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蒼を名に冠す、君を。  作者: 夜月詠
Chapter 2
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サマーレコード・カプリチオ Ⅱ

 悪霊の喧しくわざとらしい『きゃー』という悲鳴が、耳に遠く木霊する。


「もー、飛ばし過ぎだって! 付いてくのも疲れるんだよ?」


 飛ぶように過ぎ去っていく瀬途の蒼い風景と、楽しげな声色で文句を言う彼女。疲れる、疲れると言いながらも、その声に疲れの二文字が混ざる様子は無い。

 天真爛漫、或いは快活な阿呆。元気の有り余る、生者よりも生者らしい幽霊(しにん)というその矛盾。


「は、それは何より」


 思わず、僅かな笑い声と共に言葉が溢れた。


「性格悪ぅ。性根が歪んでるー! この、偏屈、陰険、絵画狂い!」


 飛ぶように過ぎ去る風景の数々がそうさせるのか、それとも陽光を浴びているからか。鬱屈とした感情が、明るく拭いとられた様に透き通る。


「! 止まって!」


「急に叫ぶ、な──」


 振り向くと共に、絶句する。

 背後に居た悪霊が、指差すその先にある絶景。橘坂の神社に至る、その途。切り開かれた山道から僅かに除く、港町の煌めき。

 凪の日の、鏡の様に煌めく反射光と、夏の陽炎が産み出す幻想風景。何一つ特別な事の無い、けれど特段美しいその威容。


 ただの街並みと、ただの海原。

 山道の、建ち並ぶ木の隙間から、単なるソレが見えるだけなのに。


「────」


 言葉を忘れる程に、綺麗だった。


「綺麗、だよね。君もそう思うよね!」


 何の根拠があるのか、嬉しそうに自分(かのじょ)と僕の感覚の一致を語る彼女の横顔。死蝋の、青褪めた(しろ)すぎる白に混じる、表現のしようのない色彩。

 僕の目が曇ったのか、分析出来ない色の交わり。


 呪わしい、僕の未到。表現出来ない僕の敗北。

 けれど。どうしようも無く、羨ま(うつく)しい。


 震えた手が、荷物鞄を漁り出す。指先の感覚のみで辿る、スケッチブックとパレット。おそろしく手に馴染む、その感覚を掴みだして。


「────────あぁ、綺麗、だ」


 その衝動を絞め殺す。

 未到たる敗北に、今の僕は相応しくない。写実に、冷徹に、厳格に、理想も空想も混じらない様に世界を切り取るという行為を行えそうにない。

 だから、描かない。僕の写実(りそう)に、僕が届かない。


「君の、やりたいようにやれば良いと思うんだけどな。私はそうしてるんだし、君もそう……うん。出来ない、か」


 彼女に、何が分かるのか。理由の分からない、儚げな、淋しげな、振り切れてしまった様な笑みを零す。

 重なる事が無いと分かっている筈なのに、絵筆を握る力の籠りすぎた手に、手を重ねた。


「私は死んじゃったから、そういう(おもさ)、千切れちゃってるんだよね。でも、君は生きてるからそういう鎖に縛られてる。

 私はもう、何も無いし、何も失わないから良いんだけど」


 その声色に、滲む虚無。僕が美しいと定義してしまった色彩とは相反する、されど美しい写実(ゼロ)の彩色。


「……君は、そういう大切なものがまだ有るんだよ。良いじゃん。生きてる、って感じがする!」


「この重さを、この苦痛を、この感情を……お前は、"良い"と、そう思うのか……?」


 ふと、風が吹く。山頂から海まで駆け抜ける、卸風。

 碧い葉々を吹き散らしながらどこまでも自由にそよぐ、青い風。


「死者は何も感じない。触覚も、嗅覚も、味覚も……温度だって、感じない。死んで、終わってしまっているから。

 視覚()聴覚(みみ)だけがきちんと機能する」


 何を言いたいのか、彼女は笑む。


「だから、これは紛れもない私の本音。他の何の影響も受けない、正真正銘、(わたし)から産まれた私の感情(ことば)


 それは、純粋な知覚。

 生物学的な反射で無く、魂が抽出した究極の主観性(クオリア)。外界の情報で移ろう事の無い、彼女の心象。


「だから、私は。君は。

 ──見たものを、感じたままに描けば良い」


 陳腐な、聞き飽きた芸術論。

 けれど、それは。到達困難な、理想そのもの。


 芸術とは、究極的に。人の心に由来するのだから。だからこそ。

 だからこそ面白く、だからこそ美しい。


「……ふん。そんな事は、知っている」


 スケッチブックとパレットを、丁寧に仕舞い込む。

 少しでも純粋に、この風景を見るために。今は、何もかもを忘れてただ眺める。その芸術論に、辿り着く為に。


「もう! 可愛げが無いんだから!」


 あぁ、と吐息が溢れる。

 残酷で、酷薄な、悍ましい程に美しい彼女と、世界を。その色彩を、知る為に。


 ──世界は、こんな色をしていたのか。


「──よし! 行こう、沙也君! ここも綺麗だけど、実は山頂の神社の方がもっと綺麗なんだよね!」


 心地良い沈黙を裂く、明るい音色。

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、彼女はサドルの後ろ半分辺りに跨るように浮かんでいた。ぽんぽん、と前半分を叩く様な動作で僕に向く。


「良いだろう、行ってやる。ついでに、お前のくだらないお参りとやらにもな」


 山道の、緩やかな傾斜を帯びた坂道を登って行く。

 途中までは、立ち漕ぎをして。途中からは自転車を押して。緩やかな山の頂へ。その頂上に座す神域へ。


 ふと、木々が開けて光が差した。蒼天を覆う深緑の、その粧いのとれた山頂。切り開かれた木々の中、僅かに天を閉ざす木の下に、古い社の、カタチがあった。

 石造りの鳥居と、古く汚れていながら丁寧に手入れのされた小さな神社。


 静謐と清浄に満ちた、ある種の異界。鳥居を潜った途端に薄れる蝉時雨の絶叫が、空気感の変質を証明していた。


「ふふん。此処が、橘坂神社だよ。此処はね──」


 何やら語りたそうに口を開いた悪霊を制止する。目線は無く、声も無く。ただ背後に左手を回して人差し指を一本立てて、黙れと指示を出した。


 神社の静謐の先、拝殿正面の賽銭箱。

 そこには、静々と社に参る人影があった。


「おやおやァ? ご覧よ、(ゆかり)君。此処で人に遭うとは珍しい事もあるものだね」


 丁寧に肩口で切り揃えられた黒髪を風に揺らす一人の少年、或いは青年。端正な顔を、何が面白いのか愉快そうに歪めた彼は此方を見るなり、傍らに控えていたもう一人に話し掛けた。


「立夏様、人様をその様にジロジロと視られるのは失礼でございます。貴方の目線は唯でさえ不躾なのですから、お控え下さい。

 出来るだけ人を見ない様に、頭下げ目に生きてくださいね」


 夏真っ盛りだと云うのに、黒いスーツと揃いのスラックスでぴしりとした印象に固めた一人の女性。声色一つ変える事無く、辛辣な言葉を口にしながら二礼二拍手一礼の礼拝作法を淡々と熟していた。


「うむ、いつもながら辛辣だァ。それはさておき……やーやー、地元のお方。……だよね? 地元の人だよね? そうでなきゃ、私、変な人になっちゃう」


 変なのに目を付けられた、というのが正直な感想だ。

 ただでさえ変な悪霊が居るのに、変な組み合わせの観光客なんて勘弁して欲しい。


「……まぁ、そう、ですが」


「そりゃァ良かった。見れば分かる通り、私達は観光客だ。

 で、この当たりの観光スポットも荒方回った所でね。地元のお方に聞きたいのだけど、何か良さげな所とか無い? こう、何か良さげな感じの」


 そんな事を言われても、困る。僕は確かに、瀬途(じもと)に住む人間ではあるが、地域に詳しくなど無い。逃げる様に越してきたばかりだし、そも、大抵の人付き合いも絶ってアトリエに籠っている。


 強いて言うなら──


「山道を降って最初の交差点を西に行った先にある公園。瀬途の美しい海を一望できます」


 彼女と始めて出逢った交差点の、その向こう側。

 僕の美しいと思う、その風景が広がっているあの場所。あそこは特段秘匿する様なものでもない。

 スケッチに行っていた頃も、時折人が散歩していたから。


「へぇ、そりゃァ良い。地元のお方が言うなら、間違いないだろう。助かるよ。また一つ、時間を潰す種が出来た」


 ちょいちょい、と彼は傍らの女性を手招いた。

 遠目に見ただけでも分かる程に仕立ての良い衣服が、風に揺れる。夏らしい、青いシャツとアンクル丈の白いチノパン。

 その振る舞いと衣装に、滲む余裕と華美。綿に染みる水の様に、染み込んでいる事が当然であるかの様な流麗な立ち居姿。


「縁君、メモを頼むよ。あァ、それと、もう一つ」


 良く知っている、その気配。

 しかし、似ても似つかぬ真性のそれ。


 上流階級──或いは、それに近しい立場故の、その所作。

 僕の画を求めて嗤う彼等の様な、而して異なる、高貴ささえ感じる不可思議な在り方。骨の髄まで染み込んだ、尊い血の気配。


「錦木沙也。錦木夫妻の忘れ形見。神童と天才の称号()を恣とする君」


 三日月の様な細い視線。閉じられている様にも見える、その眼が、真っすぐに僕を射すくめた。

 否、真っすぐに射抜かれた様な、精神の強張り。

 実際に射すくめられた訳では無いというのに、心の奥底まで覗かれた様な、嫌な感覚が止まらない。


「……一つ、サインを貰っても?」


 どくんと心臓の跳ねる音が聞こえた。

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