5.心理療法士な吸血鬼 ~セラピストなバンパイア~
5.
「具合はどう? なっちゃん」
「平気です。二度目ですし」
日課の検診にやってきた看護師に、夏希は夜着のままベッドに座って答えた。
九条に連なる一族の出である年上の女性は、心得顔でにこりと笑う。
「献血、なっちゃんが言い出してくれたんだって? ありがとね」
「いえ、役に立ってるかどうか」
「勿論よぉ。凪人様が寝込むこともなくなったし、あたしも仕事が楽になって万々歳」
「そんなに酷かったんですか」
「まあ、ね。若いから調整が下手なのよ」
彼女、柊野ささぎは、幼い頃から凪人の健康管理を担ってきた一人である(年齢に触れるのは鬼門である)。夏希にとっても姉のように頼れる存在だ。
「あの……ささぎさん。〝夜獣〟ってどんなものなんですか?」
カルテをつけていた手を止め、ささぎは細い眼鏡の向こうから夏希を見た。
「大様から説明は?」
「受けました。〝人や生き物の負の部分、気の澱みから生まれる闇のもの〟だと。でも……わたしには何も視えませんから」
「視えないから信じられない?」
「視えないから存在しないとは思いません。わたしが分からないのは、なぜそんな相手に凪人さんが戦い続けないといけないのかってことです」
ささぎは腕を組み、くせのあるボブの髪を揺らして少し考えるようにした。
「実は、夜獣はまったく視えないわけじゃないの。――ね、なっちゃん。この世で一番恐ろしいものは何だと思う?」
脈絡を欠いたような問いに、夏希は戸惑った。
無言の返答を待ち、ささぎが続ける。
「人の心、よ」
「こ、ころ?」
「そう。下手な少年漫画みたいでしょう? でも真実。人の心ほど恐ろしくて救いようがなくて、愚かで壊れやすいものはないわ」
グロスを塗ったささぎの唇が、憐れむような微笑を湛えた。その視線が室内のテレビ画面に向かう。天災と人災――近くて遠い、だが確実に、誰かの大切な人が傷ついた光景が映し出されている。
「みんな表には出せない感情を抱えて生きているわ。とくに今はこんな状況だしね。不安、恐怖、猜疑心、恨み、妬み……恐ろしいほど負の感情が入り乱れているわ。
いくら本人が感じていないと思っても、心の奥に溜まったその感情は無意識のうちに――多くは夜寝ている間に放出されるの。それらが寄り凝って力を得たもの、それが夜獣よ」
「じゃあ」
「そう。つまり夜獣は、誰の心にも棲んでるってこと。これを放っておいたら、人は喰われてしまうの。がっぷりと、心をね」
負に心を喰われた人がどうなるか――それは想像できるようでもあり、想像したくない光景でもあった。
「凪人さんは、セラピストみたいなものですか?」
「力を使ってなぎ倒すのがセラピーかと言われると、ちょっと違うけど……近いかもしれないわね」
ささぎは腕をほどき、夏希の座るベッドの隣に腰掛けた。
「実を言うと夜獣狩りを止めたらどうなるか、正確にはあたしにも分からないの。夜獣は狩っても狩ってもすぐに現われるからね。ほんと、元凶からどうにかしたくなるくらい」
元凶というと、つまりは人である。看護師らしからぬ乱暴な発言をして、ささぎは少女のように肩をすくめる。
「だけど、凪人様はこうおっしゃるの。夜獣は人の影だから、人から夜獣をすべて失くしてしまったら、それはもう人ではなくなるだろうと――そんな完璧は不自然すぎると」
ささぎの手が夏希の手に軽く添えられる。
「人は足りなくて無力で未熟で、だけど、そのせいで誰かと繋がれるんだわ。あたしたちの中の夜獣は、誰かと繋がっている証なのよ。だから流神は、力で夜獣を闇に還すの。悪夢を消し去るように、誰一人知らない間にね」
「でも、それじゃあ」
「そう。流神の役目が評価されたり、感謝されることはないわ。本当は九条の表の事業に力を入れて、どこかへ多額の寄附をしたほうが、よほど社会的効果は大きいのよ。でも、凪人様はそうしない」
息を吐き、ささぎは囁くように告げる。
「事業は誰にでもできる。だけど、夜獣を倒すことは自分にしかできないからって」
いつの間にか夏希の目には、熱いものが滲んでいた。零れかけるそれを服の袖で拭う。
「もったいないって、凪人さんに怒られちゃいますね」
「泣かせたことを怒られそうだわ。今の話、凪人様には内緒ね?」
「はい」
「なっちゃん、凪人様をよろしくね」
「……」
「荷が重いわよね。だけど、みんなの負を一身に背負う凪人様を癒してあげられるのは、なっちゃんだけだから」
「……癒して、あげられているんでしょうか」
その言葉に、ささぎはやさしく両目を細めた。
「当たり前じゃない。だって、そうじゃなきゃあなたの膝の上であんなに安らかな寝顔、見せたりなんてしないでしょう?」
§ § §
今日も、夏希は深夜の勤務を始める。体を清め真新しい夜着を着て、ソファに腰掛けて彼の帰りを待つ。
真っ暗な闇を背負って生きる男のために。その彼に、この言葉かけるために。
――夜気と共に、窓が開け放たれる。
「お帰りなさい、凪人さん」
そして、彼に束の間の安息をもたらすために。