水は器にしたがうものだ(白井/高虎)
今回のタイトルもWaltz with the Evils様にお借りしています。
高虎がむにゃむにゃ、と何か寝言を言う。
どんな夢を見ているのだか知らないが、わりあい高虎は寝言が多い。それが白菊店主やすみこの名前だったりするとイラっとするし、洋菓子の名前だったりするととりあえず頭の中にいれておいて、買い物リストに付け加えたりする。
その菓子を目の前に出した時の「なんで俺が食いたいものが分かった!?」という驚愕の顔が馬鹿っぽくて可愛い。と白井は思っている。たまに「こいつに追いかけられる夢を見た……」とげっそり言われることもあるが、それでもおいしそうに食べるところが高虎だ。
結婚しなくて済む相手。
そんなことを言っていた頃の自分が嘘みたいに。恋をしている時間が好きだから成就したらやっぱり遠からず醒めてしまうんだろうな、なんて、そんなことを思っていた頃の自分が嘘みたいに、まだまだ高虎に恋している。というか、どんどん高虎を好きになっている。
「あーあー…、こんなにアンタのことばっかり好きで、どうしてやりましょうかね……」
もう三十も超えたいい大人なのに、今更恋を覚えたての子供みたいに夢中になって溺れて。この危なっかしくて可愛い人がどこかにふらふら行ってしまわないように日々眼を光らせてるなんて。どうしたことだろう。
興味もない菓子の名前や店の名前を覚えて、全く見分けがつかなかったプラモデルの名前や設定まで空で言えるようになって、高虎をいつでも拾って帰れるようにアンテナを張り巡らせて、毎日こんなに大変なのに毎日こんなに幸せだなんて、全く、どうしたことだろう。
不公平すぎる。
「全く、不公平すぎるというものですよ。アンタは俺のことなんてそれほど好きでもないくせに」
聞き取れなかった寝言ひとつに聞き耳をたてる自分と、もう一度深い眠りに入ってしまった高虎の、なんという違いか。
高虎は白井の趣味(今の趣味は高虎観察なのだが)も知らないし、仕事場の人間関係も知らないし、自分から白井を誘うこともない。勝手に呑み会にいくし断れなかったといって合コンに行くし気がつけば白菊ですみこに踏まれているし。
全く白井のことなんか考えてないし興味もないように見える。
ストーカー騒ぎに乗じて告白を貰った気もするが、高虎は、本当のところ白井をどう思っているのか、白井はまだ疑っていたし、百歩譲って今どう思っているかは無視するにしろ、今後高虎を惚れさせるにはどうすればいいのか、全く分からないのだ。同棲までしておいて今更何をと自分でも思うが、分からないものはしょうがない。
憂さ晴らしに熟睡している高虎の引き締まった頬を無理にむにむにと引っ張り揉んでみたら、ちょっとすっきりした。
■ ■ ■
「………、そういうこと俺に相談するのやめてくれませんか?」
昼時を過ぎたのカフェ白菊は閑散としていた。それが昼時を過ぎたからなのか、それとも昼時といえども変わらないのか、食事メニューがサンドウィッチくらいしかないあたりで後者のような気がするがこの店の経営状態など白井の興味の範疇ではないので、そこには触れずにサンドウィッチを注文した。今さっきまで営業先にいて、もうすぐ二時というのに昼飯を食べていないのだ。
相変わらず美味くも不味くもない紅茶を飲みながら、白井は昨夜つらつらと思っていたことを真に話したら、心底嫌そうにそう答えられた。
「高虎さんと付き合いの長い店長になら良いアドバイスをいただけそうな予感がするので、相談しないなんて選択肢は無いです」
「じゃあ、高橋さんに会うたびにブリザード吹かすのを先になんとかしてください。すみこさんに暑さ寒さは大敵なんです」
「それは仕方ないんです。自然現象ですよ。あんなののことよりも高虎さんです。店長なら知っているでしょう。高虎さんが俺以外眼に入らなくなるようになるにはどうしたらいいのかを」
白井に迫られて真は考えた。というか考える振りをした。付き合いは長いが、長い付き合いの記憶のどこをひっくりかえしても恋して有頂天になって空回りして振られて泣く高虎しか出てこない。相手から告白される高虎すら出てこない。
『真! 俺の運命の人が現れた!』
何度その叫びを聞いただろう。高虎の「運命の人」は真が知る限り八人いたが、皆結局のところ運命の人ではなかったということが証明された。高虎と付き合った九人目は目の前にいる白井だが、高虎から『運命の人』宣言を聞いていないので、彼を九人目と認定していいのか微妙なところだ。
「……思いつきません」
「使えないな」
「俺が知る限りアイツは恋に関しては暴走機関車でしたからね。一応あの顔なので、あいつのことをよく知らない人間からもてないこともなかったんですが、なんというかターゲット以外の女性からラブレター貰っても誘われても全く意識に上らないというか、気づいてさえいなかったんじゃないかな。とりあえず今までアイツが好きになった女性は天然パーマ、色白、低身長低体重、声が小さい…ええとあとは何だろう…まあとにかくそういった、ちょっと現実離れしたのばっかりでした。白井さんにはひとつも当てはまってないですね」
「色は白いですよ」
「うーん……」
すごく残念、というように真が相槌のような唸りのような声を出す。つられたのだか、カウンターで真から煮干を受け取っていたすみこが、ふらふらと尻尾を振った。
「まあでも心配しなくても高虎はかなり白井さんのことを好きだと思いますよ」
「携帯の着信音が地獄の黙示録なのにですか」
「ああ…あれはちょっと無いと俺も思いますけど」
「先日ウエディングマーチに変更しておきました。すぐ戻されたけど」
「……好かれたいんならそういう嫌がらせはやめたほうがいいですよ」
「嫌がらせじゃないです、愛です」
「うーん…」
もう残念でたまらない、と真が相槌のようなため息をついた。
その時。軋むドアの音とともに、さわ…、と風が入ってきた。
「あら白井君。暇そうね。店長さん、ケーキを十三個持ち帰りでお願いします」
「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」
「消えうせろ」
「…すみこさん、あちらの窓辺は暖かいですよ多分」
「今日は雨雲が厚くて日差しがないけれど」
里佳子が不思議そうな声で言ったけれど真は聞こえなかった振りをした。すみこが大儀そうに立ち上がり、窓辺のテーブルにどんと座る。
今日も今日とて寂しげな美女、里佳子は白井曰く自然現象の冷気を感じている気配もなく、そうそう、と鞄からA4サイズのクリアファイルを取り出し、白井が座るカウンターの近くに置いた。
婚姻届、と書かれている。白井もはるか昔に一度書き、似たような書式の離婚届も書いたから分かる。これが本物だと。すでに里佳子の欄は完璧に記入済みだ。
眼に入って何か認識した瞬間思わずクリアファイルから取り出してびりびりに破いてしまったが、里佳子は落ち着いた顔で鞄から新しいクリアファイルを出した。
「ずっとなんていわないわ。七年でいいの。亜矢ちゃんが白井君と結婚していた期間だけ結婚していてくれたらいいの」
「………君の執念には脱帽する」
「だって好きなんだもの」
ふと白井は、里佳子の顔を恐らく出会って初めてまじまじと見た。結婚する前から離婚した今になっても迷惑を掛けられ通しだったため、白井の中では害虫認定されている女だったが、今の言葉は認めたくもないが、共感できた。
好きだから、なにがなんでも相手を手に入れたい。
たぶん自分がそう思われているとしたら相手を全力で拒絶して叩きのめすだろうが、どうしても、思わずにはいられない。
別にそこまで人を愛せる自分とやらに自己陶酔しているわけではないので、苦しいし、申し訳ない気持ちもあるし、自分で自分が恥ずかしいし自己嫌悪にも陥りつつも、でも、という気持ち。
それを里佳子の目の中に認め、白井はひとつ、深く頷いた。
「そうですよね。好きだからこそ鍵穴に瞬間接着剤流し込んだり予定を調べたりするんですよね」
「そうよ。好きだから携帯チェックして生活圏内に引越しして身近な人間と結婚したりするのよ」
「……なんかもう、俺も曇り空の窓辺に行きたい…」
真が、すみこがのびのびしている店の奥のテーブルへ視線を飛ばす。今日も不吉な十三個のケーキの準備は出来ている。あとは会計を済ますばかりだというのに、里佳子は財布を出すそぶりもなく白井と眼をぴかぴかさせながら話をしている。
罵倒や独り言みたいな要求のごりおしではなく、対話だ。一方通行にもほどがあるが、とりあえず対話として成功している。
しばらく里佳子と見つめ合っていた白井は、携帯のアドレス帳を開き、里佳子に見せた。
「これ、亜矢子さんの電話番号です。住所は知らないので、勝手に調べるなり聞き出すなりしてください」
「………っ! ありがとう白井君」
「これでもう僕の近くには出没しないで心置きなく本来のストーキング対象にまとわりついてくださいね」
「亜矢ちゃんの連絡先さえ知れれば白井君に興味はないわ。ああ、これあげる。ゴミだから」
そう言って里佳子は十数枚のクリアファイル(中身は全て婚姻届)を白井の手に渡し、さっさと会計を済ませてケーキの箱をひっつかんで店を出て行った。
低温警報が解除されたことを勘付いて、すみこがのそのそとカウンターに戻ってくる。
「白井さん、あなた元奥さんを売って自分の生活を取りました? 今」
「人聞きが悪いですね、店長」
「すみこさん、ここに悪魔がいますよ」
「大丈夫です。亜矢子さんにも言われてるんです。もし里佳子の迷惑が眼に余るようだったら、連絡先を教えて良いって」
「本当ですか?」
「結局ね、両思いなんですよ馬鹿馬鹿しい」
白井はため息交じりに言って、クリアファイルから婚姻届を出してはびりびりと破いていく。ご丁寧に一枚一枚きちんと署名捺印がなされているのに感心さえする。自分だったらこんなに何枚も用意する前に、しっかりと準備して相手が名前を書かざるを得ない状況に追い込むけれど。
カウンターの上にこんもりと白い山が出来る頃、白井は最後の一枚を破こうとして手を止めた。薄い紙だから二枚重なってしまっているのに気づかなかったのか、下の一枚は何も書かれていないまま残されている。
署名捺印された最後の一枚を威勢よく裂き、残り一枚残った白紙を元のようにクリアファイルに収める。
紙の匂いか音かにひかれたすみこが紙の山の上に乗り、あたりに紙ごみを撒き散らして真の顔色を悪くさせているが、知ったことではない。
クリアファイルを鞄の中に仕舞い、高虎を罠にかける方法を絶賛計画中なのだ。瑣末事になど、かまっていられない。
「それじゃあ店長、すみこさん。ごちそうさまです」
店を出て行く白井の背中をため息交じりに見送って、掃除用具とゴミ箱を手に裂かれた紙を片付ける。すみこが不機嫌そうな顔をしているので新聞を敷いてご機嫌取りをしたが、法律箋のがさがさ感がおきに召したらしいすみこは、新聞には眼もくれない。仕方ないのでダンボールを持ってきてその底に集めた紙を入れると、すみこはダンボールの中に入り、ごろりと転がった。がさがさ、ごろり、がさがさ、ごろり。
「全くね。結局両思いなんですよ馬鹿馬鹿しい。そう思いませんか? すみこさん」