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護国の鬼  作者: 水沢佑
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九章 背走〜志布志沖海戦・後編〜

 今さら涙など流さなかった。

 斉藤の感情が麻痺したのではない。だが、戦死した隊員たちの親兄弟、妻子や恋人たちの悲嘆の念を思えば、自らの心痛などいかほどのものがあろうか。

 永遠に帰らぬ者の帰りを待つ人々に、せめて最期の様子を知らせたい。曖昧な推測などではなく、自分の目で確認した、生きた情報を。

 たったそれだけ。その想いだけが、今にも決壊しそうな心の堤防を支えていたのだ。




 攻撃隊に続いて、零戦隊にも終わりが訪れようとしていた。

 烈火のごとき魔女の襲撃を攻撃終了まで見事に支えきった彼らだが、その代償は大きかった。

 後ろに鈍重な攻撃機をかばっての空中戦はかなり難しい。目の前の敵を何十機と落としても、攻撃機が撃墜されてしまっては意味がないからだ。自然、味方機は分散を余儀なくされ、ただでさえ開いている戦力差がさらに広がってしまう。

 しかも、百機を数えた直衛隊の搭乗員はその八割がたは熟練未満で、そのうち約半数は今日初めて実戦のための飛行を体験したのだ。

 篠原中尉の視界にいる零戦は、自機も含めわずかに6機。離れた箇所で孤軍奮闘するものも数名いるが、戦術集団としては全滅と言っていい。逆に言えば、この時点で生き残っている搭乗員はそれだけで自らの技量の証明になるだろう。

 自身も十数分の空戦で燃料の八分の一と弾薬の半分を消費し、敵の銃弾を主翼と胴体に一発ずつ受けている。意外に損害が少ないのは、篠原自身の技量と、後方をつかず離れず守っていた樋口二飛曹の援護が巧妙だったためだ。


 今しがた機動部隊上空を離れ、横に並んだ斉藤に、篠原は手信号を使って問いかけた。

 『斉藤少尉! 無事か?』

 『は、なんとか』

 いまだ傷のない、流麗な紫電改の機体を横目で見て、篠原は軽く笑った。

 『それは重畳。よし、このまま敵中を突っ切るぞ。11時方向に緩降下しつつ全速力で突撃。いいな!』

 『了解。援護頼みます』

 斉藤は軽く頷くと、ずいと前に出る。それを確認し、篠原もスロットルを押し込んだ。わずかに遅れて樋口機も続く。そのさらに後方から、2機の零戦が背後を護るように追従した。


 四方から火線が集中し始めた。散開していた魔女たちが、篠原隊めがけて殺到し、周辺空域の密度は一気に上がる。

 一方向を向いた集団行動、それは脱出作戦以外の何者でもない。米軍も、戦力を総動員してこれを叩きにかかっている。ジャップによって殺された僚友の仇を一人たりとも逃しはしない。米軍もまた、必死だった。



 高密度の空間を火線が交錯し、ときおり緋色の触手のように機体に絡み付いては海面へ叩きつける。濃緑とネイビー・ブルーの塗料で縁取られていた青い空が煙の黒と炎の赤で彩られ、極彩色の地獄絵図へと塗り替えていく。


 周辺で孤軍奮闘していた零戦も、斉藤らの脱出援護のため篠原隊に殺到する魔女の後背を撃ち、さらにその零戦と死闘を繰り広げていた米機が彼らを追って戦域になだれ込むにいたり、いささか奇怪な現象が起きた。

 進みつつ暴れまわる篠原隊と彼らを包囲しつつ圧殺しようとする米軍戦闘機隊、その外周部に喰らいつく零戦、その零戦の後背から押し込めて殲滅しようとする魔女たち。

 限定された空域の中でそれぞれの思惑が衝突し、絡み合い、渾然一体となって濃縮され、濃縮されすぎて、彼らの意図せぬ混乱を引き起こした。あまりの過密状態のために、なんと空中で交通渋滞が発生してしまったのだ。


 時速400キロ以上で飛行する航空機が一点めがけて殺到すればどうなるか。

 いちいち停止できる自動車とは次元が違うのだ。車ならクラクションを鳴らして不平不満を並べ立て、渋滞が解消するのを待てばいいが、戦闘機ではそんな悠長なことは言っていられない。接近すれば僚機を回避するのが一秒遅れれば、その分天国の門が近づくのである。

 悲鳴を含んだ無線通信が空中を埋め尽くす。必死の回避も空しく、友軍機との接吻を強要され墜落していく者が続出した。

 もはや零戦を追い回すどころではない。とりあえず味方から逃げるので精一杯だ。

 だが、数の多さがあだになった。数十機なら一気に散開もできようが、百機単位の大群の中では動けば動くほど混乱が伝播していく。そこに内部の敵機が暴れ、混乱を最大限に拡大していくのだ。

 日ごろ無線による統制に慣れていた米軍パイロットの、パニックに対する弱さは想像以上だった。こと実戦に慣れていない新兵はむやみやたらと旋回を繰り返し、時には味方に機銃を浴びせる者までいる始末だ。

 混乱を引き起こした責任者である指揮官は、自身もパニックに陥りながらもこの狂乱状態を収めるため必死に味方を誘導し、絡まった糸をほぐしていく。1秒ごとに敵を全滅させる可能性は減り、一分ごとに味方の理不尽な被害は増えていった。



 篠原にしてみれば天与の機会である。

 特に意図したわけでもなく、敵が勝手に狂乱してくれているのだ。敵の指揮官の無能さに、今はむしろ感謝のしきりである。

 これを活かさねば、篠原としては戦死した僚友たちに顔向けができない。この際、時間は白金よりも貴重だ。篠原は、前方で敵弾と敵機とを避けつつ進んでいる斉藤機に合図を送った。

 『少尉! 今のうちだ、先に行け!』

 斉藤は、わずかな間だが、返答を返さなかった。篠原らをおいて先に行くことが何を意味するか、わからぬ彼ではない。

 『どうした? くちばしの黄色いひよっこにはまだお守りが必要か?』

 からかう表情の中に、ためらう斉藤の背中を押す温かい気遣いを感じ取り、彼は心中の葛藤を押し殺した。

 『……いえ、ご心配なく。では、ご武運を』

 『少尉もな』

 2人は敬礼を交わすと、ともに視線を外した。とりあえず、彼らに感傷に浸る暇はない。

 加速した紫電改が篠原機のもとを離れると、今度は後ろの樋口二飛曹機に向かって手を動かした。

 『樋口、貴様も行け。斉藤機の援護だ』

 『し、しかし!』

 樋口が驚くのも無理はない。樋口は、初陣以来今日まで篠原とともに戦場を飛び回った仲であり、篠原が死ぬというのなら、靖国まで供をするのが当然と、彼は思っていた。

 『早く行け! 命令だ!』

 篠原も、その気持ちは知っている。だからこそ、樋口を死なせるわけにはいかない。17歳にもならぬ少年を道連れにしては、靖国に行くにも気がとがめるというものである。

 樋口の唇が真一文字に引きつっているのが、風防越しに見て取れた。わずかののち、迷いを断ち切るかのように硬い表情のまま敬礼する。そして蒼白な顔を前に向けると、樋口機は速度を上げた。


 斉藤と樋口の戦域離脱を確認すると、篠原はおもむろに敵と向かい合った。

 すでに他の零戦はいない。目の前にはようやく混乱を収束させた。ウンカのごとき魔女。数だけでいえばこちらのおよそ150倍。

 「……上等だ」

 零戦乗りとしては最高の舞台だ。せいぜい華麗に舞って、靖国までの旅程をにぎやかにしてやろうじゃあないか。

 篠原は軽く笑った。透明な、綺麗な笑顔だった。





 斉藤が振り返ったとき、戦場に残った最後の零戦が火を吹いた。

 四方向から同時に射撃を受け、機体全体から黒い煙を曳きながら、ゆっくりと降下していく。直後、爆発とともに零戦の機体は空中に四散した。


 斉藤は、わずかに瞑目した。

 篠原中尉は、故郷の長野に若い細君と老いた両親、それに4人の弟と妹がいるという。

 篠原には守るべき存在がいた。そして、彼は斉藤一人を守って死んだ。

 それで納得できるのだろうか。斉藤にはわからない。守るべき人を守れなかった、そう常に自責の念に駆られている、斉藤は理解できなかった。





 わずかに生まれた心理的な間隙、その間を衝かれた。雲の合間に隠れるようにして、黒い影が忍び寄っていたのだ。


 気づいた時には、ざっと8機の魔女が斉藤と樋口に向かって急降下していた。圧倒的多数、しかもグラマンの得意とする一撃離脱戦法の構えを半ば完成させている。おそらく団子状態の混戦に加わらず、ひと足先に待ち伏せていたに違いない。

 「くそ! どこにいた!?」

 驚愕の念を頭の片隅に追いやり、機を旋回させて回避を試みる。その鼻先に火線が集中した。

 斉藤も樋口も、戦場においては油断や驕慢などという言葉から遠い存在である。先ほどまでも決して周囲の警戒を怠っていたわけではない。

 だが、主戦場を脱出したことの安心感、これまでに類を見ない激戦による疲労に加えて、親友や敬愛する上官の戦死を目の当たりにした心理的な衝撃が、彼らの鋭敏な感覚を無意識のうちに鈍化させ、それに敵指揮官の戦術構想が絶妙に融けこみ、絵に描いたような奇襲攻撃を完成させたのだ。

 指揮官のみならず、部隊の兵卒も最精鋭らしい。今までとは比べものにならないほど、その射撃は精確だ。これまでわずかに数弾を受けたのみだった紫電改の機体に、次々と弾痕が穿たれていく。

 エンジンのカバーを銃弾が貫き、華奢な「誉」エンジンを痛めつけていく。燃料パイプが破損したのか、一瞬紅い火が見えたが、すぐに鎮火した。

 旋回によって身体にかかる強烈な圧力に耐えながら、強引に後背に回り込むと、弾倉に残っていた砲弾を全て吐き出す。めくらに撃った一連射は敵機を捉えることはなかったが、突然の射撃に驚いた魔女は樋口機への射線から退いた。


 数十秒間の嵐が去ったのち、斉藤は左腕に鋭い痛みを覚え、顔をしかめた。敵弾の1発がコクピットに飛び込み、その破片が腕の肉を切り裂いていたのだ。

 舌打ちして首もとのスカーフをほどいて腕に巻きつけながら、機体を見回す。

 主翼や胴体には相当数の着弾が見られ、零戦であれば間違いなく骨格部が折れて空中分解していたところだ。そうでなくとも、エンジンの火災が広がっていればそのまま墜落していた。

 これが収まったのは斉藤の卓越した操縦技術のなした技でもなければ、まして彼の日ごろの行いを神や仏が嘉したわけでもなく、紫電改に装備されたもう一つの新機構の成果である。

 新機構、すなわち自動消火装置。エンジンや燃料タンクで出火すると、即座にその位置を探知、火が大きくなる前に炭酸ガスを吹き付けて鎮火してしまう、火災が致命的となる航空機としては垂涎ものの装置である。

 もっとも、これはたった一回分しか搭載されていない。だが、その一回の火災がどれだけの熟練した搭乗員の命運を制したか。そして、その一回分がなければ、紫電改は炎にもまれて墜落する運命だったはずである。


 離れた位置を飛んでいる樋口機は健在だった。ただし、エンジンに被弾したか、わずかに白煙を曳いている。エンジンが停止することはなさそうだが、全速の発揮は難しいと思われた。

 逃げ切れるか、と自問したとき、樋口が突然バンクし、遠くから敬礼してきた。

 一瞬の間をおいて、斉藤がその意味を理解したとき、すでに樋山機は機首をめぐらして7機の魔女に向かって飛び去っていく。

 追跡する魔女を足止めし、斉藤機が確実に離脱できるまで時間を稼ごうとしているのだ。

 その代わりに、樋口が生還する確率はぐっと低くなる。いや、ほぼ零に等しい。

 「やめろ! 樋口二飛曹! 戻ってこい!」

 届くはずもない怒号を上げ、樋口機を追おうと操縦桿を倒そうとした右手が、脳内の逡巡の色を映して硬直した。




 激烈な葛藤が斉藤の心裡を駆け巡った。

 何度繰り返しても足りないが、彼の任務は「戦果の確認及び報告」であり、それは無事に帰投してこそ果たされるものである。そんなことは高原らに念押しされるまでもなく、自身の理性が百も承知だが、彼の感情の一面はその遂行を激しく拒んでいた。

 斉藤一人のために何人の卓越した零戦乗りが犠牲となったか。家族もいるだろう、恋人もいただろう彼らが守ったものは、ちっぽけな人間一人と活かされるはずもない一片の情報でしかないのか。

 昨日までくだらない冗談を酒の肴に笑いあった仲間が、「自分のために」殺されていく。斉藤の、未だ無邪気さを残す精神を打ちのめすにたる光景だった。

 斉藤機に銃弾は残っておらず、被弾さえしている。だが、紫電改の速力と機動性は健在だ。樋口を鹿屋基地に退避させ、自らも魔女の追撃を振り切ることは充分可能なはずだ。

 確かに危険である。だが、損傷した零戦より、生存する確率は高いはずである。たとえ武運つたなく撃墜されたとしても、樋口は確実に救えるではないか……?



 「くそ!」

 迷いをまとめて両断するように、計器類に拳を叩きつけると、鈍い痛みを伝える手で操縦桿をぐっと握り締めた。










 真夏の陽光が、スコップを持った兵士たちの肌を灼く。高々と沖する太陽は、まだ中天まで2時間ほどある。

 滑走路に大穴をあけ、建物に爆弾を落とし、目に付いた人影に銃撃を加え、遮るものもいない鹿屋の上空を我が物顔で飛び回っていた招かれざる客は、30分ほど前にようやく自らの母艦へ帰っていった。

 塹壕に飛び込んで暴風の通過を待っていた日本軍の兵士たちは、機影が東南の水平線へ去るのも待たず復旧作業を開始した。

 炎上する建物や航空機の消火に当たるとともに、臨時の拠点としてテントや掘っ立て小屋を建て、折れた通信アンテナを張り直し、滑走路にあいた穴を埋める。さらなる襲撃に備えて高角砲や機銃に銃弾を補填し、爆風で吹き飛ばされた格納庫の擬装網をかけなおし、移動中に放置されていた航空機を林の中に隠す。そして、戦死した兵士の遺体、あるいは遺体の一部を回収し、埋葬する。

 さっきまでともに笑っていた戦友「だったもの」を前に嗚咽するもの、また新兵の中にはちぎれ飛んだ腕や腹から飛び出た内臓を見て嘔吐するものも多い。

 だが、真夏のこの時期に死体をそのまま放置しておくことはできない。腐食した肉体から発生する伝染病の威力は、われわれの想像を絶する。一週間後には、その猛毒は鹿屋基地全体を覆いつくすだろう。

 神経をすり減らしながら、彼らは黙々と作業を続けた。


 司令部の拠点は塹壕の中に設けられており、頑丈な造りのそこは爆弾が直撃しない限りはびくともしない。だが、中に籠っていては通信所や各施設と連絡がしづらいため、通常は地上に簡素な施設を建て、そこで指揮をとる。それも例に漏れず米軍の60キロ爆弾に粉砕され、現在宇垣らは緊急に建てられたバラックに居を構えている。

 そこに作業服姿の下士官が左手にスコップを抱えたまま飛び込み、椅子に座っている宇垣中将に敬礼した。

 「長官! 戦闘機着陸用の滑走路の整地、完了しました!」

 「ご苦労。引き続き滑走路の整備に当たってくれ」

 「はっ!」

 さすがに海軍最大の前線基地、これまで数十回にわたり空襲を経験してきただけに手際がいい。設営隊に加えて非番の整備員や搭乗員、周囲の警備を担当する陸戦隊も作業に加わり、飛行場の周辺は急速に数時間前の外観を取り戻していく。

 いまだ落ち着かないのは、宇垣の視線の先で東南の空を見上げている酒井大佐の心中だった。

 東南海域で放たれた「敵空母見ゆ」「全軍突撃せよ」の電文を、空襲下にある基地の通信機が傍受してから一時間半。それ以来、いまだ何の音信もない。

 情報収集のため発進した二式艦偵は、米機動部隊が相当の被害を受けていることを報告している。攻撃が成功したのであれば、斉藤少尉や直衛隊もそろそろ還ってきてもいいころだ。だが、酒井の中には不安の雲が陽光を遮っている。

 そのそわそわした姿に、宇垣が声をかけた。

 「大佐、そう焦るな。貴官一人が先走ったところでどうにもなるまい」

 真顔の宇垣にからかわれた酒井は、赤面しつつ椅子に腰をおろした。


 酒井の心配は、宇垣にもわかる。

 もともと酒井は、その雄偉な体格、平時の泰然自若とした態度からは想像もつかないほどの部下思いで知られる。最後の一機が着陸するまで滑走路脇を離れず見守り、誰が帰ってこないと聞けばところかまわず涙を流し、どこそこで救助されたと報告が入れば喜色を満面に浮かべて喜んだ。

 航空戦に関しては、連合艦隊参謀長として陸海空戦線の作戦立案を担当した経験のある宇垣のほうが詳しいだろう。だが、悲報、凶報にも眉一つ動かさない冷徹さを見せる彼より、戦友の死に涙する酒井に兵がより親しみを感じるのは当然であるかもしれない。


 「部下の身を案ずるのは悪いことではないが、容易に外に出すな。士気にかかわる」

 「は……」

 恐縮そうに頷く酒井に向けて、宇垣は鉄仮面を笑みの形にした。なぜか周囲からどよめきがおこる。

 「部下を信頼せい。それが司令官の役目だ」

 「はっ!」

 今度は力をこめて大きく頷き、平生の余裕を取り戻した目で海図に視線を落とした。その元気な様子に軽く苦笑した宇垣は再び目をとじた。



 その成果であろうか。直後、見張り員の声が周囲に響いた。

 「東南方向に航空機1、向かってくる!」

 「機種は!」

 一瞬前までの態度をかなぐり捨てた酒井が、椅子から腰を浮かせながら怒号した。

 「形式は単発小型、引込み脚! 詳細は確認中」

 数百の視線が一斉に空に浮かぶ点に注がれる。

 直衛隊の零戦か、あるいは斉藤の紫電改か。可能性は低いが、米軍機であった場合に備えて地上の高射砲と機銃が鎌首をもたげ、東南の空をにらむ。

 飛行場の修復にあたっていた兵までもが作業を中断して見守る中、再び見張り員が声を張り上げた。

 「確認! 機種は紫電二一型、斉藤少尉機です!」

 その声が途切れるや否や、酒井は椅子を蹴り倒して飛行場へ走り出す。その後姿を見て苦笑した宇垣は悠然と立ち上がり、純白の第二種軍装を整え、歓声の中をゆっくりと歩き出した。








 全身を押し包む倦怠感と鈍痛を追い出すように一つ深呼吸をすると、斉藤は手紙をつかみ、風防を思い切り蹴り上げた。被弾のためか、風防が歪み開かなかったのだ。

 ガラスや樹脂が陽光にきらめく中を、斉藤は数時間ぶりの地上の空気を吸い込みながら滑走路に飛び降りた。

 瞬間、硬直した脚がふらついたが、無様に転ぶことはこらえ、報告を待ちわびる酒井大佐らのもとへ駆け寄った。

 「ご苦労! 報告を」

 「はっ!」

 斉藤は敬礼したまま一息に報告する。予想以上の内容に酒井が唸り声を上げ、それに幕僚の歓呼が続いた。

 中型空母、巡洋戦艦各1隻大破、大型空母1隻が中破。いずれも戦闘航行は不能、沈没に至る可能性は少ないが、機動部隊が後退を余儀なくされるだろうことは確実。

 昨年10月の初出撃以来、特攻隊最大の戦果である。数千機に及ぶ特攻機を送り出してきた鹿屋基地の隊員は、初めて溜飲を下げることができた。

 「直衛隊は? 篠原中尉はどうした」

 酒井の質問に、斉藤は唇の端をぐっと引き締め、絞るような声をだした。

 「……篠原中尉は小官の脱出を援護し、壮烈なる戦死を遂げられました」

 「……そうか」

 他の者の生死は聞かなかった。あえて言わせずとも斉藤の目が語っていた。痛ましげに目を閉じ、開いたときにはすでに冷静さを取り戻した指揮官の目だった。



 場所を指揮所に移して必要な情報を聞き出し、疲労の激しい斉藤に慰労の言葉をかけ休むよう命じ、酒井は事後処理のため指揮所に戻った。


 巨大な戦果と全滅の被害とを書き込んだ、連合艦隊司令部への報告文を通信兵へ渡した酒井は、隅の椅子に座り空を見上げた。

 「終わった……か」

誰にも聞かれずに溶け去るはずのその呟きは、別の男の声を伴って返ってきた。

 「終わったな」

 「は……」

 万感の思いを封じ込め、見上げる酒井と宇垣の視線の先には、ただ青い大空が果てしなく広がっているのみだった。

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