風に吹かれて(白井/高虎)
今回のタイトルもWaltz with the Evils様にお借りしています。太宰讃選(17題)の12話目です。
高虎は不幸な男だ。というのが彼をよく知る人々の共通見解だ。両親は高虎が大学を卒業して数年もたたないうちに事故で他界し、高虎は両親の家を出て一人暮らしを始めた。
それまでの高虎は「間の悪い男」であり、「空気の読めない奴」だった。微妙に人付き合いの輪から外れていたが、高虎自身を嫌う人間はあまりいなかったので、輪から少し離れた場所で緩く人間関係が存続していたため、高虎が孤独を感じることはなかったし、たとえ感じたとしても気のせいだ、と思えば思いこめる程度だった。
思えば彼の両親が彼を不幸から守っていたのではないか。
高虎の幼なじみはそう推察する。
なぜなら、両親が亡くなってから「間の悪い男」は「不幸な男」になったからだ。
それも死後莫大な借金がみつかったとか、大病をしたとかいう大きな、誰の目にも分かりやすく同情しやすい不幸ではない。
例えるならそれは指先に刺さった小さな棘のような不幸だ。買って一週間しかたってないフライパンの取手が外れるとか、同窓会の葉書が宛先不明で届かないとか(このときの幹事は友人だったので電話が来て同窓会のことを知ったが、友人が読み上げた住所は、県だけが違っていた)、会社の席が送風口の真下にあるので夏寒く冬暑いとか。
そういう小さな不幸は往々にして人の同情を得にくい。一人で落ち込み、悩み、しょうがないので浮上する。
高虎の毎日はそういうシンプルなサイクルで出来ていた。
最近高虎の不幸にバリエーションが増えた。恋人の白井からもたらされる人災だ。人災なだけに指先の棘のようなものから足の力が抜けるようなものまで幅広い。
その幅広い人災に悪意があるのかないのか、高虎には判別がつかない。同時に白井からもたらされる好意の言葉の真贋も判別がつかない。
なので高虎は白井とつきあいだしてこの方、ずっと困惑している。
別れればいいのに。
高虎が恋人に困らされていることを知るごく少数の人々の中でもさらに一握り、他人事を放っておけない優しい人々はそう言う。
白井が自分をどう思っているのか。高虎には分からないのだ。二人の間では、つき合っている、という言葉の定義すら曖昧になる。つき合っているかどうかも分からないのに別れるもなにもないだろう、と思ったりする。
なので高虎は困惑のまま微笑み、話題を終わらせる。
高虎は不幸な男だ。
しかし白井と付き合いだしてから彼のシンプルなサイクルは変化を見せている。一人で悩むかわりに白井に八つ当たりをしたりなだめられたり説教をして受け流されたりすることが増えた。それが良い変化なのかより不幸な変化なのか、高虎には分からない。
それを理解できない、というのが高虎の最大の不幸なのかも知れない。
□ □ □
カフェ白菊に木枯らしが来襲した。という話を高虎が知ったのは、木枯らしこと里佳子襲来から三日後のことだった。一応は当事者というのにそれだけ間が空いたのは、里佳子の話は白井の口から聞くべきだろうという真のらしくない気遣いがあったからだ。
結局話は三日後の昼前、ネクタイピンを落とした、と言いながら店にやってきた高虎に対し、はからずもシドからなされることになった。高虎はとうに知っていると思っていたシドは、とんだ貧乏くじを引いたのだ。
「白井のストーカー?」
「いえ違くて、白井さんの元奥さんのストーカーです。この話、本当に白井さんから聞いてなかったんですか?」
「初耳。ついでに言うと昨日も一昨日もここ来たのに、真からも聞いてないのはどういうわけなんだろ。そんで、その元奥さんのストーカーがどうして白井と結婚したがるのか俺には分からん」
「俺にもわかりませんよ」
「そういえば真は?」
「奥ですよ。呼んできますか?」
「いやいいや。ネクタイピン見つかったら持ってて、て伝えておいて。銀の、フクロウがついたの」
「了解です」
何処でなくしたのかもわからない物を、ここは警察でもないのに見つかったら、と伝言を残す高虎も高虎だが、白井のいたずらならば十中八九この店に戻ってくる。そう踏んでの伝言であり、受諾だった。
珍しくコーヒーだけで高虎が店をでていったあと暫くして、真が右手にサンドウイッチの載った皿を持って店の奥から出てきた。
「あいつに話した?」
「いまだに知らないとは思わなかったんで。悪かったですかね、店長も話さなかった、ていうのに」
「俺は白井さんが話すと思っていたので。ええとごめんねシド君、決まり悪い思いさせて。これお昼に食べて。お詫びに」
「別に藤堂さんにしかられたりとか泣かれたりとかなかったし、謝られることは何もないんですけど、ありがたくいただきます」
「あーあー、全く。よけいな口出しまでして今絶賛自己嫌悪中だってのに、あの二人も、まー……どうしやがんのか」
「というか、どうにかするんですかね。俺は現状維持かなとちょっと思ってました」
「うん今の願望入ってた。どうにかしやがれ、と思っているのです。いい加減」
つき合っているんだから現状維持か破局しかないとシドは思っていたが、真には別の思惑があるらしい。
とりあえず巻き込まれたくないな、とシドは思いながら皿の上を空にした。
高虎の携帯が地獄の黙示録を奏でた。白井から昼飯の誘いのメールだった。
それを自分のデスクでちらりと見て、あいつ本当に盗聴機でもつけてるんじゃなかろうか、と高虎は思う。
二人の会社は駅にすると二駅離れていて、休み時間がきっちり決まっている高虎に比べ、取引先の都合などで時間が一定しない白井は昼休みもあってなきが如しだ。仕事帰りにほぼ毎日会っているような状況でわざわざ待ち合わせ時間をやりくりしてまで昼食をともにしたことなど、数えるほどしかない。
その、滅多にない誘いがよりによって今日だとは。
盗聴機を発見する機械の購入を真剣に検討しつつ、暫く迷った高虎はけれど結局、了承の返事を返した。
指定された店は高虎と白井の会社のちょうど中間にあたる駅から、ちょっと入ったところにある小料理屋だった。上がり座敷があり、腰ほどの高さの屏風でしきられた座敷はちょっとした個室気分を味わえる。昼はおまかせの定食一種類しかなかったが、それゆえに出てくるのも早く、休み時間の決まっているサラリーマンは重宝する店だ。
もっとも少し分かりにくい場所にあり、高虎も白井に連れられて初めて知ったのだったが。
店に着いたとき、白井の姿はまだ見えなかったので高虎は定食を二人分注文し、座敷に上がった。
高虎が座ってまもなく、待つほどもなく白井が現れる。入り口から高虎の姿は見えなかったというのに迷いのない足取りに、発信機の存在を高虎は強く疑う。
白井はそんな高虎の不審を一笑した。
「発信機なんてつけてませんよ。高虎さんの靴が見えたので」
「なんの変哲もない靴だろう」
「わかりますよ。俺は高虎さんのすべてを知りたい男なんですから」
そんなことを堂々と言わないでほしい。定食の膳を二つ持ってきた従業員がぎょっとした顔をしているのに、白井はなんのてらいも無い顔でにこにこ笑っている。
今日の定食が高虎の好きな金目の煮付けだったこともあり暫くは無言で膳を片づけるのに熱中していたが、あらかた膳が空になり、ポットに入った熱いほうじ茶を一口飲んだ後、白井はやおら座布団をよけて畳の上に正座した。つられて姿勢をただした高虎は、いきなり土下座した白井に唖然とした。
「このたびは、迷惑をおかけすることになりそうで、大変申し訳ありません」
「……いや、そんな、取引先にするような挨拶をされても困るんだが。その、元奥さんのストーカーとかいう人の件なのか? 謝っているのは」
「その通りです。俺としてはなんらかの対処をして敵が高虎さんに迷惑をかけられなくなってから話すつもりだったんですが」
「なんで、俺が知ったことを知ってる…!」
「それで、どうしましょうか」
「無視かよ。……どうするって?」
「ストーカー女がどういう手段を使ってくるか、私には分からないんです。高虎さんにもご迷惑をおかけすることになると思いますし、それが嫌だというのなら……」
「……そうですか」
ほうじ茶をずずっとすすり、高虎は目の前で土下座している男を見下ろした。
少し明るい色に抜いた柔らかな髪の似合う優しげな顔をした三歳年下の男。
玄関の鍵穴に瞬間接着剤を塗られたり鍵を盗まれたり携帯電話のメモリーを盗まれたりガンプラを人質にされたり色々された。
高虎さんを幸せにしたいんです、と言いながら、不幸の原因を作り、それを解決する自作自演を続けられて、助けられているのだか酷い目に合っているのだかわからなくなっていた。
可愛いとか好きとか大事にしたいとか全てを知りたいとか、そんな言葉全てが上滑りしているような感じを受けていた。
結婚しないで済む人を好きになろうと思ったって、それべつに俺じゃなくても、恋人にならなくてもいいみたいな、相手の存在まるごと無視した言い様じゃねえの、と何度も思った。
この、目の前で土下座して、お膳を下げに来た従業員が困って下がっていったのを、意識の端にも上らせない男。
もうすぐ昼休みが終わるというのに。会計をしなくてはいけないというのに。
ぐるぐるととりとめなく考えが回り、しまいに高虎はふうっ、と大きくため息をついた。
まあじゃあしょうがないよな、と高虎は思った。喧嘩も修羅場ももう嫌だと白井が言うのだから、仕方ない。ストーカーと男の恋人の対決なんて、白井が嫌う修羅場以外のなにものでもない。
「……じゃあもういいです。いいですよ、別れましょう。悪いけどもう時間がないから、会計はお願いします」
恋人というのは不便だ。と高虎は思った。友達ではないから、恋人を辞めたら他人になるしかない。いい年した大人の他人同士なら、高虎には敬語しか出てこない。すんなりと口から敬語が出てきたが、今の今まで普通に話していた相手に改まった話し方をしていることの不思議を、高虎は考えなかった。
財布から金を引き出しテーブルの上に乗せると、白井が顔を上げて高虎を見ていた。いつもの余裕の笑みのかけらもない、信じられないと言いたげな顔。
高虎は唇の端を歪めて、ちょっと笑みを浮かべた。
「白菊ではこれからも会っちゃうかもしれないけど、なるべく、普通の知り合いみたいに話してください」
「高虎さん」
「さようなら」
高虎は良い置いて、未だ半端に土下座をしたような格好の白井を置いて店を出た。不思議と悲しいとか、そういうふうには思わなかったし過去に彼女と別れたときのように涙も出なかった。午後からの仕事の段取りなどを考えながら車で会社に戻り、頭の中で考えていた通りの段取りで仕事を進められた。いつのまにか定時で残業もなかったが、真に会いに行こうとは思わなかった。
落ち込んだ時はいつも真に話を聞いてもらってケーキの切れ端やらを貰って気のない慰めを聞きながら自分を立て直すのが当たり前だったのに、今回はそうしようとは思わなかった。
(それほど落ち込んでないってことか)
そう結論づけて、高虎はスーパーに夕食の買い物に出た。帰りに自販機でビールを買ったら何故かお釣りがでてこなかった。多分昼間の白井との別れより、220円のおつりが出てこないほうが不幸だと高虎は思った。
「……不幸、なあ」
藤堂高虎は不幸な男である。よく人からそう言われる。今までそれを鵜呑みにしたことも頭から否定したこともない。
今、少し高虎は自分自身を不幸な人間かもしれないと思った。
何故なら高虎は本当に、白井に恋をしていたからだ。
□ □ □
不幸な男、高虎が定価280円、時価500円の缶ビール一本をスーツのポケットに入れてマンションの廊下を歩いていき、自宅のドアノブを握るとがっちりと硬く動かない。ああそうだ鍵をあけなきゃな、と不気味で可愛い蛙がぶら下がるキーリングを取り出し鍵を入れようとしても、なんと鍵穴に鍵が入らない。
「…あー、なんか、この感触には非常に覚えがあるよー…」
何ヶ月か前の接着剤騒動を思い出し、高虎はげんなりと玄関前に座り込んだ。ポケットに入れたビールのプルタブを引き、少しぬるくなったビールを飲む。
こんな阿呆なことをする知り合いは一人しかいないが、そいつとは昼間別れたばかりだ。理由もわからないが、どういうつもりだと電話をするのも情けない。
「しょうがない。JAF…JAFじゃなくて鍵屋か…まずは番号案内だな。よしよし学習してるな俺」
「本当に学習するというのは、先のことまで考えるようになることだと思いますよ、俺は」
「…出た」
「当たり前ですよ。何のために会社早退してまであんたの部屋の鍵穴に瞬間接着剤押し込んだと思ってるんですか。寒かったですよ、非常階段で二時間待つのは」
「…待ってるなよ……つうか、瞬間接着剤は止めてください。今度やったら出てってもらうって大家に怒鳴られたの、知ってるでしょう」
「だからやったんです。それと、他人行儀な話し方はやめてください。あと寒いから早く帰りましょう」
ぐい、と腕を引かれて釣られて立ち上がりながら高虎は唇をとがらせた。白井はコートとマフラーに包まれていたがそれでも顔色は青白く、唇は紫色になっている。二時間待ったというのは嘘ではないのだろう。高虎が帰ってきて、白井に電話をかけてこなくても、良いタイミングで現れることができるように。高虎が寒い場所で悩み続けなくてもいいように。
「俺たち別れましたよね、昼間。ストーカー女が面倒だから、て」
「高虎さんがどうーっしても別れたいと言うのなら、別れようかと思ってたんですがやっぱりやめました。さっき高虎さんから別れようと言われた時、心臓が痛んで死ぬかと思った。だから賭けたんです。もし高虎さんが今日、白菊に寄るか店長さんに会いにいくなら、白菊を燃やす。もし高虎さんがまっすぐ家に帰ってくるなら俺の家に連れて帰る。おかげで犯罪をおかさずに済みました」
「それ賭けって…賭けなんだろうけど、俺の意思とかお前の為に別れてやろうという犠牲的精神とかまる無視ですか」
「彼女の件ではご迷惑をおかけしますが、早めに解決します」
「お手柔らかにしてやれよ……」
手を引かれて廊下を歩きながら高虎はため息を押し殺してそう言った。どうやら自分たちは別れないことになったらしい。
と、不意に白井が車の前で立ち止まり、くるりと振り返って至近距離で高虎と視線を合わせた。
相変わらず笑みのかけらもない顔。そういえばさっき廊下であってから一度も白井の笑みを見ていない、と高虎は思った。
「言い忘れてました。高虎さん、俺と別れたくないって言ってください」
「はあ? ここはお前が俺に別れないでくださいって言うところだろ」
「別れたくないって言ってくれたら………、そしたら、俺は一生あんたのものだ」
「………。俺は一生なんて信じないけど、でも、言ってやらんこともない」
「俺も一生はちょっと言い過ぎましたけど、まあでも一生あんたに捧げても良いですよ。あんたがそれを望むんならね」
藤堂高虎は不幸な男だ。
今も彼は相変わらず指先の棘のような小さな不幸に見舞われ続けている。恋人からの人災も、何故か今になっても止むことがない。
あなたを不幸にするのもそこから救い出すのも俺の役目。
そう言う恋人を持ったのも不幸の一つと言えよう。
けれども高虎は、自分を不幸だとは思わない。たとえ定価280円時価500円のビールを掴まされたとしても、一緒に住む恋人の家に掘られた落とし穴に嵌っても、自分を不幸だとは思わない。
藤堂高虎の最大の不幸は、不幸と言うものに対する、彼の自覚の無さにあるのかもしれない。