サマーレコード・ファンタズム Ⅱ
それは、酩酊にも似た浮遊感。
ふとした拍子に完成したルービックキューブの様な、意識の覚醒。投げ出していた四肢に静かな力が籠って行く。
寝ぼけ眼を擦り、重たい身体を起こして行く。
「朝、か」
紡いでみた言葉は、掠れた様に嗄れていた。
時計の針は八時を少し回る頃。カーテンの向こうに除く、瀬途の蒼は今日も鮮やか。穏やかな海と、快晴の蒼穹。
染み入るような、蒼い空。
閉じた扉の向こうからは、音は何一つ聞こえない。
いつもと変わらない、沈黙の静寂。壁紙の白とは、些か彩度の違う扉の白。壁のそれより、幾分か色の濃い白を押し開ける。
朝日の差し込む、明るいリビング。机と椅子と、ソファとテレビ。何一つ変わらない筈の、僕の家の僕の部屋。
変化など何一つ考えていなかったその箱庭に、ただ一つの月が浮かぶ。蒼と白の、鮮やかな死人。海月の様に丸く宙を揺蕩う少女のカタチをした悪霊の姿。
衣服には影が在る癖に、床には影を落とさない。有り得てはならない非現実的な現実の証明。
見ていると苛立たしく、呪わしく、悍ましくも美しいと、そう想ってしまうから。目を逸らす。視界に入れないように顔を背け、日常のくだらない、何一つ変わらないルーチンを繰り返す。
洗面所で顔を洗う。冷たい水道水の洗礼が、眠気の最後の一欠片を洗い流す。
「おはよ」
澄んだ朝の静寂を、少女の声が否定した。
鏡には何一つ変わりのない、僕の顔と背後の棚だけが映っている。だというのに、背後から確かに悪霊の声が聞こえてきた。
「っ!?」
神経を逆撫でする、道理に合わないという困惑。
何一つ変わりの無い鏡の中の風景と、蛇口から流れ続ける水の飛沫。その水音が、引き伸ばされる様な意識の展延。
困惑による、思考の加速。
ふと、飛沫いた水の冷たさが、加速した思考を引き戻す。
「驚かせるな、悪霊!」
悪霊は鏡に写らない。今日最初の発見は、最悪な事に彼女に対するものだった。息遣い、風の揺らぎ、音の反響──およそ、気配と呼ぶべき一切のそれが無いのなら、彼女に気付くのは至難の業。
忌々しく思いながら、今は濡れそぼった顔を拭う事に専念する。
柔らかなタオルの触感と、清潔を示す純潔の色彩。水分を拭い取って、振り返る。
「何故、態々僕の背後に立った」
目に飛び込んでくる、蒼と白のコントラスト。鏡越しには映らない癖に、僕の目には映る非実在の異常現象。
そこに本当に居るのかさえ、怪しくなる。
──だが、あの感情の奔流は。あの生の発露は。
あぁ、認めよう。他ならぬ僕こそが、僕に証明しよう。
僕の感覚が、僕の知性が、僕の思考が、証明しよう。
彼女は、そこに実在するのだと。
絶望的なまでの、存在承認。煩わしく悍ましい、彼女の生を、認めよう。
僕の理性が否定しようとも。僕の感性が承認すると云うのなら。
僕自身に対する、絶望と納得。
何処まで厭い呪おうとも、感じてしまうの美しさ。
認めたくないのに、認めざるを得ないこの矛盾。
本当に、呪わしい。
「おはよう、って返してくれないの? 駄目だよ、挨拶はきちんとしなきゃ。リピートアフターミー、お・は・よ・う」
暫しの沈黙。鏡の中には、おそらくは僕一人だけが硬直している様に映っているのだろう。
「お・は・よ・う!」
悪霊の、触れる事すら出来ない指先が、それでも僕の肩先を突く仕草。何を考えているのか、返答を求めてくる。
無視してしまっても良いが、この様子なら、耳元で喚き続けるくらいはしてもおかしく無い。
「チッ……おはよう。……これで気は済んだか?」
「うん! けど、今日はそれだけじゃない、って憶えてるよね?」
悪霊は華やかな笑みを浮かべ、何が楽しいのかからからと笑い声を溢す。そのまま、ふわりふわりと宙を揺れ、壁を通り抜けたり戻って来たりと視覚が喧しい事この上ない。
僕が忘れている筈もないというのに。
彼女の、悍ましくも美しい色彩を、一体誰が忘れられるものか。
「静かにしろ! 音だけでなく、行動もだ!」
否応なしに引き込まれる、他人との無意味にしか思えない相互干渉。無駄にしか思えない、感情と言葉の遣り取りが煩わしい。
「えー、うるさいかな、私。音は立てて無いと思うんだけど」
「人の目の前を、ふらふらふらふら飛び回るな! 邪魔だ!」
彼女の存在は、歩くのに邪魔だ。すり抜けてしまうとは云え、その瞬間は視界が塞がれる。彼女の厚みを通り抜ける度に、視界は黒く閉ざされる。瞬きよりも尚長いその一瞬。
邪魔でない訳が無い。
「そんなに邪魔なら、早く行こうよ! ラムネ! あ、でも、朝ご飯は食べないとダメか……ね、ね、朝ご飯は何食べるの? やっぱり、何だか小洒落たもの?」
「サプリメントと、栄養ゼリー。後、水。身体を動かせる分のエネルギーを補給できればそれで良い」
冷蔵庫にストックしておいた栄養ゼリーを一つ取り出す。鈍い銀色の無機質なパッケージが手に馴染む。どろりと、粘度を帯びて揺れる液体の、その存在を指先で感じ取る。
「……美味しいの、それ」
「白葡萄味だ」
柔らかな黄緑の、たわわに実る葡萄の房。橙を帯びた柔らかな陽射しが映えるのだろうか。
口にしたせいで、色彩が脳裏を過ぎる。
構図と奥行き、配置と立体感。感触と彩色。
「……お前、ラムネをどうやって飲む気だ?」
ふと、思う。何もかもが通り抜け、食事すら必要無いと云うのに。一体全体、彼女はどうやってラムネを飲もうとしているのか。
無駄にする為に買う気は無い。無意味、無駄、無価値。そんなものに裂くリソースは無い。
「どうしよっかな、ってずっと考えてたんだけどさ……君が、教えてよ。ラムネの味とか匂い、感触……ラムネを飲む、って事を表現してよ。出来るでしょ、芸術家さん」
「ふん。僕は芸術家ではあるが、物書きじゃない。絵描きだ。言語化させたいなら、他をあたるべきだったな」
「えー、できないの? あんなに偏屈で理屈っぽくて、意地悪なのに」
愉快そうに。嗜虐と愉悦の滲んだ眼が僕を映す。
完璧な立体構造、完璧な造形。なのに影の落ち方が狂っている。美しくも腹立たしい、蒼と白。
「……チッ……出来ないと、誰が言った」
言語化だと? 結構、やってやる。写実を至上とするこの僕が、世界を切り取る事を至高とするこの僕が、言語化が不得意である筈が無い。世界の言語化なぞ、絵描きに必要な技能の一つだ。
構図、奥行き、配置、立体感、感触、彩色──。見たものの要素を、その悉くを。脳内で言語化し、カンヴァスという小世界で再構築する者を、絵描きと呼ぶのだから。
「あ、ちょっと、もう言っちゃうの!? せめて、一声掛けてよー!」
玄関扉を押し開けて、一歩外へ踏み出した。思わず手を掲げてしまう程の、雲一つない究極の蒼。
溶かし呑む様な熱気と、悪霊の喧しい声に腹立たしくなってくる。後ろ手で玄関扉をガチャリと閉め、カチリと鍵を掛ける。
悪霊はどうせ物質を透過するのだから、鍵を掛けたって問題は無いだろう。
「……仕舞い込まずに、放置したままだったか」
悪霊に追い回されたせいで、打ち捨てる様に伏せてあった自転車を押し起こす。何処にでも在るシティサイクル。量産品の、無価値に近いその車体。鍵も掛けずに放置していたのに、盗まれたりしていないのがその証左だ。
「新街の方まで行けば、ラムネの一つや二つ、売ってるのか……?」
自転車に跨り、漕ぎ出そうとするその寸前。瓶ラムネなぞ、何処に売っているのか知らないという事に気が付いた。
「この時期、スーパーとかで普通に売ってるよ。道知らないなら案内するけど、要る?」
「要らない。僕にはこれがある。道案内なんて、スマホの方が確実で便利だ」
ポケットから取り出した端末を見せ付ける。あまり使う事の無い、文明の産物たるそれ。使用頻度こそ少ないものの、便利である事は明白だ。
「え、スマホ持ってたの? 君、すっごい偏屈だから『スマホなんて必要無い。持っている必然的が無い』とか言ってると思ってた」
「僕は殆ど隠棲しているとは云え、付き合いは有る。画廊や、展覧会から連絡が来る事もある。通信機器は必要だ」
天才、神童、錦木の後継。僕を意味する名は幾つかある。
その名の下に、国内外の各所から声が掛けられる事もある。大抵は断っているが、僕の『月』や『海』を求める奇特な連中には頷く事もあるのだ。
最低限の社会との契約。
描いた以上は、描かれた以上は、誰かに見て貰いたいというその欲求。厭っている筈なのに、誰よりも何よりも、僕自身の業の深さに辟易する。
「はえ〜上手いとは思ってたけど、そんなに凄かったんだ」
間抜け面で、目を丸くする彼女の浮遊感。幾度見ようと、決して受け入れる事の出来ない現実の異常。
皺、影、揺れ。何から何までおかしいのに、それを美しいと感じてしまう自分が呪わしい。
「……見たのか、一体何処──アトリエか……まぁ、良い。侵入を禁じてはいなかった。……が、何だその低レベルな感想は。表現技法の粋を凝らせとは言わないが、もう少し他にあるだろうが」
本質的に、感想なんてどうでも良いものだ。
言葉が稚拙だろうが、少なかろうが、良いものは良い。価値があるものは価値がある。僕の絵を見た。ただその事実だけで十分だ。
僕の絵の為に時間を割いた。それで十分。
本質的に、意味の無い『芸術』に、何よりも価値のある時間を割く。その浪費こそが、芸術家に対する究極の称賛である。
悪霊に言ってはやらないが。
「なら、ちょっと頑張ってみようかな。私の為にやってもらう事もあるんだし、私もやってあげるのが公正、って事でしょ?」
「チッ……勝手にしろ」
ペダルを踏み込む足先に、無駄な力が籠る。
苛立ちと悪態の入り混じる、詳細不明な自己の感情。その衝動を、人は何と呼ぶのだろう。




