四章 酒宴
七月二十八日午前七時十四分、鹿屋基地より偵察のため発進した一式陸上攻撃機が鹿屋基地の南東200海里の海域に空母4、戦艦2などからなる米機動部隊を発見。直後に通信途絶。
同午前十時十分、鹿児島市街地および国分基地に艦載機160機来襲。
同午後二時三十分、第五航空艦隊司令部より明日黎明を期して攻撃命令発令、第六神風特別攻撃隊および五○三空に対し作戦待機命令。
夜。鹿屋飛行場の裏手に並ぶ、バラックの一つは奇妙な陽気に包まれていた。薄暗い部屋の中では、数本の酒瓶を囲んで六十人ほどの男が飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをやっている。その片隅で飲んでいた斉藤の隣に、酒瓶を抱えてどっかと座った男がいる。高原だった。
「聞いたぞ、お前が戦果確認機だって?」
「……ああ」
「それなら安心だな。誰にも知られることなく死ぬのはできればごめんこうむりたいからな。俺の最期、しっかりと見届けろよ」
明るく笑う高原の顔には一片の悲壮感もなく、普通に見えた。日常の彼以上に。
「高原、ちょっといいか?」
「どうした?」
「……お前、本当にそれでいいのか?」
高原は答えなかった。代わりに酒の入った素焼きの湯呑みを置き、斉藤の眼を見据えた。
斉藤の知っている高原はいつも言葉少なで、笑うことも少なかった。
大戦果を告げる大本営発表に沸く将兵の中でも頬を緩めることすらなかったし、長年助け合ってきた戦友の死を伝え聞いても眉ひとつ動かさなかった。
感情がなかったのではない。死に対して敏感すぎるがために、あふれる激情を無理にでも心の裡に押し隠し、無表情を装ったまま敵機を撃墜してきた。
去年の台湾沖航空戦、万に一つも生還は期せない絶望的な出撃にあってもその仮面は剥がれなかった。無表情のまま離陸し、そして着陸したときも無表情だった。負傷した右の脇腹をおさえながら乗機から飛び降り、同じく無事に帰投した斉藤に向かって「やっちまった」と苦しそうに片目をつぶって笑いかけた、その一瞬だけ彼の鉄仮面が取れたのかもしれない。その、死と殺人の恐怖に満ちた素顔。それを知るおそらく唯一の人間である斉藤には、今の仮面は見るにたえなかった。
「お前、確か恋人がいたよな。ええっと……沙織さんだったっけ」
「ああ。お前の所は母親と妹さんがいたんだよな」
「いや……二人とも七日の空襲で死んだらしい」
「……それは、悪いことを聞いたな」
「そんなことはどうでもいい。お前には沙織さんが居るんだろうが。彼女を残していくのか?」
「仕方がないだろう。まさか一緒に行くわけにもいかんしな」
斉藤はどうにも腹の探りあいというのが苦手だった。特に高原に対してはつい直情的になってしまう。もっともその単純な、純粋な感情表現が高原にとっては快くも感じられるのだ。一見相反する性格の持ち主である二人が類まれなる僚友であるのは、空戦の相性だけによるものではない。
「わざわざ五○三空から緊急に異動を発令し、中尉に昇進のうえ飛行隊長に抜擢。普通じゃあない人事の裏は気づいてるだろう、お前も」
「そりゃあな。あえて中央の方針に異論を唱えていたんだ、煙たがれるのはむしろ誇りとするところだ」
「ふん……日本の将来を憂うと言いながら上から命令されれば唯々諾々として従う、気様の信念など緒戦はその程度のことだったか。底が見えたな」
高原は無言で立ち上がった。斉藤を見下ろす眼には鋭い眼光が宿っている。斉藤の挑発はどうやら臥龍の逆鱗に触れることに成功したようだった。
「では聞くが、日本は戦争を続けて勝てると思うのか?」
周りで聞き耳をたてていた数人が息を呑んだ。この時期、この場でこの相手に向けて放つには危険すぎる問いだった。あいにく斉藤は「全将兵一致団結して敵に当たれば我が大日本帝国軍の勝利は疑いなく……」などという通り一遍の一般論でお茶を濁すような人間ではない。
「この際勝ち負けなど問題じゃない。だが、この状況で無条件降伏なんてしてみろ、日本は滅ぶぞ」
先の大戦で敗れたドイツが連合国にどのような仕打ちを受けたか。その惨状を聞き知るものには日本が無条件降伏するなど考えられなかった。
「ではここから劣勢を一気に覆すことができるのか?」
「元に戻すことはできなくとも、敵の戦力が途切れるまで粘ることができれば講和に持ち込むことができるだろう。違うか?」
「無理だな」
高原のそっけない口調に、わずかながら熱がこもってきたようにもみえる。
「出すにことかいて練習機の赤トンボまで特攻に駆り出している我が軍のどこから戦力を持ってくるんだ?打ち出の小槌を振れば何百機もの零戦が湧いてくるわけではないぞ」
「……確かに押し返すだけの戦力はないさ。だが、現在の状況で降伏するなど危険すぎる!」
「そういってマリアナ戦から現在に至るまで講和の努力を怠ってきたからこそ内地まで追い詰められたのだろう。講和の時期を一ヶ月遅らせた所で戦況は変わらん。一年後には日本という国家が世界地図から消滅しているかもしれないのだぞ!」
周囲の人間が雷に撃たれたように動きを止めた。高原はついに禁忌の箱を開けた。上官や憲兵に聞きとがめられれば譴責どころの騒ぎではない。だが高原に止めるつもりはもはやなかった。
「いまや敗戦は免れない。問題はその後だ。焦土と化した日本を復興するのは誰だ?少壮の若者や次代を担う子供たちをこれ以上殺してどうするんだ!」
「その前に日本がアメリカに占領されちまったら復興もくそもねえぞ!」
「これ以上戦争を長引かせればソ連も出てくる!日本列島が列強の草刈り場と化す前にどんな形でもいい、早く終戦に持ち込んで百年の計をはかるべきだ!」
いつの間にか部屋の中にいたほぼ全員が高原に詰め寄っていた。彼らも必死だった。高原の言い分は理に拠れば正論ではあるが、それを認めることはできない。彼らは明日死ぬ。高原の主張を認めれば、自分たちが死ぬべき理由がなくなるのだ。一人がたまりかねたように声を上げた。
「だとしても、だとしてもだ!アメリカに好き勝手をやらせたら、日本民族がなくなるかもしれないんだぞ!ユダヤ人のように、恥も外聞もなく世界中をさまよわせることになるかもしれないんだぞ!」
「ユダヤの民族は二千年間世界を放浪し、なお民族たりえている。恥や外聞なんてものはあとからついてくるもんだ。一億玉砕なんてやってみろ、五十年後には日本という国があったことなど忘れ去られるぞ!」
それに対して別の男が反論しようとした、そのとき。
「邪魔するぞ」
入り口にかけられていた筵が揺れ、作業服姿の男が入ってきた。その顔を見た一人が悲鳴に近い声を上げ、それを聞いた全員が声もなく立ちすくんだ。誰もが見覚えのある顔。そして今もっとも見たくない顔であった。
「う、宇垣司令長官……」
出撃のたびお立ち台の上で声を張り上げている人物。第五航空艦隊司令長官、宇垣 纏中将だった。
ただでさえ余人に聞かせるには危険すぎる議論、よりによって相手は南九州に展開する全航空部隊の長であった。ほとんど本能的に敬礼し、直立不動の体勢をとる彼らに、宇垣はにやりと笑いかけた。
「諸君らの心のうち、聞かせてもらった」
部屋の空気が凍りついた。
かなり遅くなりましたが、ようやく四章です。
「酒の席での口論」ですので、議論としてはまとまっていませんが、だんだんと盛り上がったところでよりによって艦隊司令官の登場、さあこのあとどうなる……
そろそろクライマックスに入っていきます。気長にお読みください。