サマータイム・パラドクス Ⅱ
ペダルを踏む足先に力を籠める。ギアを廻し、車輪を回転させる両足を更に強く、更に確かに加速させる。
しゃっ、しゃっ、しゃっと、チェーンの廻る音が小気味よく耳朶を叩く。
閑静な住宅街。地方都市故の、人の少なさ。静寂だからこそ選んだ隠棲先の、その沈黙を他ならぬ僕が破る。
「何故、着いてくるんだこの悪霊────!」
額には汗、総身に纏わりつく茹だる様な夏の暑き。
表情が崩れる。思考が淀む。風を切る度に感じるその冷たさが物足りない。滝のように溢れる汗が、酷く不快で煩わしい。
「君が逃げるからでしょ!? 私を轢いたんだから、その責任くらい取ってくれる!?」
「すり抜けるものを、どうやって轢くって云うんだ!」
「私の心を轢いちゃったの! 心の殺人ならぬ心の衝突事故なんですけど!」
意味不明な理屈で迫りくる悪霊。必死になって自転車を漕ぐ僕を嘲笑うかの様に、奴は空中を滑る様に翔んで軽々と並走してくる。
いや、それどころか時には僕を追い越して進行線上に現れて邪魔をしてくる始末だ。
尤も、すり抜ける事が認識できてている今は無視して突っ切るだけなのだが。
「これで4回目! 私を4回も轢いたんだから、責任取ってよね!」
「消え失せろ、悪霊! 僕の前に姿を現すな!」
必死になって自転車を漕ぐ。僕が選んだ隠棲先が此処で良かった。昼間だと云うのに、此処には人はいない。
存在したとしても、金のかかった家の中だ。高級住宅街たる君之宮の建築は、防音のしっかりしたものであるが故に。
お陰で僕の逃走は、誰に知覚される事も無く、棲家たる家屋にまで辿り着けた。
「チッ、これでも入ってくるか……!? いや、招かれない限り入れない筈だ、あぁ云う化物は──」
吸血鬼は、家主に招かれない限り人の家に入れないと云う。
ならば、あの悪霊もまた、我が家に入って来れない可能性がある。というかあれ。入ってくるなよ、僕の聖域に。
カチリと鍵を掛ける。誰も入って来られない様に。誰にも僕の平穏を荒らされる事の無い様に。確かに、きっちりと、確定的に鍵を掛け扉を閉ざす。
──奴は何処だ?
息も絶え絶え、総身が滝のような汗と熱気に包まれる中、脳髄だけは冷静に思考を廻す。
ふと、気付いた。あの悪霊の姿が、見えないという事に。
諦めて何処かに消えたのか、或いは撒く事に成功したのか。
或いは──
「これでもう、逃げ場は無くなったね、ひき逃げ犯さん」
最悪のパターンであった。
悪霊の姿が見えないのは、失せたからでも、撒けたからでも無く。既に先回りして、僕の家の、そのソファを占拠していたからだった。正確には、ソファの存在する辺りでぷかぷか浮いているだけだが。それでも、邪魔ではある。
あんなものがあったのでは、寛げる自信が無い。
悍ましい程に美しい色彩が、神経を撫でるようで。
「チッ、分かったよ、降参だ。要求を言え、聞くだけは、聞いてやる」
両手を上げて白旗を振る。理外の化物相手に、常識的な手段での逃亡など不可能だったのだ。
あぁ、面倒な事になった。悪霊に取り憑かれてしまった。僕が、或いは、この家が。
「殊勝だね。宜しい! なら、私の要求を伝えましょう!」
悪霊はソファから飛び上がって、白と蒼に包まれたその肢体を優雅に揺らす。薄い胸を張って、自信げに、楽しそうな笑顔を浮かべて。
「喧しい。一々声を張り上げるな。というか、何故お前は喋れているんだ。物質を透過する癖に、大気は揺らすなんて道理が合わない」
「理屈っぽいなぁ。ちょっと、今は静かに私の話を聞いてくれない?」
しぃ、と口元にピンと立てた人差し指を当てて子供でもあやすかの様なジェスチャーをする悪霊。
重力を無視して浮かび上がるその姿。物理法則を無視して、楽しげに笑うその笑みが、腹立たしくなる程に、画になって。その事実が、余計に腹立たしい。
「私、やりたい事があるんだよね。……ラムネを飲むとか、お祭りに行くとか、海に行くとかさ」
切なげに、淋しげに。もう二度と、取り返せる筈の無い過去を想う様に。彼女は薄く、儚く、蒼く透き通る透明な──悲しそうな、笑みを浮かべた。
「そうか、好きにやれば良い。何処へなりとも飛んでいって、好きに時間を過ごせば良い。時間なんて、お前には幾らでもあるだろう」
途端、その笑みが消え失せる。消え失せろと言ったのは表情では無く、その存在だと云うのに。
「誰かと一緒に生きたいの! 友達と、一緒に! 一人でやっても楽しいだろうけど、やっぱり人とやった方が楽しいでしょ?」
浮かぶ表情は、赤い怒り。にじり寄った眉間と、むっとした表情が彼女の怒りをありありと示していた。
違う、そうじゃない、とでも言いたげに。
実に面倒な悪霊である。
「そうは思わないが。他人に合わせるなんて疲れるだけだ。楽しい事は、一人でも楽しいものだ」
「──から」
「何だ、はっきりと言え悪霊。言わないなら何処ぞへ失せろ。僕は忙しいんだ」
囁き声の様な。擦れ合う葉々の様な。或いは蠢動する虫の様な。
あまりにも些細で、聞き取り困難な声が聞こえた。僅かに聞こえた音からは、羞恥と怒りと興奮と──理解の出来ない、感情の奔流が籠められていた──ような気がする。
「君に、付き纏うから! 私の要求を呑むまで、『はい』って頷いて私の『やりたい事』に付き合ってくれるまで四六時中、二十四時間、三百六十五日──幽霊の、有り余る時間ぜーーんぶを使って、付き纏うから!」
「何故そうなる! このストーカー! 良いから何処かへ失せろ!」
これは霊能者の類を探す事を真剣に検討しなくてはならないかもしれない。幽霊が実在するんだ、本物の霊能者が居て、『破ーッ』と謎の力で除霊してくれるかも知れない。
非論理的存在の駆除には、やはり非論理的存在を使うべきだ。
本当に取り憑いてくる様なら、そうしよう。
そう、決意を固めて、始めて彼女の顔を真っすぐに見た。
絹の様な光沢纏う黒の長髪は何ら物理的な干渉を受ける事無く真っすぐに落ちて、切れ長の瞳は伏せられて。
大人びた容姿の、けれど僕と然程歳の変わらない幽霊の顔が、そこには在った。
「だって──」
伏せられた瞳がパチリと開けられる。色素の薄い、アーモンド色のヘーゼルアイ。何が悲しいのか、或いは痛いのか、僅かな涙を浮かべる少女の顔。
相対するソレが、死人である事すら忘れてしまう程の、圧倒的な存在感。感情が激しく揺れ動く、その情動を予知させる激情の気配。口火が切って落とされる様に、パチリとブレーカーの落ちる様に。
少女は、感情の粋を籠めて言葉を編む。
「だって! 私を見てくれたの、君だけだったから! 君しか、私を見てくれない! 皆、皆──誰もが恐れる交差点の幽霊を、君だけが怖がらずに──剰え、皮肉と暴言を吐いてみせた」
絶叫。言葉の端から端まで、溢れる程の感情の籠められた音の列なり。その言葉に籠められた、切実な、胸を引き裂かんばかりの存在証明。震えるほどの、生の発露。
「──チッ……悪霊、お前、名前は?」
息を潜める様に、死人の様に。反転した生き方をしていたからか。どうにも毒気を抜かれてしまう、そんな気分になってしまった。
或いは、重ねてしまったのか。侮辱にも似た、自己投影。
碌でもない僕を、どこまでも蒼い彼女に見てしまったのか。
「──え?」
呆けた様に、少女は困惑を意味するハテナマークを無数に浮かべる。淡いヘーゼルアイに湛えた僅かな光がキラキラと煌めいて──実に、感情が揺れ動く。
絵を。画を。君を。
この風景を。この刹那を。この光景を。
真っ白なカンヴァスに、蒼と白の軌跡で鮮烈に、美しく描きたい。そう、思ってしまった。
──人物画なぞ、もう二度と描きたく無いというのに。
「名前だよ、お前の。付き合ってやるって言ってるんだ、お前の『やりたい事』に。……片手間で良いのなら、だがな」
暴力にも似た感情の発露を縊り殺す。もう二度と、決して。
僕は人間を描かないと、そう決めたのだから。
僕は、僕自身を、決して裏切らない。
僕だけは、僕に嘘を付かない。
そう、決めたのだから。
「─────葵。私の名前は、桜木葵。それで、君の名前は?」
それは、救いを見る様な。
哀しみと、嬉しさと、喜びと、驚きと、表現しきれない程に豊かな人間の感情の、その多くが綯い交ぜになった、綺麗な微笑みだった。
人間を醜いと、そう断じた僕が。
他ならぬ、人間そのものである感情の奔流を、綺麗な微笑みだと想ってしまった。
これは、僕の敗北なのか。或いは、勝利なのか。
芸術家としての、絵描きとしての感性が、僕そのものたる想いすら凌駕して、『美しいモノは美しい』と、そう定義したのか。
影の落ちる事の無い君を。
西日に揺れ続ける君を。
夏の陽炎の様に儚い君を。
「錦木沙也。悪霊に取り憑かれた、哀れな絵描きだ」
蒼を名に冠す、君を。




