十章 敗戦、そして
白い天井の下で斉藤が目を覚ましたとき、すでに暦は8月に移っていた。
7月29日の海戦は「志布志沖海戦」と名付けられ、ただちに軍艦マーチに乗せてラジオ波に流された。
「戦果、空母中型二、戦艦一撃沈、空母大型一、駆逐艦二大破大炎上。損害、航空機68機喪失……」
当事者から見れば呆れるような誇張された発表に、斉藤は最初こそ憤激したが、その熱はたちまちさめてしまった。大本営広報部の過大発表は今に始まったことではなかったし、そもそも程度の差こそあれ、戦況の誇張や隠匿などどこの軍でもやっていることだ。
実際は、出撃四百余人のうち基地に帰還したのは斉藤ただ一人。もう1名、不時着水した地点を偶然航行していた潜水艦に救助されたことが確認されたが、それだけだった。
3日、斉藤へ中尉への辞令が出されるとともに、戦力の大半を失った五○三空に大分基地への転進が発令された。
いざ本土決戦の機運が高まる中、負傷の療養のため無為徒食の身に甘んじていた斉藤の目の前で、時は早く流れ去っていった。
6日、広島に新型爆弾投下。呉より連絡のため飛来した将校によれば、たった一発で広島の市街地は壊滅し、死者も十万はくだらないだろうと言う。
9日、満州、千島、南樺太にソ連軍侵攻。紙のように引き伸ばされていた防衛線は数十キロにわたって切り裂かれ、すでに前線との連絡もままならず。
同日、長崎に再び新型爆弾投下。
そして。
『朕思フニ、世界ノ大勢ト……』
性能の悪いラジオは雑音ばかりを拾い、やたらと難解な文語文とあいまって意味を取れたものは皆無だったが、ほとんどの隊員はその大意をつかんだようだった。
「負けたのか……?」
放送が終了したとたん、基地中が喧騒に包まれた。
放送のとおりであるとすれば、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことになる。
だが、無条件降伏とはあまりに非現実的であった。これは玉音ではなく、たとえばクーデターが発生し、東京を制圧した叛乱軍が流したものではないか。そのような疑惑が、彼らの胸中にわだかまった。
なにしろ九州は東京から遠く離れている。中央でなにかあったとしても、情勢などは一切わからない。
なにかあっていてくれ、降伏など嘘だ。むしろ希望的なその予測を否定する材料はなく、議論は永遠に続くかと思われた。
半ば放心しながらも、斉藤はこの放送を本物と信じている。
高原らの出撃前夜、宇垣中将は1ヶ月以内の降伏を予言していた。その予言は当然あてずっぽうなどではなく、中将の人脈を活かし、得た情報が根拠のはずである。
だとすれば、中央の降伏受諾派があえて叛乱を起こす必然性はない。玉音の真贋などは別として、降伏の情報は正しいだろうと、斉藤は見抜いていた。
「総員、傾注!」
突然、号令が響いた。
喧々諤々の議論を交わしていた将兵もたちまち統制を取り戻す。衝撃を受け失いかけた、軍人としての本能が蘇ったようだった。
「頭ぁ、中! 司令長官に対し、敬礼!」
一糸乱れぬ敬礼の前を宇垣中将は悠然と歩み、居並ぶ将兵を見渡すと、おもむろに口を開いた。
「先刻の玉音放送であるが、これは一部造反者の策謀などではない。昨14日を持って、米英支ポツダム宣言受諾の詔勅発布せられたること、大本営及び海軍総隊司令部に確認済みである」
発せられた声は大きくはなかったが、その声は雷鳴よりも明瞭に基地将兵の心を撃った。
この瞬間、全ての希望は絶ち切られた。
「これに伴い、我々は帝国陸海軍最後の特攻に出撃する」
完全に静まり返った飛行場を、宇垣の声が再び響き渡る。
「指揮は私が自らとる。出撃者は有志、ただし妻帯者及び長男は参加を禁ずる。希望者は1時間後に指揮所前に集合せよ。それ以外のものは先任者の指示に従い、武装解除を実施すべし」
周囲が思わずざわめく。それを視線の一なめで抑えると、宇垣は語をついだ。
「この際、軽挙妄動は禁物である。いやしくも帝海軍人ならば、陛下の御命に背くべからず。謹んで武装解除を実施、小官らをもって最後の戦死者とせよ。
連合軍がいかなる処置をとるとしても、日本から未来を奪い取ることはできない。
子孫にわれわれの精神を受け継がせよ。諸君らが海軍の伝統をけがす行動をとらぬことを願う」
宇垣の発言には明らかに矛盾があったが、それを指摘するものはいなかった。宇垣の目は澄んでおり、すでに死を受け入れたその瞳は全ての反論を拒絶していた。
斉藤は悟った。宇垣がなぜあえて勅命に逆らい、あたら命をすてるのか。
彼がもっとも恐れているのは、全軍が混乱状態から抜け出せぬまま無秩序に米軍へ攻撃してしまうことなのだ。
米軍はそれを理由に更なる殲滅作戦をかけてくる。日本は混沌の中で死者を積み重ね、敗戦後、日本を日本たらしめる原動力を失うかもしれぬ。
それを避けるため、「最後の特攻」を全軍環視の中で行い、もって総軍の「けじめ」とし、「区切り」とせんとしているのだと。
「敬礼ーっ!」
泣き出すものもいた。呆然と、ただ手を挙げただけのものもいた。同じ軍隊とは思えぬほど、その敬礼はばらばらだった。
それをとがめるべき立場にいる宇垣は、しかし何も言わなかった。ただその「黄金仮面」をもって将兵たちを見渡すのみだった。
1時間後。
飛行場に引き出された彗星艦爆のエンジンがかけられた。
11基の「金星」エンジンが轟音をとどろかせる。
訓示の直後、参謀長の横井少将ら幹部は宇垣のもとに押しかけ、出撃を思いとどまるよう説得した。
酒井大佐などは「代わりに自分が」と進言し、決死の形相で翻意を迫ったが、「君では貫禄が足りん」と、一言のうちに撥ねつけられてしまった。
戦争の「けじめ」とするからには、日本軍全員に相当の心理的印象を与えなければならない。総軍粛然として襟を正す、それほどの衝撃が必要なのだ。
一大佐の特攻など、一時世間を騒がすことがあっても、敗戦の混乱の中で埋もれるのがせいぜいだ。高官、たとえば最前線の最高司令官の「戦死」と引き換えに、初めて全軍の秩序は取り戻されるだろう。一言の裏に、宇垣はそう言っているのだ。
彼らをあしらいながら、宇垣は関係書類を整え、部署に指示を出し、名乗り出た21名の隊員に訓示を行い、彗星の後部座席に乗り込んだ。
「帽振れー!」
宇垣中将の搭乗する一番機が動き出すと同時に、飛行場脇に整列した将兵は一斉に帽子を取り、力の限り振った。
風防を開け、敬礼する宇垣。その視線が一瞬、斉藤を捉えたような気がした。
後を頼んだぞ。
一瞬の交感は、あるいは斉藤の思い込みか。
日本人八千万の、皇軍三百万将兵の、大分航空隊の、そして斉藤の想いを持ち去るかのように、彗星艦爆は高々と飛翔した。
四年間の激闘のあとには、ただ巨大な入道雲が浮いているのみだった。
高原と斉藤の闘いの物語は、これで完結となります。
数度にわたり完結を遅延しながら、見捨てず見守ってくださった方々、本当にありがとうございました。
なお、物語はここで一度区切りとなりますが、生き残った斉藤の前には長い人生が待ち受けています。近々、終章を書くつもりですので、今しばらくお待ちください。
ここまでお読みいただいた皆様、改めてありがとうございました。