とやらで彼らを見殺しにするんですか!?」


 宇垣は腕を組んで青年を見据えたまま答えない。数瞬、睨み合いが続いた。

 「……国家というものは勝手なものだな。大を救うために小を切ることをいとわぬ。本来、国家権力は力を持たぬ少数を守るために存在するはずなのだが……」

 聞こえるか聞こえないかの小さくため息をつくと、薄暗い部屋を見回す。顔を強張らせているもの、悲壮感に涙を流しているもの、さまざまな表情があった。

 「事ここに到り、事態収拾の手段として無条件降伏以外にないというのは中央でも一致した意見となっている。国体護持の妥協、軍の解体もやむを得ず、とようやく覚悟を決めたわけだ」

 一瞬のうちに、驚愕の念が隊員たちを覆った。


 「だが、無条件降伏ということは、米軍がいかなる傍若無人の振る舞いをしようが、それを止めうるものはいない。先ほど斉藤少尉らが言っていたように、やつらは日本という存在を抹消しようと画策するかもしれぬ。それを止めるものは何か、『強行すれば相応の犠牲を払わせる』という国民の覚悟ではないか。その覚悟の表現の一つが特攻である、と私は考えている。一億玉砕ではなく、一億国民の未来への先駆けとして、諸君らには出撃してもらいたい」


 周囲は寂として物音ひとつしない。宇垣の弁舌に納得した者はいなかった。反論、罵倒、葛藤、山ほどある複雑すぎる心情を心の中に無理やり押し込み、それを敵艦にぶつけようと必死に押さえ込んでいた。

 誰かが音頭を取り、部屋が再び騒がしい酒宴の場と化すまで時間が必要だった。


 高原と斉藤は再び満天の星空の下にいた。雲ひとつない空に雨の予感はまったくない。彼らの少なくとも一方は、星の下で酒豪を発揮することも、灼熱の太陽の木陰で昼寝することもないだろう。

 「高原、さっきの長官の言葉……どう思った?お前の意見を聞いてみたい」

 高原はためらいの色もなく言った。

 「中将も結局は軍人だ。俺と意見が違って当然だ。そして、おそらく中将は正しい」

 だが、組織として正しいことは往々にして個人のささやかな幸福を奪うのだ。と、口に出すことはなかった。


 そして、最期の刻が近づく。

まず、更新が遅れたことをお詫びします。

この章は私がもっとも述べたいことを詰めこむはずだった箇所です。そのため大いに悩み、結局あまり表現できませんでした。作者の未熟で高原くんや宇垣中将にはたいへん迷惑をかけてしまいました。

なお、繰り返しますがこの小説は事実をもとにしたフィクションであり、大西瀧次郎が酒好きで特攻隊員に酒を贈っていたたというのは創作です。

※補足 作中に登場した新京は満州帝国の首都であった都市で、現在の吉林省の省都の長春です。

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