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1.雇用主な吸血鬼 ~オーナーなバンパイア~

1.


 野沢夏希のざわ なつきが転職して1ヶ月。


 その事実にさして感慨を覚えることもなく、夏希は淡々と、洗い終えた体を肌触りのよいタオルで拭いた。

 時刻は24時。これからが勤務時間だ。

 清潔な夜着に袖を通す。頼み込んだのでネグリジェではなく、チュニックとズボンの上下だ。これも仕事着。

 肩にかかる髪を丁寧に乾かし、化粧水と乳液を薄めに。あまりギトギトだと雇用主が嫌うのだ。香料もない。最初は化粧水すら拒否されたが、ゴリ押――交渉したのだ。

 自分の身は自分で守るのが独身女性の鉄則である。


 鏡の向こうに立つ26よりも幼く見える女性から目を背け、夏希は仕事場に向かった。そこは西向きの大きなテラスを備えた趣のある一間で、雇用主に与えられた私室でもあった。

 中央の、クッションの並ぶ三人掛けソファの右端に腰を下ろす。照明は落とされ、数個の蝋燭の灯が夜をあわく照らしている。

 溶けた蝋が丸く滴りを作る頃、風とともに正面のフランス窓が開き、漆黒の影が現われた。

 夏希の雇用主――九条凪人くじょう なぎとだ。

 白皙と呼べる顔立ちは、だが白というより蒼ざめて見える。宝冠のように頭部を飾る黒髪。長身を包む黒のロングコートは夜風に波立ち、すべてを圧して存在感を放つ紺玉の瞳は夜よりも深い。


「お帰りなさい、凪人さん」

「……ただいま」


 ごく自然に出迎えの言葉をかける夏希に、艶のある低音が応えた。乱雑にコートが脱ぎ捨てられる。夜空を切り抜いてきたごとく床に広がるそれに、夏希が眉を顰めた。


「ちゃんとコート掛けにかけて下さいよ」

「後でする。――ほら、早く」

 うながされ、夏希は仕方なく仕事に戻った。背中のクッションを整え、ソファに深く座り直す。そして、合図の言葉。


「いいですよ」


 最後の〝よ〟が言い終わると同時に、彼がソファに倒れ込む。

 足は反対側の肘掛け、頭は夏希の膝の上に。


「……疲れた」

 ため息の混じる呟きが吐き出される。夏希は指先で、凪人の乱れた黒髪を額から除けた。

「働きすぎですよ。今日はどうでした?」

「いつもと同じ、かな。でかい夜獣やじゅう3匹」

「いつもと同じなら大丈夫ですね。お疲れさまです」

 

 髪に指を通し、そっと梳くように何度も撫でる。青白かった凪人の頬が、ほのかに薔薇色を帯びた。

 人に戻る瞬間だ、と夏希はいつも思う。


「凪人さん、ちゃんと血は飲んでるんですか? ……凪人さん?」


 二度目の呼びかけに、膝上の男は閉じかけた瞼を嫌そうに持ちあげた。

「夏希は、どうしても僕を〝吸血鬼〟にしたいんだな」

「同じようなものじゃないですか。ピルケース、見せて下さい」

「なんだか君、聖護院しょうごいんに似てきた」

「彼に比べたら、わたしなんてアリンコです。ほら」


 しぶしぶ凪人が、上着の内懐から財布大のケースを取り出す。右手はそのままに、夏希は器用に左手でケースを開けた。特殊な四重構造を持つそこから冷気が白く立ち昇る。


「1個しかカプセル減ってないじゃないですか。せっかくヒトが痛い思いしたのに」

「普通そこは採血の回数が減って喜ぶところだと思うけど?」

「ナマモノは鮮度が命ですよ。MOTTAINAIは日本の心です」

「勿体ないから少しずつ」

「本末転倒なこと言わないで下さい。気を遣うんなら、きちんと体調管理してわたしの仕事を減らしてくれればいいんです」

 ケースを閉じ、文句を言いつつも夏希の右手は動きを止めない。なでなで。

「第一この方法じゃ回復に時間がかかるって、凪人さんが言ったんですよ?」

「そうだけど」

 凪人は目を閉じ、体を丸めて横を向く。白い指の間から、するりと闇色の髪が逃れた。


「なんで、他人の体内成分から補わないといけない力なんて在るんだろう」


 体内成分。つまり血液、体液、唾液、涙、汗、そして呼気。

 凪人は、夏希の息と皮膚から蒸散されるわずかな水分により、失った〝力〟を補充しているのだ。


「夏希。僕が、怖い?」

「怖くない雇用主なんていませんよ。でも」

 夏希は手を伸ばし、再び彼の髪に指を滑らせた。なでなで。

「わたし、わりとこの職が気に入ってるんです。雇用主は我が儘ですが、お給料は前の倍は頂いてますし。住み込み必須とか時代錯誤も甚だしいですが、生活保障は充分ですし、有休も社会保険もついてますし」

「……評価と非難を一緒にするのは止めてくれないかな」

「見張り役の彼はまったく気に入りませんが、貴方を心配することにかけてはわたしと並ぶくらいですから」


 紺玉の瞳が、やや驚いたように夏希を仰いだ。


「膝枕はいつでもしますし、献血だって平気です。だけど、毎晩倒れるように帰ってくる貴方を迎える身にもなって下さい。わたし……いつも」


 夏希の声が震えた。

 凪人は自分を見下ろす瞳に浮かぶ雫をぬぐい、愛しむように、指先に載ったそれを舐めとる。


「……凪人さん」

「ん?」

「それは、別料金です」


 ぐす、と鼻をすすりながら告げられた言葉に、凪人は血色の戻った顔をやわらかくほぐした。


「君の商魂には感心するよ」

「せめて仕事魂と言って下さい」

「では、仕事魂の立派な夏希さん。僕はもう寝るよ」

「はい。お休みなさい」


 その声にもういちど微笑み、凪人は目を閉じた。


「……お休みなさい、凪人さん」



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