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蒼を名に冠す、君を。  作者: 夜月詠
Chapter 5
16/17

サマーレコード・デュオ Ⅰ

 夏の夜が明けるのは早い。日暮れは遅く、日の出は早い。四時を回った頃にはもう、夜はすっかり明けていた。

 薄暗い薄明の光の中、海に面したアトリエにて。カンヴァスの前で筆を動かす。


 筆先に載せる色は、紅。夜空を真っ赤に引き裂く、真紅の徒花のその色彩。藍を極限まで濃縮した夜色を、鮮やかに彩る焔の花を咲かせる。


「結局、描くんだね」


「僕にはこれしか無いからな」


 いつの間にか傍らに浮かんでいた桜木が、触れられもしないのにカンヴァスを撫でるような仕草をした。

 夜色の中に咲く真紅の徒花、その色彩の名残を惜しむように。


「花火かぁ……私と、ちょっと似てると思わない?」


 顔はカンヴァスに向けたまま。彼女はその背を僕に預け、ポツリと呟くように言葉を紡ぐ。昏く沈んだ、彼女には似つかわしくないその声色。


「遠くない内に、消え去るなんてさ」


「……何を、言いたい」


「……もう限界、なのかな。日に日に、意識が薄れて行くの。お陰で、起きてられる時間もかなり短くなっちゃった」


 筆を動かす手が、止まる。

 パレットの上で、朝日の輝きを反射する紅がまるで鮮血の様に鮮やかに輝いた。


「……何故」


 カチリと欠片(ピース)が合わさる様に。崩れたパズルが、一気に完成に導かれる様に。様々な言葉が、記憶が、組み合わさって行く。眠る時間の増えた彼女、安倍立夏の『消え去る』という言葉。その全てが、一つの結論を導き出す。


 彼女は死人。彼女は過去。

 死者は死に、消え去るのみ。それが、この宇宙の絶対的な決まりごとだった。


「……ねぇ。最後のお願い、聞いてくれる?」


「何、を──」


 振り向いた彼女は、その手を僕の頬に添えるように。すり抜けるしか無い、その掌を動かした。


「……まだ、色々やりたい事はあったんだけど……これが、最後になっちゃうかな」


 薄い茶色のヘーゼルアイが真っすぐに、僕の事を射すくめる様に見る。その眼には、何も写る事は無い。彼女には光も影も理不尽で不条理な挙動をするから、反射した僕の像が写る事は無い。


「最後のお願い。昔から、友達が出来たらやりたかった事があるんだ」


 淋しげな笑みと、哀しみの湛えられた深い眼。

 その全てが、彼女の消滅を暗示する様で心が揺れる。あんなに煩わしかったのに、あんなに呪わしかったのに。

 掌から悠く、零れて行く。その事実が、僕は──


「ピアノの連弾、付き合ってよ」


 そうして彼女が指差したその先には、一つの黒い置物があった。

 前の住人が置き去った、僅かに埃を被った演奏装置(グランドピアノ)。薄明の光の中で、眠るように鎮座するその筐体を、彼女は星の様に鮮やかな笑顔と共に指差した。


「……僕は、弾けない。だから、弾ける様に──」


 弾ける様になるまで待てと、そう言おうとして。視界が彼女の白に覆い尽くされた。白地に蒼の挿し色の入った夏服。涼やかなワンピースの、その白さ。触れられもしないのに、彼女に抱き締められたのだと知覚して、声が震える。


「何、で」


「大丈夫。私が、君に教える(のこす)から」


 柄にもなく、何処までも甘く優しい彼女の声音。抱き締められているというのに、その温もりも、冷たさも。何一つ感じる事の無い、空虚な体感。彼女の死を、彼女の不在を、斯くも鮮やかに僕の感覚が証明する。


「来て。私の指の通りに、鍵盤を叩くの」


 ふわりと離れた彼女の腕。ピアノの前まで移動すると、彼女はその掌で鍵盤を覆う蓋を叩く。触れられないから、彼女には開けられない。触れられないから、彼女は音を奏でられない。


 跳ねる心臓の鼓動と共に、椅子を引き摺って歩み寄る。

 確かな質量を感じる木製の蓋。艷やかな黒に塗り染められたそれを開けると、白と黒の鍵盤が整然と鎮座していた。


「さ、座って」


 僕が腰を下ろすのと共に、彼女は重力も椅子という物質も透過して僕の隣の、何も無い虚空に腰掛けた。

 鍵盤の上に、彼女の蒼白い指が重なる。その指先に、自分の手を添えようとしても。やはり、その指先が重なる事は無い。


「────そ。そうやって、指を置いて……動かして」


 彼女の指が、鍵盤の上を動くのに併せて僕もまた、指を動かす。白黒の歯を、不慣れに叩く僕の指先。自分のものなのに、自分のものでは無いかの様な錯覚。

 彼女の紡ぐ旋律の導きのままに、音を紡ぐ。


「私が一番好きな曲。絶望に射す僅かな曙光(きぼう)──悲愴の、第三楽章」


 ド、レ、ミ♭、レ、ド、ファ、ミ♭、レ……。

 途切れ途切れに、音が繋がる。本来の旋律には似ても似つかぬ、硬質な音。左手の足りない、右手だけでの不格好な演奏。

 迷いながらも突き進む、ベートーヴェンのハ短調。重い曲調の中に混ざる、疾走感。軽やかながら激しい、そのメロディ。

 彼女にも似た、輪舞曲。


 鍵盤が重い。軽い筈の質量が、僕の指を拒絶する様に冷たく指を刺す。素人の僕が出す音は、本来なら聞くに堪えない雑音にしかならない筈だった。なのに、彼女の指が踊るだけで、僕はその和音を幻聴する。聞こえない筈の彼女の音色。鍵盤の上を行くだけの、彼女の両手。


 音など出ていない筈なのに、彼女の左手が紡ぐ伴奏のアルベルティ・バスが美しい低音となって大気を震わせる。


「……やっぱり、音は出ないか」


「……いや、聞こえる。君の音色が、僕には聞こえる」


 ハ短調の悲劇的な主題がアトリエの壁を、天井を、窓硝子を、僕の心臓を震わせる。激しく焦燥を孕んだ、それでも止まる事を良しとしない疾走する命の音色。

 彼女の導きに付き従って、右手は不格好に鍵盤を叩く。16分音符の分散和音(アルペジオ)。途切れ途切れの不格好な、1音ずつの音階の上昇。


「そっか。……なら、君には私の音はどう聞こえる?」


「暗い夜の荒野に射す、一筋の光。……絶望に射す僅かな曙光(きぼう)と、お前が言ったんだろ」


「そっか。……良かった、伝わったんだ」


 自分が遺した痕跡を慈しむ様に。彼女は目を細める。

 穏やかなその気配と相反する様に、指先は一層の加速を見せた。主旋律の跳躍、絡み合う様な対位法。


 1音1音が、朝露の雫のように滴り落ちては波紋を広げるように意識の海に響く。鍵盤を叩く指先は、いつの間にか重さを忘れ、痺れを振り払っていた。指先に重なる彼女の指、その温度も存在感も感じられなくとも。確かに此処に、彼女は居る。


 音階が激しく上下して、色鮮やかな感情の奔流がハ短調の旋律の中で荒れ狂う。迷い、悩み、悔み、けれど足を止める事の無い旅路の様に。希望を目指す、昏い旅路。

 その歓びを噛みしめる様に、彼女は笑む。


「もう少し……もう少しだけ……大丈夫、まだ、起きてられるから……。ねぇ、沙也君」


 加速する輪舞曲。朧げに霞んでいく彼女の声色。眠気を堪える子供の様に。その言葉の音は、確かさを失って行く。


「楽しいね」


 あぁ、と同意の言葉を紡ぐ。

 同時に、旋律が最後の一小節に辿り着く。激しく、荒々しく、昏い荒野を斬り裂く彼女(ひかり)の様に。低音から高音へ、螺旋を描く様に駆け上がるピアノの音色。

 右手と右手が重なって、最後の鍵盤を叩きつける。


 ──ジャン。


 悠く響く、激しい残響。


 ────。


 静寂。

 耳が痛くなる程の、何一つ音の無い沈黙。


 隣を見る。


 其処には海月の様に丸まって、瞼を閉じて眠り込んだ彼女の姿。

 溶けてしまいそうな程の、希薄に過ぎる存在感。これからは零れて消え行くだけの、儚い在り方。


「──────ふざけるな」


 ふざけるな。散々人を振り回して於いて、こんなに、綺麗に逝こうとするなんて。認めない。僕は──あぁ、くそ。

 僕は。君を。


 手元を見やる。日に焼けていない白い肌と、細い指先。僅かに残ったままの、絵の具の痕跡。彼方には、真白のカンヴァス。

 此処には、手段がある。彼女を縛る、魔の器を描く異常が。


「画を──」


 本当に?


 他者を縛り付ける空の器を。消滅を拒む魔境の業を。

 僕は、本当に。再び描くのか。何が起こるか分からないのに。彼女を救えるとは決まっていないのに。


 再び、人を殺すかも知れない悪魔の業を。僕は、本当に描くのか。


「……」


 沈黙と共に、上着を纏う。目的地はメモに描かれていた住所。陰陽師を名乗る、不気味な彼等の下へ向かうと心に決めて。


 明け放たれた玄関扉から覗く瀬途の空は、曇天の黒と灰の濁りに染まっていた。つと、雫が頬に落ちた。

 冷たい冷たい、凍えそうな程に冷たい夏の雨。鼻腔を擽るオゾンの特有の匂いと、雨の洗礼の冷たさ。


 最後に、彼女の眠るアトリエの方へ目を向けて。

 自転車のペダルを強く、踏み込んだ。

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