サマーレコード・デュオ Ⅱ
降り出した雨が、朝霧と混ざって世界を白く染め上げる。
その不確かな世界を、確かに感じる足裏の、ペダルの重みと共に駆け抜ける。こびり付いた夏の熱気を拭い去る、冷たい洗礼。
ペダルを踏む足に、容赦なしに跳ね返る泥水の汚濁。
1秒毎に体温を奪い取る冷たい雨。
「──────」
何かを叫びたくて、息を吸い込んだ。けれど、結局、吐き出すべき言葉は見つからない。喉が熱くて、肺が引き攣って、言葉が出ない。
耳の奥で遠く鳴り響く悲愴の残響。絶望に射す曙光。昏い夜の荒野を行く様な、重く苦しいその音色。
この道行の果てに、何があるのだろう。
よく知りもしない彼女の為に、何故僕はこんな愚かな真似をするのだろう。彼女の過去なんて、何一つ知らない癖に。何故こんなにも悲しくなって、彼女の消滅を拒みたくて、愚かしくも雨の中を行くのだろう。
この身体を突き動かす、この感情のその色彩と名を。知りもしない、理解し得ないこの情動。
遠く夜空に輝く様な、ふと温かく胸に咲くこの衝動。彼女の笑顔を見る度に脳裏に過ぎる、鮮烈な色彩とは似て非なる、激しい感情。描きたいのでは無く、手を伸ばしたくなる、その意味不明さ。
雨脚が強まり、視界は滲む。
吐き出す息が白冷めて、雨音すら聞こえなくなって。体は燃え上がる様に熱を吐き出し、雨の冷たさを否定する。
坂を駆け降りる衝撃が、泥水と共に跳ねて顔を叩く。
白く染まる視界。それは雨のせいか、はたまた煩い程に鳴き喚く心臓の鼓動のせいか。肺に感じる焼き付く様な熱、拍動する心臓が送り出す鮮血の、その熱さ。
「……っ、は、……ァ、 ッ!」
胸の奥が焼けるように熱い。喉を通り過ぎる空気は、冷え切った氷のように冷たいのに、身体は沸騰したかの様に恐ろしく熱い。
空虚な胸を焦がす様だ。
胸を焼く熱量の中で、自問自答に思考を落す。
何故、僕はこんなにも奔るのか。
ただの幽霊だ。夏が生んだ、幻覚の様な、不確かな夢だ。生き物よりも、何よりも幻覚に近い、そも、存在しているのかどうかすら不確かな存在だ。
彼女の事を何も知らない。どんな風に生きていたのか。どんな本が好きだったのか。ピアノは誰に教わったのか。昨夜の祭りで、何故あんなにも不細工なぬいぐるみを欲しがったのか。
──何故、死んだのか。
何一つ。本当に、何一つ彼女の事を僕は知らない。
いつか見た彼女の感情、色鮮やかあの色彩だけが、僕にとってただ一つの知り得た真実。
雨水と泥水に汚れた視界の奥で、あの色彩だけが色鮮やかに網膜を焼く。激しく明滅する、光も闇も混ざった生の咆哮。
切実な、胸を引き裂かんばかりの存在証明。震えるほどの、生の発露。
悍ましくも美しい、人間故のその色彩。
何も知らないからこそ、決して失う訳にはいかない。言葉で理解する前に、他の何でも無い僕の感性そのものが、彼女の美しさを認めたのだから。
論理は感性の後に付いてくるものだ。人間の歴史とは、不確かなモノを確かな言葉で証明し続けた歴史だ。
思いが、感情が、祈りが、仮説が先にあり。幾年月を経て確かな論理として回答する。
瞬きのような刹那の旅路。数多の人間が人生を捧げたその道行き。その彩りを、美しいと言わずして何と云う。
だからこそ。
彼女の色彩を、失う訳にはいかない。
「はぁ、はぁ……はァ……ッ!」
泥を跳ね上げ、風を斬り裂き、ただ一点。メモに指し示された住所へ向かう。視線の先、霧と雨の煙の向こうに佇む瀟洒なコテージ。
真っすぐに通りを走り抜けて、その門を叩く。
自転車を放り出して、濡れた靴のまま石畳を走り抜け、沈黙と共に佇む深い茶色の扉を叩く。
「安倍、立夏……!」
声は雨に掻き消され、肺からは熱い喘鳴が溢れる。
玄関の扉は、僕がノブに手を掛けるより先に開け放たれた。
「おはよう、錦木君。……描くのかい?」
灯りの下に佇む彼は、凍える様な違和感と、この世ならざる異物感と共に言葉を紡いだ。伏せられたままの眼と、ふと目線が合う。
滴り落ちる雨水さえ意識の外に溶け落ちて、彼の胸ぐらに縋るように一歩踏み込む。
「教えろ、僕は、彼女を! あいつを、繋ぎ止めるには、どうすれば良い!」
「君が彼女を描けば良い。いや、正確には……人であれば……いいや、君が完璧に世界を描けるなら題材は何でも良い。世界が誤認し、魂が器と知覚する程の、圧倒的な現実感。人の領域を踏み越えた、超常の画を描けば良い」
両肩に、彼の掌が置かれる。冷たく怪しい雰囲気と相反する、温かな体温。それが掌から、濡鼠の僕に伝わって。彼もまた、人間なのだと実感させた。
「ただし、それだけで彼女が宿るとは限らない。
君が出来るのは空の器を築くだけ。宿る宿らないは、魂の方が定めるんだ。少なくとも、桜木君に意識が無ければ成立しないだろう」
「ッ、それ、じゃあ……」
彼女は眠っている。高らかに紡がれた悲愴の残響と共に、アトリエの中で独り眠っている。そんな彼女を叩き起こす方法は、僕には存在しない。
「……任せ給え。彼女を起こすぐらいの事は私がやろう。その代わりに」
何でも良い。僕が渡せるものは、何でも渡そう。
あの色彩さえ、彼女さえあれば、良い。金も家も、過去すらも。彼女と比べるべくも無い。
「君のサインを、貰えないかなァ?」
それはいつか聞いた、空虚な言葉。平坦な声色と、感情を感じさせない声調で紡がれたその音律。
何一つ分からない、彼の事。凄まじい異物感と、凍て付く様な冷たさを帯びた彼の立ち姿。何もかもが空虚で、平坦で、あまりにも薄っぺらいその振る舞い。
けれど、その言葉は本当だったらしい。
「幾らでも。僕のサインで、良いのなら」
彼の差し出した色紙に、さらりと僕の名を刻む。惑い、悩み、悔み、間違い、ゆがみ続けた絵描きの名を。
彼はその文字列に目線を落とすと、ふと口の端を綻ばせた。
「交渉成立だ。……縁君、行くよォ」
「イエス・マスター」
彼がその右手をパチリと鳴らすのと共に、何処からか姿を現した縁が僕を捕らまえた。視界を覆う白い柔毛。温かな日差しの香りと、布の柔らかさに目を見開く。
共に、感じる浮遊感。気が付けば、僕は縁の小脇に抱えられていた。
「もう一つ、言っておこう。こればかりは君達ではどうしようも無い問題だ。……まァ、簡単に云えばエネルギーリソースの話だ」
黒塗りの車体。それは昨夜見た、リムジンの形。
空調の効いたその車内に、僕の身体が丁寧に乗せられた。濡れそぼった身体を覆うタオルはそのままに、何処からか取り出されたドライヤーの温風が当てられる。
「如何に超常の存在とて、存在するだけでもリソースを消費する。今までは土地が蓄えた余剰分を使っていた様だけど……画に縛ってからでは、その方式は使えない。土地との縁が切れるからねェ」
言わんとする事は理解できる。人間が生存に栄養素を必要とする様に、幽霊だって何らかのエネルギーを必要とするのだろう。
「器に宿っていれば消費も抑えられる。が、長くは持たない。1年も持たないだろうねェ。あ、知ってる? テレビ番組とかで紹介される呪物って、割と危険なの混ざってるんだよ。1年以上、その神秘が残る本物。人前に晒す事で、その障りを数万人規模で分割してるのさァ」
「如何に強力な呪いと云えど、数万人で分割してしまえば一人当たりは、運悪く躓く程度で収まる。管理者も考えましたね」
大分話が逸れている気がする。
詳しくは無い為、適当な事は言えないが、間違いなく趣旨からズレている。
「……と、それは良いや。本題に入ろう。君が描き、彼女が宿った、その後の話だ。彼女が器を得た後、そう遠くは無い内に彼女はリソース不足で消滅する。それを避ける……或いは、先延ばしにする方法」
そこで彼は口を噤む。平坦で軽薄な気配はそのままに、思案する様に、言葉を探す様に沈黙する。数巡の迷いと、外界の雨の音。
信号を一つ、通り過ぎた辺りで、彼は再び口を開いた。
「君は、その寿命と引き換えにしても。彼女の存続を望むのかな?」
答えは当然、決まっている。どうせ、他に何も無い空虚な人生だ。無価値なモノを価値あるものに変換できるなら、それは望むべくもない幸運だろう。
「──当然。幾らでも、使い潰してくれ」
揺るぎなく、震えなく。断定的な口調で、言いきった。
「……良いだろう。君の生命力を……寿命を削り取り、彼女の方へ供給させよう」
平坦な声色はそのままに。彼は、その瞳を開いて言葉を編む。
瞼の向こうに覗くのは、真っすぐに此方を見つめる、烏紫の瞳。黒曜よりも尚艶めく、その黒瞳が、何もかもを見透かすように僕を見た。
「その負荷と消費で、恐らく君は、30目前で命を落す。
それと共に、彼女もまた限界を迎える。本質的には延命に過ぎないからねェ」
「……短いですね。錦木様の年齢から計算するに、凡そ14年ですか。もうちょっと効率良く出来ないんです?」
14年。長く短い、その人生。寿命を使い潰して、14年。
その延命は長いのか、はたまた短いのか。だが、まず間違いなく、画家としての最盛を放り投げる行為だ。
だが、十分。彼女が少しでも長く存在する方が、良い。
名声などいらない。栄達など必要ない。僕にはただ、彼女がいればそれで良い。
「不可能かなァ。こればっかりはねェ……」
「十分ですよ。余命14年……十分に、長い時間だ」
14年という時間。14年の延命というエゴ。僕の望みで、彼女の死を先延ばしにする。僕の望みで、生命を使い潰して。
エゴだ。他の何でもない、僕の我欲。
けれど、それでも。僕はまだ、彼女の笑顔を見ていたい。




