サマーレコード・ファンタズム Ⅲ
風を切る感覚、というのは存外心地良い。熱気を帯びた瀬戸内の潮騒。僅かに薫る潮の匂いと、海の囁き。
白亜の街並みと、蒼の空と、紺碧の海。輪郭の溶け混じる空と海の境界線が、水晶の様に光を弾く。
白を主軸に黒を混ぜ、蒼を足したその色彩。幾らか青みの強い銀色の、フラクタルな煌めきを一体どう表現したものか。
光の反射角を考察し、大気の湿度を思案する。
ふと、思う。否応無く、彼女の死を突きつける既に終わった肌の色を。死に絶えた彼女の、色彩を。描くならば何を混ぜようかと。
描きたくもないのに、思考は回る。彼女という世界を捉え、解体する。
「何か用? あんまりにもじろじろ見てくるものだから、気になっちゃった」
「……ふん。人間にしか見えない化物を観察していただけだ。何かの表現に使えるか、と思案していた」
人間にしか見えない、死に絶えた少女。
物理法則に真っ向から逆らって、人類の積み重ねを嘲笑うかの様な彼女。光の当たり方から、影の落ち方。重力感から質量まで。何から何まで、異常尽くし。
描いた所で現実味の無い無茶苦茶具合。許されよう筈もないのに、彼女は何よりも現実で。
許せない筈なのに、目が引き寄せられる。
この衝動を、僕は技法として掌握できるのか。
「あ、あそこあそこ。あのスーパー。夏になると、いっつも瓶ラムネを売ってるの。去年は夏中ずっと、眺めてたんだ」
鮮烈な色彩をした彼女の姿は、どうやら本格的に、僕以外には見えないらしい。それが妬ましく、呪わしく、僅かに──。
思考を払う様に、自転車を停める。暑い日光に眉を顰め、足早にありふれた売り場に踏み込んだ。
「どれが良いんだ」
賑やかな店内と、冷えすぎた位に冷たいスーパーの冷気。
活気に沸く人混みが、澱んだように粘度を帯びて思考を溶かす。
膿んだ空気を吐き出すように。瓶ラムネを一つ手に取ってみる。
僅かに透いた蒼い瓶に封入された、月の雫。二酸化炭素を溶かし込んだ酸性の揺らぎ。僅かな震えが伝う度に、細かな気泡が浮いては消える。
栓として籠められたビー玉の、透明に透いた煌めき模様。僅かな光の当たり具合で、無限無尽に変化する光学現象。
見るもの次第で価値の変わる、無為と有為の相転移。
「んー……ねぇ、ぶっちゃけどれも変わんなくない? 蓋の色が違う程度じゃん」
去年はずっと眺めていたのでは無かったのか。いざ手に取るとなると、途端に価値を見失ってしまったのか。
「チッ、それなら早く言え」
声量は抑えて、声を出す。彼女の姿が余人に見えないのなら、傍から見れば僕は一人ぶつぶつ喋り続ける不審者だ。
今も、会計に並んでいる主婦が、僕の方にちらりと意識を向けてきていた。
「……どれも同じと言っているが、お前、夏中これを求めてたんじゃなかったのか」
誰にも聞こえない声量で、囁くように呟いた。
何故、そんな事をする気になったのか。この夏の暑さで気が迷ったのか。
「何か言った?」
会計を手早に済ませて店内に背を向ける。
自動ドアの僅かに油の切れた駆動音。滑らかに開いた瞬間、雪崩込む様に襲い来る夏の熱気。主婦の視線も、冷えすぎた冷気も、何もかもを過去にする蝉時雨。
じとりと、汗の滲む不快感。全くもって不愉快な、夏の熱気が叫んでいた。
自転車に跨り、帰路に着く。車輪が回る度に、籠の中の瓶ラムネがカチャリと跳ねてビロードの音を鳴らす。
高く澄んだ、硝子の音色。和音と不協和音の狭間の旋律。
「ねぇ、まだ飲まないの? もう周りに人は居ないよ?」
「お前、生ぬるいまま僕に飲ませる気か。飲むのは僕なんだから、せめて冷やさせろ」
呑気に揺れる悪霊の、間延びした発声。
「え、生ぬるいの、それ」
「当たり前だろう。店先に陳列されていたモノだぞ。冷えている訳が無い」
如何に冷え店内だろうと、流石に冷蔵庫程に冷たい訳では無い。
店先の大棚に陳列されていたこのラムネが、冷えている訳が無い。第一、この熱気の下に何分間も晒されているのだから、温くなるに決まっている。彼女では無いのだから、熱力学第二法則という物理法則に逆らえる筈が無い。
「あー、そういえば、そうだよね。……そっか、温くなるんだよね」
淋しげに、悲しげに。悪霊は悠い笑みを浮かべる。
その色彩の褪せ方に、何処か不愉快になって思わず声を出してしまう。
「……温いなら、冷やせば良い。氷水に冷剤を混ぜて、何分か沈めてやれば良いだけだ」
「思ってたんだけど、君、芸術家の癖にすっごく理系じゃない? ……あ、理系的、の方が正しいか」
その言葉と同時に、我が家に辿り着いた。白を基調とした、西洋風の、何処かよそよそしい建築。翠い芝生と、白無垢のコントラスト。
丁寧に自転車を仕舞い込んで扉を開ける。
「アトリエで待っていろ。すぐ向かう」
悪霊に指示を出して、僕は一人冷凍庫に手を掛けた。その扉を開くなり、溢れだす霧の靄。視覚化された冷気と、その冷たさが心地良く掌に伝わってきた。
鈍い銀のボウルに、氷を幾つも貯めて塩を掛ける。氷に対して3割程の白い装飾。その後、手早く水を注ぐ。アルミの壁を貫通して、掌に伝わる凍てる熱。
刺すようなその冷たさの中に、瓶ラムネの蒼を沈めた。
「……アトリエで待っていろと、言ったはずだが」
振り向いたその場所には、楽しげな笑みを浮かべた少女の貌。
頬杖をついて、わくわくといった面持ちで彼女が居た。
「君の作業の方が面白そうだったから、此処で待っちゃった」
「ふん、どうでも良いが、其処をどけろ。お前に重なると、視界が塗り潰されるんだ」
瓶ラブコメの沈むボウルを持ち上げて、静かな足取りで部屋を移す。彼女の用事を一つ終わらせたその後は、ラムネ瓶をスケッチしたい。芸は一日にして成らず。何事も、努力と才能が物を言う。
天才であろうとも、否、天才であるならこそ、努力は大きな意味を持つ。天才故に成長効率が高いというのなら、それを効率的に利用してこそだ。
「ね、ね、もう良いんじゃない? もう冷えたって。さ、飲んでよ飲んで! それで教えて、君の感覚を!」
せがまれるままに、瓶ラムネを取り出す。氷の揺蕩う水底に沈んだその蒼を、傷むほどの冷たさに反射的に声が溢れる。
「……お前、これをどう思う」
取り出した瓶ラムネの、その蒼い硝子をにこにこしながら眺める少女。どうでも良い筈なのに、何故だか彼女の言葉を聞きたくなった。
「んー……キラキラ光を弾いてて、蒼く透けてて、表面に浮かんだ雫すら綺麗。でも、冷たくて、ちょっと痛そう」
口の部分に備えられた、玉押しを取り出して、瓶の口にあてがって掌の中心で体重を掛ける。
ぷしゅりと小気味よく響く放圧音と、立ちのぼる二酸化炭素の斉唱が、蒼い夏を告げていた。
硝子のビー玉の擦れ合う旋律と、蒼く透明な甘い香り。
有り得ない筈の色彩を幻視させる、夏の匂い。しゅわりと浮かぶ気泡に口を付ける。
「……甘い、夏の匂い。喉を刺すような炭酸の痛みと、爽快な冷感。舌を切り刻む様な炭酸の弾け様と、僅かに感じる甘味料の甘さ。……三流の、夏の味だ」
傾ける度にビー玉が硝子の壁を叩く。カランと澄んだ音程が、減じて行く空洞の中で高く響く。
過ぎ去る時間を幻視させる、不可逆的な夏の味わい。
「三流かぁ、ま、そりゃスーパーの奴だしね。でも、それでも……すっごく夏っぽい味でしょう?」
カランと響く、最後の音色。
それは遠い、蒼の録音。
はや辿り着けぬ、夏の幻想。
「……チッ……あぁ。……夏の、味だ」
喉を焼く炭酸と、甘い冷感が消えると、アトリエに溜まっていた熱い熱気が、交通事故の様に僕を現実に引き戻す。
飲み干された蒼い瓶の、抜け殻の様なその在り方。
「僕は、スケッチを始める。お前はどうする」
クーラーを操作する片手間に、何気無く彼女に問うた。
「んー、テレビ見てても良いんだけど……今は君の、スケッチを見てたいかな」
はにかむように、歌うように咲う彼女の横顔に少しだけ、色の明くなった様な錯覚を憶える。変わらない筈の死人の貌、永遠に凍り付いた筈のその死。
澄んで行く夏の熱気と、澱みなく進む鉛筆の音。冷え行くアトリエの、ラムネ瓶の影と共に。
──少女は、一つの未練と訣別した。




