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Epilogue

 人は醜い。けれど美しい。

 結局の所、二元論で分けられるものでは無いのだ。醜いと美しいは共存し得る。醜さの中に美しさがある。


「────動くな、葵。デッサンが狂う」


 陽の光が燦然と差し込む工房の中で、僕と彼女はカンヴァスとイーゼルを挟んで向き合っていた。

 手の中には絵筆、左手にはパレットを手にして白い小世界に色彩を乗せて行く。


「狂わないでしょ、私がめちゃくちゃに動いてもさ。君、目隠ししたままでも描けるんだから」


 椅子に座って大人しくしていた彼女は、とうとう痺れを切らしたのかふわりと浮き上がって辺りを舞い始めた。長い髪を揺らしながら行く様は、さながら海中に揺蕩う海月の様だ。


「理論上出来るのと、実際にやるのは別の話だ。有り体に言えば、疲れる。出来なくは無いが率先してやりたい訳では無いんだよ」


 先ほどまでの記憶を頼りに、筆を動かす。色の濃淡で影を描き、絵の具の重なり方で色彩を表現する。

 彼女を描く上で重用なのは、その透明さだ。吹き抜ける蒼穹の様な蒼さと純粋無垢な白のコントラスト。無闇矢鱈に色を重ねれば、汚らしく表現する事になるその色彩。


 細心の注意を払って、カンヴァスに絵の具を重ねて行く。僕の真横までやってきた彼女はその作業を暫く眺めていたが、飽きたのか何処かへフラフラと泳いでいった。


 こう云う時、大抵は屋根の上で眠っているか飾っている絵を見ているかのどちらかだという事を、ここ数年の生活で把握している。

 彼女が触れ合えるのは、僕だけだ。それ以外の物質とは、やはり以前のようにすり抜けるだけ。


 彼女一人で本は読めないし、物は食べられない。

 ……いや、味に関しては分かるらしいが。彼女を存続させるのを手伝って貰った安倍立香が言うには、『オマケだァ。味覚くらいなら共有できるようにしておくよ』との事らしい。


 何でも僕が食べた物の味が、彼女にも伝わる様になっているのだとか。そのせいで珈琲を飲む度に、葵は僕をじとりと睨む様になった。面倒なのでオンオフできる様にして欲しい。


「お昼だよー、そろそろご飯にしよ。今日は何食べるの?」


「……もうそんな時間か」


 そんな事を考えながら作業を進めている内に、随分と時間が経っていたらしい。時計をみれば長針と短針が重なって、ぴったりと12の数字を指し示していた。


「何を食べたい。あぁ、面倒なものは──」


「揚げ物食べたい。天ぷらとか。作ってよ〜」


「油の後片付けの面倒さを、知っているのか?」


 油だけでは無い。具材のカットに天ぷら粉の作成、後片付けまで面倒な料理だ。油も飛び散るせいで、掃除するの一手間掛かる。

 揚げ物なんてものは、作るものでは無く買うものだ。


「絵のモデル、やってあげてるでしょ? それとも、天ぷら作れないの? それなら許したげるよ〜」


 見え透いた挑発だ。僕はその程度の言葉に乗せられる事は無い。だが、そう思われたままでいるのも癪だ。

 別に作れない訳では無い。料理は科学だ。きちんとした手順(レシピ)通りにやれば、失敗するはずのない再現性を持っている。


「良いだろう、昼食は天ぷらだ。その代わり、暫く大人しくしていろ」


「やった! じゃあ、大人しく待ってるね。それとも、隣で応援しててあげようか?」


「要らん、大人しく待っていろ」


 空を舞う白影と、ふわりと顔にかかる繻子。空中を飛び交う人型という異常。非日常の象徴そのものたる幽霊の彼女。こんなにも、異常でしか無いというのに。いつしかこの異常が日常になった。


 遠く、窓の彼方に覗く海原を見やる。

 蒼く凪いだ大海と、無限に広がる蒼穹の蒼。染み入るようなその色彩に、ふと笑みが溢れる。


 淡く、この日々を想う。

 1秒1秒が愛おしい、永遠よりも長いこの日々を。君といれば、何だって色鮮やかに彩られる。短い生に、色濃い日々を乗せて行く。

 この人生という名の描画は、なんとも面白く、また楽しい。


「──葵、明日は何がしたい」


「んーと、ねぇ……新街にでも行ってみる? 何か新しい本が欲しいな、私」


「良いだろう」


 なんてことは無い、明日の予定。そんな簡単な事ですら、心躍る。静寂を裂く彼女の一声、その音の響きを心待ちにする自分がある。


 あぁ、願わくば。この色鮮やかな日々を君と。

 悍ましい程に美しく、呪わしい程に鮮やかで、泣きたくなる程に蒼い色をした君と。

 夏の様な君と。


 蒼を名に冠す、君と。

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