サマーレコード・ホライゾン Ⅰ
画を描く。無心に、熱心に、ただただ只管に筆を動かす。
描くものは、花瓶に納めた数本の向日葵。赤みを帯びた黄色の花弁と、橙にも似た暗く明るい茶色の螺旋を為す種達を描く。
フィボナッチ数列を描く美しき自然の形。眩い、太陽の如きその花を象って行く。
「向日葵、好きなの?」
「いや、別に」
別に向日葵が好きな訳では無い。この季節に手に入りやすい、色彩の綺麗な題材だった、というただそれだけの理由だ。
偶には暗色だけで無く、鮮やかな赤や黄色を使いたかった、というただそれだけ。
「えー、でも、ゴッホって向日葵の絵で有名な人でしょ? 『星月夜』とか飾ってるんだから、向日葵も好きなのかと思ってた」
些か、驚いた。彼女が『星月夜』を描いた画家がゴッホである、としっている事に。そこから彼の描いた他の作品に結び付ける、なんて普段の間と気の抜けた言動からは見抜けない、知性の発露だった。
「ゴッホの画が好きだからといって、本物の向日葵まで好きになる訳が無いだろうが。気が散る、黙って画を見ていろ」
僕は写実に拘っていたが、別にそれを他人に強制しようというつもりは無い。僕が個人的に拘り抜いていただけで、写実以外を嫌っている訳では無いのだ。現に、ゴッホもモネも印象派の画家だ。
現に彼等の作である『星月夜』も『睡蓮』も僕は好きだ。
「そっか。ま、そりゃ絵と本物は別だしね。私だってホームズとか好きだけど、現実的にお付き合いしたいかと聞かれたら嫌だもん」
「……ホームズは良いだろ、ホームズは」
「え、シャーロキアン? ……以外……いや、そうでもないかな? 偏屈で理屈っぽくて性格悪い所とかそっくりだしね」
彼女はくすくすと鈴の鳴る様な柔らかな笑みを溢した。
宙をゆらりと泳いで僕の背後からカンヴァスを覗き込んだ。物理法則を無視したその挙動、その蒼と白の色彩が視界の隅を掠める度に意識の焦点が向日葵から揺れ移る。
「……お前、人を何だと思ってる」
罵倒にも似たその台詞に、溜息を一つ零す。
絵筆の先を水で洗い、パレットから新たな色を載せる。
「彼は論理の徒だ。観察と事実から、真実を推論し、真実を解き明かす解明者。究極の写実主義とも呼べる。その論理性は、見習うべきだろう」
「えー、論理的ぃ? 結構私情で動いてたりしなかった? それこそ、暇な時はお薬やってたし、ヴァイオリン弾いてたでしょ」
確かに、コカインに手を出したりストラディヴァリウスを自慢したり、即興で曲を作ったりはしていたが。
人間性と、その論理性はまた別の話だろう。
「……論理性、と言っただろう。彼の人間性はカスの部類だ」
その言葉に、彼女はこてんと首を傾げた。
「自嘲?」
「くたばれ悪霊」
「もう死んでるもんねー」
軽やかな、何処までも重みのない声色。
鏡に写る事も無く、影を落とす事も無い不条理で異常な存在。
だと云うのに、痛ましくも美しい圧倒的なその感情の奔流を持つ彼女の、その姿が腹立たしい。
「チッ……」
舌打ちを一つ。意識を無理矢理カンヴァスに引き戻す。
向日葵の中心、種子が為す螺旋構造。フィボナッチ数列を織り成す自然の被造物に、内心舌を巻きながら色を重ねる。
意識が薄れ僕そのものが画を書く機構と化した様な錯覚と幻想。熱心に、ただただ筆を動かして行く。
集中の海に意識が溶けた、その最中。
──りぃん、と澄んだ呼び鈴がなった。
折角集中していたのに邪魔が入った。
「悪霊、少し見てこい。下らない要件だったら無視する」
「えー、良いよ〜。ちょっと見てくるね────はい、見てきた。配達だね。何か頼んだりしたの?」
彼女は壁を通り抜けて、あらゆる構造と障害を無視して玄関口に向かって行った。暫くして、壁からにゅうと頭だけを突き出して報告してきた。その様を薄気味悪く思いながらも、溜息と共に腰を上げた。
「……何か頼んだ記憶は無いぞ」
憂鬱に成りながらも玄関口まで向かって行く。そっと随伴してくる悪霊の、何やらわくわくした様な表情が何故か腹立たしい。
「錦木さんですね? お荷物はこちらです。あ、それとサインお願いしまぁす!」
闊達とした声色の青年は、何やら発泡スチロールを手渡してきた。伝票を見るに、何やら食べ物らしい。送り主は──
「安倍立夏……何を送ってきた……?」
去って行く配達人を横目に、発泡スチロールに手を掛ける。
長方形の、細長く大きな真白の塊。掌と発泡スチロールの擦れる嫌な音に僅かに口元を歪めながら、蓋を開く。
「おぉ、スイカ。立派な奴〜。安倍さんこんなの送ってくれたの? 良い人じゃん」
同梱されていた便箋には、先日の謝罪に、と時候の挨拶やら何やらと共に書かれていた。丁寧な筆跡と、質の良い紙の手触りが指に心地良い。その反面、酷く不気味な気分にもなった。
何故、彼は僕の住所を知っているのだろう──。
「……2個も一人で食えるか」
彼が送ってきた西瓜はかなりの上物。大玉で色の鮮やかな、ざっと見ただけで高級品と分かる気品を持っていた。
だが、困る。西瓜なんて手に余る。悪霊は物を食べられないし、僕だって大食いという訳では無い。
痛む前に2つも食べきれるだろうか。
「切って切って、一つ切って。食べようよ、それでその味とか教えてよ〜」
駄々を捏ねるように空中でドタバタと暴れ狂う悪霊。その様は悪霊らしい暴れ具合だ。それは色鮮やかな感情の具現であり、彼女を彼女たらしめる本質だ。
だが、みっともないにも程がある。
「……今日の昼食代わりだ」
その余りのみっともなさに折れる様に呟いて、西瓜を発泡スチロールに収め直した。
「あー! そうだ、やりたい事! スイカ見てたら思い出した!」
彼女の発作はいつも唐突だ。僕の穏やかな日常を斬り裂く流星の様に、唐突に口を開いて我儘を言う。
聞き入れなければジタバタとそこら中を飛び回るのでたちが悪いにも程があった。
「はっ。薄々思ってはいたが……何だ、典型的だな悪霊。スイカ割り、とでも言うんだろう?」
「違うけど、半分位合ってる気がする! って、そうじゃなくて! 私、海に行きたい! 海で遊ぼうよ、沙也君!」
ふわふわと虚空で左右に揺れ動く彼女の姿。蒼と白の夏服は、彼女の動きによってのみ揺れ動くという理不尽さ。
理不尽で異常なその現実は表現者に対する挑戦であり、造形者に対する嘲笑だった。
「……す、ぅ……何故、海に? そして何故、西瓜から海に繋がるんだ。まさか、西瓜割り=海、という雑で馬鹿馬鹿しい阿呆の方程式なのか? 脳をチューニングし直せ愚物」
「最近口数増えたと思ったら口悪過ぎない? もうちょっと優しくしてくれても良いんじゃない? 私、立派な女の子だよ?」
「ふん、『女の子』というものは宙を飛んだり、物質をすり抜けたりするものか」
馬鹿馬鹿しい程の我欲と我儘。そういった人の情動を厭って東京から逃げ出したというのに、ここでもそんなものに直面するとは。
だが、不思議と悪い心地はしない。それどころか、僅かに口が綻ぶような、不可思議な情動があった。
「良いだろう、悪霊。行ってやろう、海に。だが、僕は遊ばないぞ。一人で勝手に遊んでろ」
「やった! あ、でも西瓜はちゃんと食レポしてよね。海で食べるのも良いけど、重いからそれは許したげる」
恩着せがましいその言葉を聞き流しながら、キッチンに西瓜を一つ運び込んだ。木製の明るい茶色をしたまな板を取り出して、丁寧に研いだ包丁を一振り手にした。
「え、硬……こ、のォ……!」
包丁の鈍い鋼色に目を写しながら、その峰を左の掌で押しつつ西瓜に押し当てる。深緑と黒の特徴的な模様の中に、僅かに鋼が沈み込む。が、中々刃が沈んで行かない。有り体に言えば、西瓜の皮が硬かった。
「え、へなちょこ……引きこもってばかりだから力弱いんじゃない? ちゃんと外に出ないとね」
「うる、さい……!」
全体重を掛ける様にして、少しづつ皮を切り開いて行く。深緑を蹂躙する鋼の鈍光、苛立ちの籠った包丁の刃が少しずつ皮を破壊して内部の赤を露呈させて行った。
皮さえ切ってしまえば、後は幾分か楽だった。果肉は柔らかく、瑞々しく、甘い香りと溢れる程の果汁を湛えていた。
「漸く、切れた……」
溜息を溢しながら、2つに切り開いた西瓜の断面に目をやる。
皮目の僅かに緑がかった白と、果肉の赤のコントラスト。瑞々しい赤の断面に混ざる、黒い種子が如何にもらしい。
「おぉ真っ二つ。綺麗に切れたねー。……でも、この量食べきれるの?」
「馬鹿な事をを言うな。ここから四分の一にカットする」
手早く果肉を斬り裂いて、皮を断ち切る。掌に付く僅かに粘ついた果汁が淡く甘い香りを放っていた。
「おぉ……すっごい美味しそう。私が食べてた奴と何だか違う気がする……」
適当な皿に、カットした西瓜を並べた。
鮮やかな赤と、その表面に浮かぶ透いた雫が浮かび上がり、日の灯りを反射して宝石の様にキラキラと煌めいていた。
「……む……」
一口食んで、思わず息を呑んだ。暴力的な、砂糖にも似た恐ろしいまでの甘味。口内に溢れ出す濁流の様な果汁と、しゃくりと歯応えの良い果肉の触感。一口で分かる程の、高品質。日本の高級フルーツに共通する、恐ろしいまでの、しかし自然な甘さだった。
「え、そんなに美味しいの?」
「……チッ……あぁ、クソっ……腹立たしいが、確かに美味しい。砂糖の様な甘味でありながら、後味の爽やかな自然な甘さ……喉を潤す、過剰とも云える水分……青臭い、けれど不快では無い瓜の香り……一流だよ、間違いなく」
安倍立夏が送ってきたこの西瓜は、恐ろしく悍ましい程に甘く、美味い。間違いのない贈答品だ。謝罪の為にこんなものを、二玉も送り付けてきた彼に、思わず感謝の念を抱いてしまった。
彼の真意は読めないと云うのに。
「え、偏屈な君がそんなに言うとか、本当に美味しいんだ……良いなぁ、私も食べてみたい。……けど、仕方ないか! うん、君の食レポで満足しとく!」
彼女はにこやかに、微笑んだ。何処か哀しげな、柔らかな笑みを浮かべて。




