2.純和風な吸血鬼 ~ジャパネスクなバンパイア~
2.
出逢いは偶然だった。
路駐していた凪人の乗った黒塗り高級車に、夏希がママチャリで突っ込んだのだ。原因は、妄想の世界へ旅立ちがちな夏希の完全なる前方不注意である。
時刻は逢魔が時。直前で車に気付いた夏希は、避けようとして結果、芸人も嫉妬するほどの見事な一人転倒をみせた。
すぐに後部座席にいた凪人が降りて心配の声をかけてきたのだが、夏希がすり傷のできた手を見せた途端、態度が豹変した。
彼女の手首を掴んで引き寄せたと思うと、その手をぱくりと食んだのである。動物さながら丹念に傷を舐め、彼はおもむろに艶やかな唇で、さらに艶のある低声を紡いだ。
「君、何者?」
「……それは全くこちらの台詞です」
多分、いやおそらく。
夏希がことあるごとに凪人の言葉に突っ込みを入れてしまうのは、この出逢いがきっかけであるといっても過言ではない。
§ § §
笑いが漏れたのか、こぼれた息が前髪にかかり、膝上の男が薄目を開けた。
「なに?」
「いえ、最初に逢った時のことを思い出して」
「そんなに楽しい出逢いだった?」
「だって凪人さん、いきなり〝君、何者?〟って訊いてきたんですよ? あ、今は凪人さんの普通を知ってますから、それが当然の反応なのは分かりますけど。あのときは、何も知らなかったから」
『――君の力を僕に分けて欲しい』
「白昼堂々あんな台詞を言えるのは、日本広しといえど、凪人さんくらいですよ」
「そういえば君は、あんまり僕を怖がらなかったな」
「驚きが先で。でも、怖くはなかったですよ」
「この眼も?」
夜よりも深い紺玉の双眸が、夏希を至近で見上げる。
「ハーフかクウォーターだと思ったんです。碧眼はありでしょう?」
「僕は生粋の日本人だよ」
「その足の長さで、どの口がそう言いますか」
「日本人離れとか言われても、元がこうだからよく分からないな。居合も古武術も日舞もお茶もお花も書道も物心つく前から習ってるし」
「凪人さんはおぼっちゃんでしたね」
「家に纏わりつくものが大きいだけだよ」
簡潔に答える凪人の声は硬い。
彼はここ神籬市の旧家の跡継であり、一族の総帥という立場である。その一族とは、特殊な力を持ち人々を災いから守るという、なんともファンタジックな極秘の血族なのだ。
力は血によって受け継がれ、直系の〝九条〟がもっとも強力だ。その力を発揮できるものを〝流神〟と呼び、逆に力をもっても充分に発揮できないものを〝止神〟と呼ぶ。
凪人はこの流神のうち最強の存在であり、夏希は――本人に全く自覚がないが――その対極とも言える最強の止神なのである。ちなみに凪人との血縁は0.006%程度。この出逢いがなければお互い知ることもなかった間柄だ。
流れ出す力は睡眠や力の満ちる場に行くことによって再び充填できるが、簡単で身近な回復法が力持つものの体内成分の摂取だ。
力の枯渇していない流神からも力はもらえるが、力を溜め込む止神からもらうほどに効果はない。そこで、夏希の登場となるのである。
――力、ねえ……。
じっと空いている手の平を見つめる。こじんまりしたそれは、何ひとつ特別には見えない。毎夜凪人が命をかけて戦っている相手も、夏希は視ることができないのだ。
ただ分かるのは、帰宅した凪人が疲労しきっていることだけ。
「夏希。何を考えてる?」
「いえ、凪人さんの着物姿の妄想を」
言葉が途切れ、夏希の指から零れるさらさらという髪の音が沈黙を埋めていく。
「うん、似合いそうです。袴より着流しがいいかな」
「僕は夏希の着物姿が見たい」
「着ましょうか? 着付けが大変なので特別手当を請求しますけど」
「特別手当を出せば何でも着てくれるの? セーラー服とか」
「へんt――」
言いかけた夏希の頬を、凪人の指が摘んだ。
「正常な青年男児の嗜好だよ。ナース服も捨てがたいけど」
「今すぐ即刻、膝枕外してもいいですか」
「職務放棄する気?」
聞き返され、夏希はうう、と呻きつつも、髪を撫でる手を再開させた。なでなで。
「なんで男の人の好みって偏るんですかね。髪を切ったら〝長いほうがよかった〟とか、ピアス開けたら〝そんなことする子じゃないと思ってたのに〟とか」
なでなでなでなで。
「ハイソックスはよくてレギンスはダメとか、タイツはダメでストッキングはOKとか、スカートはタイトかラップがいいとか!」
なでくりなでくりなでくりなで――。
「……夏希。僕の髪、すごいことになってるみたいだけど?」
語りに力が入りすぎて、撫でるほうも勢い余ったらしい。鳥の巣のようにもつれた凪人の頭を、夏希は慌てて手櫛で直した。
癖はあっても絡まりにくい黒髪は、すぐに元のように指間を滑りぬける。
「夏希。さっきの話を言ってきた相手って、誰?」
「前職の同僚ですよ。いろいろうるさい男で」
「ふうん。じゃあ、今はもう逢うことはないね。よかった」
「何がですか?」
「……いや。そろそろ寝ようかな」
「喋りすぎましたね」
「ううん。お休み、夏希」
告げる声が焦点を失ってぼやける。夏希はそっと微笑んだ。
「お休みなさい、凪人さん」