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すみこさん  作者: 粗目
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死ぬことだけは、待って呉れないか。僕のために。(すみこと真)

今回のタイトルもWaltz with the Evils様にお借りしています。太宰讃選(17題)の5話目です。



    



 昔の話をしよう。

 


 「三宅荘」は真の曽祖父が建てたアパートだった。無論そんな時代のものを現役で使っているはずもなく、真の祖母、幸恵が大家になる時に建て替えはしたがそれでも築五十年。しかし昔の建物のほうが丈夫だとは良く言ったもので、アパート木造二階建ては今でも古びてはいても十分居住に耐える建物だった。瓦の修繕にきた業者も「あと百年はもちますよ」と太鼓判をおしたほどだ。

 それになにより幸恵が毎日丹精こめて磨いた廊下や階段は黒光りして美しい。

 建て替えの際、安普請にはしない、と言い張った幸恵の主張で漆喰の壁は厚く、柱木は上等だ。

 

 真の家は三宅荘から自転車で二十分ほど掛かる場所にあったが、子供の頃から幸恵の住む三宅荘に入り浸っていた。漠然と、大人になったら幸恵の跡についでこの三宅荘の管理人になるんだろうと思っていた。三宅荘は真の住む築浅の家よりもよっぽど落ち着けたし、あと百年もつのなら、自分が死ぬまで面倒を見るくらいでちょうどいいだろう、と思っていたのだ。

 それもあって、大人になったらここに住みたい、という真に幸恵は、それなら真のために今から一部屋を空けておきましょう、と一階にある部屋を一つ真に呉れた。幸恵は他にも土地を持っていたので三宅荘の経営は道楽のようなものだったし、孫の為に一部屋を常に空けておいても構わないほど、三宅荘の入居希望者は少なかったのだ。

 


「今時、お風呂が共同の部屋に入りたがる人なんていないのよ。でもねえ、部屋ごとにお風呂を取り付けるのは無理らしいの」


 建物の耐火基準がどうとかで消防署の許可が下りなかったらしい。幸恵のさびしそうな顔を、中学二年生だった真もまたさびしく思った。

 確かに風呂は共同だったが、一階にあるそれは毎日幸恵が綺麗に掃除していたし、銭湯とは比べるべくもないが一般家庭用よりは大きい湯船と、一人用の小さな湯船の並んでいて洗い場は広く、シャワーの周囲にはシャワーカーテンもついていた。そんな仕様を真は面白く思っていたが、やはり今時、温泉でもあるまいに風呂が共同だというと入居希望者は少ないようで、それからも入居者が増えてアパートが満室になるようなことはなかった。


 真が高校生になり、その高校も卒業しようという頃にはアパートの住人は近所の大学に通う学生二人だけになり、彼らが来年の四月出て行ってから、入居者のあてはなくなりそうだった。

 なにより幸恵も歳をとり、アパートの管理がままならなくなっていた。幸恵の子供たちや他の親族は、三宅荘を続けることに反対していた。幸恵はその当時八十歳を目前にしていたから、彼らの反対も尤もだったし、入居者のいないアパートは維持費ばかりが掛かっていたから、閉めるのも仕方のないことだった。

 その頃にはアパートの大家という夢を捨て、パティシエになる為に製菓学校への入学が決まっていた真も、未だ中学一年生の新も、三宅荘の跡取りになるとは言えず、最後の住人である大学生の卒業を待って三宅荘は閉ざされることになった。

 


 三宅荘最後の日、一人でアパートと名残を惜しみにきた真は、幸恵が毎日磨いていた廊下が少しくすみ、風呂場のタイルの目地は、隅のほうが黴で黒ずんでいるのを見つけた。

 それを見て真は、もう本当に、三宅荘の存続は無理だったのだと悟った。




 真がすみこを拾ったのは、その日のことだった。



 すみこは痩せて震える子猫で、大きさときたら真の掌に納まるくらいだった。敷地内の裏庭で細い声で鳴いているのを真が聞きつけたが、そうでなければあと一日ももたなかっただろう。

 拾ったはいいが、多分これは長く生きないだろうと真は思った。まだ母猫の乳が必要なほど小さい猫は捨てられたのか、置いていかれたのか。ともかく衰弱しすぎていて、人間が触れても抵抗も出来ないのだ。

 けれども真は子猫を抱いて近所の獣医に走った。

 顔なじみの獣医は真の手から子猫を受け取ると「駄目かもしれんよ」と言ったが、そんなことは覚悟の上だったので真は頷き、出来るだけのことをしてください、と頼んだ。

 体を洗ってミルクを飲ませ、排泄させる。その一通りのやりかたを獣医に習い、猫用のミルクと哺乳瓶を買った。それから、獣医がくれた、ダンボールにタオルを敷いた即席の寝床に猫を入れて家に戻った。


 多分すぐに死んでしまうだろうと思っていたから、家族の誰かを巻き込んで悲しませたくなかった。だから自分の他の誰にも世話をさせるつもりはなかったが、猫は何故か玄関にいた幸恵の手に自然に引き取られ、そのまま幸恵の部屋に連れて行かれてしまった。

 そして翌朝には『すみこ』と名前までつけられていた。



「ばあちゃん。名前なんて付けたって、これはきっとすぐに死んじゃうよ」

「馬鹿だねぇ真、ねえすみこ、私の孫は少しはお前を見習えばいいのにねぇ」


 すみこは大きいとはいえないダンボールのすみっこで眠っていた。幸恵の皺だらけの乾いた手がゆっくりとすみこの背を撫でていた。幸恵の小さい手ですらすっぽりと覆ってしまえるほど、すみこは小さかった。

 こんな小さな猫の何を見習えばいいんだろうと真は思った。




 すみこは、真の覚悟に反して死ななかった。一週間も経つとおぼつかない足取りで幸恵の部屋を歩き回り、二週間も経つころには真の手からはみ出す大きさになっていた。

 すみこは幸恵の手で撫でられ丹精され、みるみる元気になって大きくなっていった。

 そうして拾った真の恩も忘れ、幸恵にしかなつかない猫になった。

 幸恵の手で撫でられる時、気持ちよさげに目を細め体を震わせ、喉をごろごろといわせる。額をごつごつとぶつけて所有権を主張する。

 すみこは幸恵のためにとかげやばった、せみやすずめを捕まえてきたが、それを幸恵が喜ばないことを知ると、次の夏からはもってこなくなった。

 庭に放置されたそれらの死体を悲鳴をあげながら片付けるのは真と新の役目で、すみこはそんな二人にあっても知らん振りをしているか、お愛想程度に尻尾を振るだけだった。

 幸恵が動くのをおっくうがるようになると、すみこもじっと幸恵の傍にいた。

 座椅子に座った幸恵の膝の上でごろごろと喉を鳴らした。

 幸恵のほかには誰も、すみこの喉を鳴らせる者はいなかった。



 

 幸恵が死んだのは、真が三十歳になり三宅荘の跡地に自分の店を構えた年だった。かつてのアパートの敷地の半分ほどは売り払われていたが、残りの半分は「これは真の部屋の分」と幸恵が売らないでいてくれた。

 その頃すでに十歳を過ぎていたすみこは、甘やかされてたっぷりと乗った柔らかな脂肪を持った三毛猫になっていた。十年を生きた猫はすでに老猫といってもいい。

 死体の傍に猫が居るのは縁起が悪い、と言う古い親戚の言葉をものともせず、すみこは通夜の間も葬儀の間もずっと幸恵の枕もとから離れなかった。少しばかりの水を飲んだほかには、好物のかまぼこにすら手をつけず、ひたすら幸恵の傍に居てとろとろとまどろんでいるようだった。

 葬儀の間、棺の中に入り込み、荼毘に付そうと棺を動かす時も棺から出ようとしなかった。真が抱いて棺の中から出すと、普段寡黙なすみこが甲高い敵に向けるような声で鳴いた。真の手に爪をたて、噛み付いた。

 たっぷりと肉がついているはずなのに、すみこの体はふわりと軽いように真には思えた。

 その軽さを、真は知っていた。それは死が間近になった動物の軽さだった。

 


「すみこさん」


 真は思わず呟いた。


「すみこさん、死ぬのは待ってよ。お願いだから死なないで、俺が平気になるまで待って」


 勝手なことを言うな、とばかりに真の指をすみこは力一杯噛んだ。親指の付け根の骨の上から思い切り噛まれたので、痛みのあまり指が痺れた。

 それでも真はすみこを離さなかった。

 すみこは思う様真を噛んだあと、仕方ないとばかりに体の力を抜いた。

 真の腕にずしりと重さがのしかかった。






 それから五年。真は毎日すみこをバスケットに入れてカフェ白菊に出勤する。

 お店はどんな名前が良いかなと幸恵に聞いた時、「私は白菊が一番好きよ」と答えたから、カフェの名前は白菊だ。あの頃幸恵は大分耳が遠くなっていたから、真の問いかけを、「どんな花が好きか」と聞き間違えた可能性は多いにあったけれど、それでも構わなかった。カフェなのにテイクアウトのケーキしか売れず、アパートの柱木を使ったテーブルに客が座ることは滅多になかったが、それでも構わなかった。

 馬鹿な弟と馬鹿な友達が客でもないのに(飲み物代はしっかり頂戴しているので客は客だが、真の中では彼らは「お客さん」の範疇に入っていない)店の中で愉快な寸劇を繰り広げてくれていても、真はちっとも構わない。

 馬鹿だなとは思うが、彼らが愉しそうに見えるのは確かで、でもちょっと冷静になってみろよ、とも言いたくなる。馬に蹴られたくないから黙っているけど、でもそういう時は、好きな場所で広がっているすみこに向かってこう言う。


「馬鹿だねえ。すみこさんを見習えばいいのに」

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